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第62回中部日本高等学校演劇大会

各校別講評文

 講評文は、生徒講評委員会と専門家・顧問審査員会のそれぞれで話し合った内容をまとめたものですので、
HPでは文章を書いた個人名は省略します。

東海学園 若狭 富山中部 多治見工業
岐阜総合学園 大聖寺・星稜 勝山南 新城東 桑名西
富山第一 金沢錦丘 大垣北 愛知
四日市 刈谷



 (愛知県)東海学園高校 
                「23.4度にあなたは居る」  刈谷瑠衣 作

《生徒講評委員会》

 人間的な強さや優しさを感じることができる作品であった。委員の中でも、多くの人が強い肯定的な感動を受けた。
自分を見つけてほしいという想いをすなおに出しきれない「僕」を『銀河鉄道の夜』のジョバンニと重ねることで、「僕」の気持ちをうまく描きだしていて、自分の本当の言葉を伝えることの大切さと難しさを実感させられた。そして、その中にみる、「全部、全部、本当は大好きなんだ!」と叫ぶ「僕」と23.4度にいる父親との愛に激しく心を揺さぶられた。
演技・演出の面だが、ダンスも勢いがあり、出だしから一気に観客を世界に引きつける力をもっていた。その勢いの反面、滑舌の問題で聞き取れなかった箇所もあり、想像で補わねばならず惜しく感じた。帽子を使った区別により「僕」⇔ジョバンニの切り替えがとても分かりやすかった。
装置の面に関して、扉の窓のガラスらしさはとてもよかったが、空間が広すぎて電車内の密室性が感じられなく、もっと電車らしく見せたり、空間の使い方を工夫したりすべきという意見が出ていた。
音響については、始まりの部分の音楽を急に下げすぎたのではないだろうか。観客を流れに引き込まねばならない箇所なので、もっとゆっくりと落とすべきではという意見が出た。汽笛は「現実」⇔「銀河鉄道」の切り替えをよく際立たせていた。
照明では、青色が「銀河鉄道」での宇宙や夜をうまく表現していた。また、星球とホリゾントの組み合わせが、最後の感動をより引き立てていた。
最後に、私たちの中で議論となったのは、「僕」が電車を降りた後のエピローグは必要なのかということであった。その後が説明的になりすぎて、せっかくの想像の余地が失われているのではないかという意見もあった。想像の可能性を残したままラストにもっていけたら、もっとよくなるかもしれない。
幻想的な雰囲気の中を駆けるかっこよさを含んだ言葉たちが、私たちにいろいろなことを伝えてくれた。
「花に嵐の例えもあるさ、サヨナラだけが人生だ」
この哀しい言葉に人と人とのかかわりの一瞬一刹那の大切さを教えられた。この劇がもっているどうしようもない優しさが目を潤ませた。


《専門家・顧問審査員会》

自分は本当に愛されていたのか。このことに自信が持てず、いくつもの自分を作って、逃げていく。そんな等身大の17歳の姿が描かれていた作品だった。
言葉を伝える大切さが強調されていたが、滑舌が全体的に明瞭でなく、台詞が聞き取れないところがあったのは残念だった。台詞の多い芝居は、動きすぎない方がよい。
電車の中という場面設定だったが、空間が広すぎて、密室の中という感じがしなかった。いすの配置の工夫など、密室感をだす工夫があればよかったのではないか。音響では、こまかい点だが、最初の汽笛の音がもう少し長い方が効果的だったと思われる。
A・B・Cの登場する場面は、芝居にアクセントをつけていたが、必要だろうかという意見があった。男になりたい「僕」という設定との関連があるとのことだが、芝居の中で男になりたい「僕」の葛藤という設定は、わかりにくかった。
エピローグの場面がやや説明しすぎと感じた。「流」が父親であり、「僕」のことを最初から我が子とわかっていたという種明かしがあるが、台詞で説明しきらず、演技でそれを表現し、見る人に想像力の余地を残す演出法もあるのではないか。




 (福井県)若狭高校 
                「八百姫」 芝田和佳

《生徒講評委員会》

 永遠の命を持っているが故に愛する人を失い命を絶った八百姫と、愛する人を失っても懸命に生きたおばあさん(高木きぬ)を対比させることで、人生や命の尊さについて考えさせる劇である。
 物語の鍵である「八百姫伝説」は、不死の命を持った八百姫が、愛する人たちの死を見送り続けることで目的のない生命の空虚さを感じる物語である。一方きぬさんは、愛する人を失ってもなお、残された娘を育てるという目的をもって生き続けた。二人の対照的な生き方から、高校生たちが命について考え、自ら八百姫の物語を演じる事によって「限りある命の尊さ」「目的を持って生きるという事」について深く考えることになった。
 目的のある人生とそうでない人生、その両極の人生を学んだ高校生たちが得た「答え」に共感出来る、出来ないで賛否が別れた。共感出来る人は「孫娘の里子たちが、きぬに寄せる想い」という点を重視し、共感できない人は「物語の起伏が小さい」「テーマが台詞によって直接的に語られて、観客の想像する余地がない」などといった点を重視した。
 また、里子ときぬの洞窟前での掛け合いから、「生き続けること」について深く考えさせられたという意見や、「椿の花を通して、いつ消えてしまうか分からない命の儚さを感じた」という意見もあった。
 演出面では、きぬが椿を拾うシーンや里子ときぬのすれ違いなど、視覚的に綺麗で整った場面が印象に残った。キャストも年齢に見合った動きや口調をしっかり表現していて、違和感を覚えさせなかった。劇中劇との切り替えは、とても好評であった。小道具(急須、ほうき、椿など)の使い方も丁寧だった。音響面では、雰囲気に合った選曲がすばらしく、演技に合ったイン・アウトのタイミングも劇を阻害することがなく好印象を与えた。照明は、単サスの使い方が上手で、とても綺麗だった。ただ、キャストの動きが小さい上に装置が小ぶりだったため、空間を上手く活用できていなかったように思った。
 全体的に見ると、雰囲気が良く引き込まれる部分も多かったが、物語のテンポが一定で起伏が小さかった。例えば、きぬがはけるまで高校生たちがしゃべらないといった不自然な間を改善していけば、更に多くの人が劇に入り込めるのではないだろうか。
 物語を通して、人生はいくら長くても目的がなければ虚しいものであり、限りがあるからこそ目的を持ち、大切に生きていくべきなのであると思うことができた。


《専門家・顧問審査員会》

 郷土に伝わる人魚伝説の民話(言い伝え)を演劇部で取り上げるためにおばあちゃんの話を元に作り上げるというお話であった。
地元も方言を取り入れながら表現されていて好感は持てた。
 しかし、人魚伝説、演劇部の上演、おばあちゃんを中心とする家族愛などを取り込んでしまったために散漫になってしまった感がある。
 演劇部の発表のシーンでおばあちゃんの具合が悪いシーンがあり、上演では上演中におばあちゃんに何かが起こること。そして、まとめの強く生きて行こうというハッピーエンドまでが容易に想像がついてしまったのが残念であった。
 おばあちゃんと八百姫のエピソードをリンクさせたり、おばあちゃんが亡くなってからのエピソードを描くことが出来たらもっと見ごたえのある作品になったと思われる。
 演技は丁寧に作られよかったと思うが、少し丁寧すぎテンポが悪く見えてしまった部分があるのも残念だった。
 しかし、上手、下手、花道を使い分けうまく見せていたと思う。セリフも明瞭でSE、音楽などもよかったと思う。



 (富山県)富山中部高校
                「秋心SUMMER」 中山アロハ 作

《生徒講評委員会》

 この劇は死についての重み、それについての捉え方、そして死んだ人と周りの人間の受け入れについて描かれた劇であった。同じ世代ということで、見ていて共感が持ちやすいものであった。
全体的な印象として、テンポがよかったというのが一番強かった。ギャグとシリアスの対比がはっきりとしていて、飽きずに最後まで劇に引き込まれることができた。公太郎のキャラが現実離れしておらず、それが身近に感じられた要因だった。しかし、一方で役者が場慣れして凝り固まってしまった、という意見もあった。ギャグで言えば、少し段取りになってしまうところがあり、自由と勢いが失われていたと思う。自由な立場で演じる公太郎に対して、場をまとめるという対照的な立場の人間が入っていたらまとまってくると思う。また、他の役者の演技力が追いついておらず、劇のリアリティが欠けてしまった印象もあった。また、明るい性格の役者が多かったが、悲しみに暮れるという対照的な立場の役者もいるとよかった。ただ、中には葬式であるのにギャグが露骨で不謹慎だ、という意見もあった。しかしそれは、ギャグとシリアスの落差ができればその違和感もなくなるのではないのだろうか。
舞台装置は見ただけで葬式会場ということがわかったのでよかった。また、椅子を人数より多めに置いて空席を作ることによって、公太郎のセリフの悲しさを引き立たたせる効果があったと思う。緞帳が上がる前の音響効果については、音量が大きくて役者の声がかき消されてしまったという意見と、それは演出上の効果であったという意見が出た。
劇を見ていて思ったことは、誰か一人でも想ってくれる人がいれば、自分の人生を満足して、自分の必要性を感じることができるということだった。それは、参列者が多いということよりも自分を本当に想ってくれる人が一人でもいればいいということだとも感じた。それは公太郎がパペットに言わせた「しけとるなー。お客さん、これっぽっちだてか。」というセリフと、対して、最後の場面で参列者に一礼するという行為で表されていたと思う。また、公太郎自身の死の受け入れ方にも変化が出ていたと思う。パペットを使用して強がって受け入れない自分を、そして途中で落とすという行為で死を受け入れたということを表していると感じた。また、死を受け入れられていない周りの人たちを見て、死のあっけなさということを感じた、という意見もあった。最後の公太郎の去り方については、天国への出発という意味と、人生の終わりという二つの意見とに分かれた。
自分の葬式を通して、生きているうちに感じることができなかった周りの想い、人生の価値などについて思い直した公太郎。彼を通して、自分にも想われる人がいればそれだけで自分の人生に意味がある、ということを教えてくれた劇だった。


《専門家・顧問審査員会》

見終わって、こんなに可笑しくて悲しい、しかも爽快な気分にさせてくれるお芝居は久しぶりでした。
お葬式を舞台の上でリアルタイムに行った作品であり、題材が、高校生の死である。これだけ書くとなんと悲劇的な芝居なのだろうと思ってしまうところですが、全くそんなことはなく最初から最後まで気持ちよく見ることのできる心遣いの詰まった構成のお芝居でした。
何点も良いところがあったのですが、まずは、台本が非常に良くねられていると言うところで、随所に(ネーミングやエピソード.)作者のこだわりが見えて、思わずにやっとすることが何度もありました。次に、脚本を支える役者の演技が非常に良かったです。主人公の公太郎くんは言うまでもなく、次から次に出てくる参列者も非常に達者で違和感なくお芝居の世界に入ることができました。また、スタッフワークも抜群で、出てくる小道具や衣装に何度も注目させられました。
あえて、と言うことで上演された作品についてつっこんで述べさせていただくとすれば、あまりに次から次に強烈なエピソードが登場してくるので、エピソードについては、今一度取捨選択ができれば良いかなぁという点。また、人が死ぬことの悲しさは、笑い一辺倒の中では弱まってしまうので、笑いを白としたならば、黒の部分を意図的に強めると言うこともひとつ手ではないかという点。そして、とにかく、不謹慎なことがたくさん起こるので、それを気にせず粛々と1時間進める存在を脚本上に確立しておいたほうが、様々な立場から物を言える登場人物が出てきて良かったのではと思います。
私自身は、参列者一人一人がみんな主人公の公太郎くんのことを好きで、それぞれが不器用だけどそれぞれの表現で何度も「お前のことこんなに好きだぞ〜」と言っているというふうに感じ、生きることって素晴らしい。と、強く感じました。とにかく、今回、個人的に大好きな高校演劇の作品がひとつ増えました。素敵な作品をどうもありがとうございました。



 (岐阜県)多治見工業高校
                「雨女」 伊藤貴晴 作

《生徒講評委員会》

 憂鬱を思わせる雨とは打って変わり、やわらかく心温まる印象的な作品だった。
 自らの役割に縛られながらも、自分らしさ・自分のあり方を見つけようと必死になる雨女の姿に、大きく心を動かされた。
 キャラ一人一人に個性があった。エミは最初は雨女という自己規定に縛られ、自分を肯定できずにいたが、トモヒコが迎えに来ることで心境が変わり、自分を肯定できるようになった。そのことは最後の天気雨や虹にも現れていて感銘を受けた。しかも、それ以外の人物もそれぞれ魅力的で、この劇に奥行きが出た。姉の晴れ女であるハルカは劇中にはまったく出てこない不在の人物にもかかわらず、台詞の力などで人物像がよく浮かんできて感心した。そして何よりカエル君の一風変わった言動が、時には単調な話の流れにアクセントを添えて、時には場を和ませ、ストーリーの展開に良い影響をあたえていた。しかし、そのカエル君の扱いがぞんざいすぎて、カエル君にはどんな役割が与えられているのか、どんな立ち位置だったのかというところがすぐには理解できなかった。それでも、他のキャラと比べ異色を放っており、劇が単調になってしまうのを防ぐのに良い働きをしていた。カエル君は明らかに人間でない難しい役にもかかわらず、上手く役にはまっていたのは役者の演技力もあったし、周りの対応がそうさせていた。作品の雰囲気がやさしく、入り込みやすかったという意見が多かった。
 舞台装置は抽象的で、置いてあったブロックを上手く活用できていた。真ん中に置いてあったオブジェは、観客に場所の設定を想像させるため、様々な解釈をさせる反面、わかりにくさも感じられた。たとえば未来の話なのに遠い神話の時代にも見えてしまったことがあった。
 音響面では歌詞ありの曲を多用していることに対して、気持ちが込められていて良かったという意見と、もっと世界観に合わせた抽象的な曲を選んだほうが良いという意見に分かれた。
 内容面ではわかりにくいところが多かった。それは一方では観客に想像をゆだねるところが多いという長所でもあるのだが、もう少し自分たちで解釈を絞り込んでそれをもっと前面に出して伝えてもよかったのではないか。雨女がなぜ晴れ女の仕事を受け入れたのか、晴れ女はどこへ行ったのかなど、その過程をもっと色濃く描いて心情を十分に理解できるようにしてもよかった。台詞ももっと多彩にしてストーリーを深める余地はあったかもしれない。
 小道具に使っていた傘が効果的だった。たとえば、誰もが知っている傘を初めて使う驚きと喜びがよく表現されていた。また、いちばん最後は絵のようで、観客もおしゃれだと嘆声を上げていた。最初は傘を使うことを拒んでいたエミが、最後には心を開いて傘を広げ、みんなで並び、照明もあいまって、それぞれが自分自身の色を見出し、美しい虹が描かれていた。


《専門家・顧問審査員会》

 虹を見つめるキャスト達。それぞれのキャラクターをイメージさせる色のサスが落ちる。美しいラストシーン。素直にきれいだと思った。「晴女」である姉ハルカがいなくなり、雨ばかりが続きこの世界が終わろうとしている。アメフラスカミである「雨女」エミは、姉がいなくなる代わりに自分がいなくなればよかったのだ、自分が心を寄せているツクヨミにとってもその方がよかったのだと思っていた。自分の存在を受け入れられないエミが自己を肯定する物語。そして、ツクヨミとの恋も叶えられる。
 キャストの中では、「蛙君」の存在が際立っていた。いい意味での無機質さ、周りと同調しないところがよい。計算のない、天然の道化とも言える彼がこの舞台をよりほんわかしたものにしていた。その一方で、他のキャスト達のリズムが少しメリハリに欠け、同じような調子だったとの意見もあった。そこにテンポの異なる蛙が絡むことで、ともすれば単調になりがちなやりとりにアクセントをつけていたとも言えよう。
 音響については、例えば暗転前の音の入り方などすばらしかったが、ボーカル入りの選曲については賛否両論があった。また、夜のシーンの照明は少し暗かったので、前明かりを足すことも必要だったとの指摘もあった。
 シンプルでいかようにも解釈できる装置。キャストの力量もある。すっきりと見やすい舞台である。一点腑に落ちないのは、これは神話であるという設定。神様達の物語であるということがあまり前面に出ていないように感じられた。作者の言う「人間を、人と人との関係を異世界において描きたい」という狙いはよく理解できた。ただ異世界を舞台に借りるなら借りるで、その世界にいかにリアリティを持たせるかは避けては通れない。審査会では、「いっそ衣装を学生服にして、高校生なのに神様の役目を背負わされているという設定でもおもしろかったのでは」との意見も出た。
 終わりは始まり。陰と陽の融合。自分で定めてしまった境界線を越えてみる、そんな雨女の成長に共感できる温かい舞台であった。



 (愛知県)名古屋市立緑高校
                「煙が目にしみる」 鈴置洋孝 原案   堤泰之 作

《生徒講評委員会》

 人と人とのつながりを感じることのできるとても温かみがあり、涙を流す人も多い感動的な劇だった。自分の気持ちを思いっきり投げかけているところに思いの深さや温かい心が感じられとても優しい気持ちになった。家族や親しい人が死んだとき、何を思うのか、自分がその立場に置かれたとき、自分の気持ちをしっかりと言えるのか、そんなことを考えさせられた。野々村さんの家族が父親に投げつける「馬鹿、馬鹿!」という言葉に、もっと一緒にいたかったという思いが込められており、深く胸にしみた。
 全体を通して、人の心の温かさが感じられた。野々村家と北見家、二つの家族の間で描かれる人間模様が、劇を奥深いものにしている。また、二つの家族と、現実と幽霊をつないだおばあさんの存在が大きく頼りがいがあり、人と人とのつながりの大切さをここからも感じることができた。
 それぞれの家族の問題を、同時進行的に取り扱っていることが、この劇を特徴的にしている。対照的な2つの家族が、劇が進んでいくにつれていろいろなところから近づいていく。その中でお互いに言いたいことを我慢していたのを言うようになっていったり、話を聞いていなかったのを聞いていくようになったり、互いに心を開いていき、お互いのことがわかっていく。その中で、すこしずつ人と人がつながっていくのを見て、思わず涙があふれてきた。死者と家族がそれぞれに対して、様々な思いを持っている。生きている間には言えなかったことを、おばあさんがつないでくれる中で初めて言い合うことになる。忙しい日常の中で忘れかけていた、どこかにしまっていた思いや大切なものが交錯しているように見える。そのような思いを自分も立ち止まって自分の心に聞いてみたい、家族や友人とゆっくりと話してみたいと心から思った。現実には何かあってからでは話せないから、そうなる前に話しておきたいのだ。そして、最後に集合写真を撮るときに新しく親しくなった人たちが集まり、一つになったところに、それまで白装束から普段着となった二人が加わることで、本当にみんなつながっているのだともう一度涙をそそられた。
 舞台装置が非常に凝っていて、配置もよく練られていた。舞台を真ん中で切り取るように配置された窓から見える桜が美しく、特に最後の場面で照明とも相まって本当に一つの写真のように見え、とても印象的であった。無駄な動きがない演技も、物語に引き込まれる理由のひとつである。表情の変化、小道具の使い方も丁寧で、静の動きでも、飽きさせないパワーがあった。ただ、後ろ向きのため止むを得ない所ではあるが、座席によっては亮太の最後の重要な台詞が聞き取りづらかったのが惜しい。しかし、幅広い年代層をしっかり演じられていて、役者たちの力量の高さを感じた。
 身近な人をはじめとして、いろいろな人との心のつながりを大切にしていきたい。それがたとえ北見さんのように年齢差の離れた男女という、一見受け入れられないような関係であっても、そこには奥さんに対する愛がなくなったわけではなかった。奥さんが亡くなった後も新しく出会った人に心を惹かれるのはそれで自然なことだと思うし、そういう自然な人への温かな思いというものでさえ大事にすべきものなのかもしれない。
 実際、私たちの世界にはおばあちゃんのような存在があるわけもないから、死者と会話することは不可能である。遺された人たちにできるのは、死者がどのような思いを自分たちに残していったのかを想像することなのだろう。
 煙が目にしみるというタイトル通り、人の心の温かさや別れの切なさが心にしみてくる劇であった。


《専門家・顧問審査員会》

  出だしは上々の舞台
白装束の人物二人の珍妙なやりとりから芝居が開け、まず観客の興味を引く。煙草のエピソードの後、「そろそろ行きますか…」と、二人は舞台奥へ。この時、セットの扉がスーッと開いたその具合がとても良かった。出だしは上々だ。しばらくして、「アチチチィッ!」と舞台に飛び込むように戻ってきて、観客は「ああ、やっぱり、そうだったのだ。」とにんまりして、物語の続きに没入していく。作品タイトルとの関連性もあっておもしろい設定である。
  普通の人々のおかしみ
このあと登場してくる家族たちもうまく演じられ、人間模様が多様に演じられていた。冒頭の二人に関連する人々が、さもありそうな普通の、しかし普通であるからこそのおかしみがちゃんと伝わっていたように感じた。
  人物の光と影
(人によって異論はあるだろうが)そもそも、人生の大きな分岐点は三つ。入学、就職、結婚。それぞれに人間群像が描かれるが、最終局面である葬式の、しかも火葬場ではそこに立ち会う人々の、もっとも近しい親族のみであるから、遠慮のないささやきが交わされる。つまり、亡くなった人の、そして冥土に送り出す人たちの光と影があぶり出されるのだ。
それにしても、うまくできている。とくに傑作なのは死んだ野々村浩介の母、桂であろう。桂にだけ浩介たちの姿や声が見聞きでき、親族たちに通訳よろしく浩介のセリフを繰り返して伝えるようすがおかしくて可愛い。
高校演劇の上演作品としてはけっして少なくないキャラクターを、それぞれ一所懸命演じた緑高校演劇部を称えたい。
  ていねいな舞台装置
惜しむらくは、舞台装置の作りが堤泰之演出のオリジナルにほとんど同じであるところ。火葬場の待合はその業者によって(建物によって)さまざまであろうから、緑高校演劇部の『煙が目にしみる』の装置であってほしかった。しかし、それにしても、ていねいな舞台装置であり、感心した。




 (岐阜県)岐阜総合学園高校
           「赤鬼」 野田秀樹 作

《生徒講評委員会》

 全体を通して、差別ということ、人間の醜さが身に染みる舞台だった。
 赤鬼として扱われたAngusを人と見るフクの努力により、赤ん坊を浜の人たちに返したにも関わらず人々が赤鬼を殺そうとした場面で、自分とは違うものを差別する人間の身勝手さが伝わり、鬼よりも恐いのは人間だという思いを受けた。
 また海の向こう、というのが登場人物にとってどういう存在であったのかということも考えさせられた。浜の人々にとっては海の向こうというのは邪悪な存在だが、この世界に絶望しているフクにとっては自由、または希望の象徴であるように感じられた。全く見たことがない新しいものは受け入れることが難しく、同時に恐怖でもあるが、それらをいつかは受け入れなくてはならない、ということを暗示しているようにも思えた。差別をいつかは乗り越え平等な社会を作らなくてはいけないということも、一つの主題だったのではないか。
 Angusを庇ったフクは、とんびとフクを慕う男ミズカネと共に海へと出るが、飢えに耐えかねたミズカネに騙され、Angusの肉を食べて生き延びる。後にそのことに気づいたフクは以前にAngusが言った『食え、生きろっ』という言葉を思い出し、「あたし、食ったよ、そして生きたよ。」と残して海に身を投げるという最後の絶望の深さが印象的だった。いろいろなものを犠牲にしながら生きていく人間とは、こんなにも悲しいものなのだろうかと感じた。
 舞台装置では6つのブロックを上手く組み合わせることで全ての場面で活用しており、非常に効果的だった。時には家、時には裁きの場、時には船をうまく表現してあり、それぞれの場面がきちんと見ている側にも伝わってきた。また吊りものに後ろから光が当たるのがとても美しく、幻想的な雰囲気を引き立てていた。役者が動くとひらひらと揺れることで波の様子も表されていた。幕が開いたときにそれらの舞台が見えることで観客も一気にその世界へと引き込まれた。
 照明では壁に描かれた絵を何色かの照明で照らすことによって美しい海の向こうの世界を示していた。他にも赤鬼がはじめに現れたときに化粧ではなく照明で鬼を赤く見せることで、赤鬼自体が赤いのではなく周りの人々が赤く見ている、という解釈ができた。主となる3人の役者がいくつもの役を演じ分けていたが、それぞれの役を上手く演じていて無理なく見ることができ、また切り替わる際に入る太鼓の音が観客側の気持ちも切り替えてくれた。その他にも様々な部分でも音響が効果的に活かされていた。
 講評委員の中で話題に上がったのが、それまでずっと明るく能天気に一定のテンポで話していたフクの兄であるとんびが、最後の台詞で涙を流したことだった。とんびが泣くことによって胸に迫るものがあり、とんびが感じた絶望が伝わってきたという考えに対し、それまでの話し方を貫いてあえてそのままで言った方が観客の想像力が広がるという考えもあった。
 非日常である事柄を選んだ上演意図がしっかりと伝わってくるような演出であった。


《専門家・顧問審査員会》

 野田作品への果敢な挑戦であった。よく台本を読み込んだ,努力の跡の見られる熱演であった。
 舞台装置はシンプルであったが,特徴的だったものを2つあげたい。1つは海をイメージした,青と白のビニールテープの吊り物である。基本的に海として使っていたのだが,圧巻だったのは洞窟の中でAngusが描いた絵を見つけた場面だった。吊り物に照明をあて,実に幻想的な「海の向こう」の世界を描き出して見せた。この作品を支配する「絶望」のトーンを一瞬忘れさせるような,非常に素晴らしい照明効果であった。もう1つは,六角形のブロックである。時には船,時には洞窟,また時には家と場面ごとに様々に使い分けており,見ている方も分かりやすかった。音響面では特に場面転換での和太鼓が効果的であった。ただし,ワンパターンを避けるという意味では,和太鼓に頼りすぎない場面転換があってもよかったのではないか。
 演技の技術は高いものを持っていると感じた。発声,滑舌とも明瞭ではっきりしており,台詞は聞き取りやすかった。1人の役者が複数の役を演じなければならないのだが,その違いもはっきりと見てとれた。台詞への情感の込め方も高い水準だった。ただ,もっと感情を表に出して身体を使った演技をしたほうが,より観客の心に迫る上演になっただろう。「赤鬼」と出会い言葉に不自由しながらも心を通わせていく喜びや,最後に「赤鬼」の肉を食べて生還する場面での罪悪感や憎悪,差別する人間のいやらしさなど,全体的に表現が浅いように感じた。言葉だけに頼らず,言葉を伝える身体の動きが伴えばさらに深みのある上演になったであろう。審査員会では,高校生だからこそできる,高校生の等身大の叫びを反映した演出を求める声もあった。
 この台本への挑戦は,かなり高いレベルへの挑戦であり,今回の上演により部全体が相当レベルアップしたことと思う。この経験を次の上演にぜひ生かして頂きたいと思う。




 (石川県)大聖寺高校・星稜高校
          「賭」 チェーホフ 作  土畑要 脚色

《生徒講評委員会》

 劇の中に出てくる役柄として、2人しかいないにも関わらずそれぞれのキャストの存在感がある劇であった。劇を見るにつれて関係性ははっきりしてくるものの、二人の会話に生まれる緊張感がやや弱く、雄大から敦への圧迫感の強さが十分に伝わらなかったために、お互いの人間関係がはっきりしないまま進んでしまった。雄大が果たして実際に存在する人なのか、敦の見ている幻なのかがあいまいな点や、時間の経過があやふやであったり、話がかみ合わないところなど観客の想像力に委ねられる部分が多かった。見終わった感想としては難しいという印象が多く、話の内容を理解するのにとても時間がかかってしまうことも問題のひとつのように思われた。作品は難しいながらも、親から虐待を受けている敦や、ほとんど放置されているような雄大の2人の似た者同士の、孤独に生きる切なさが伝わってきた。人間の持つ暗い部分に焦点を当て、不安を掻き立てる作品だった。また雄大は敦が両親を殺してしまった時に既に殺されていて、雄大との出来事は全て敦の頭の中の出来事だったんじゃないかということまで想像させられた。言葉では上手く表現できないが何か心に残るものがあり、見ている人に対してとても考えさせられる印象深い劇であった。さらに敦が苦しんでいる姿が最後まで伝わってきて、徐々に敦の精神が壊れていくさまを見ていると、犯した罪からは逃れられないという恐怖感が、上手く表現できていたのではないかと思われた。脚本を処理するうえでお客さんに対して分かりやすく作ることができれば、ラストに進むにつれての雄大のうとましさがより上手く表現できたかもしれない。
 照明は、最後雄大がサスには入らずにどんどん離れていく様子から雄大とは敦にとってどういう存在なのかと考えさせられた。車の表現で四角い形で明るく照らしていたのは、見てすぐに車だとわかるのでとても効果的だった。
 音響は流れ出したと思ったら急に小さくなることもあり、本当にその場所に音響が必要だったのかという意見もあったが、選曲が良く不気味さや恐怖感が非常に出ていて、緞帳が下りてきたときには寒気を感じた。
 劇を通して全体的に暗く、敦が何度も賭けをすることで罪の重さを再確認し、その罪に苦しんでいる様子がひしひしと伝わってきた。もう一回見てみたいと思わせる劇だった。
 脚本も難しく、講評委員も一番悩んで討論し、なかなかすぐには理解することは出来なかったが、5人の部員という少人数で、2校の合同で作り上げてきたというのはとても凄いことで、感動していた。本当にお疲れさまでした。


《専門家・顧問審査員会》

 2人芝居というこの難しい作品にトライせざるを得ない状況があったと察します。少ない人数で良くここまで頑張ったと思います。
 しかしこの作品は、一生追われることに苛まれながら、相手との心のかけ引きという2人共に大変な裏づけが必要とされる高度な精神力と肉体が求められるものです。
 残念ながらその中から生まれる主人公の恐怖が客席に迫ってこない。たとえば車のドアーの開閉の音や、それぞれの息づかいまで聞こえてくるような、緻密な技術も要求されます。
 言葉もアーチキレーションが悪く伝わりにくい部分もありました。これは一つの方法ですが、音を入れずにやってみるのも面白かったかもしれません。照明ですが前明かりがあった方が芝居が前へ出てきたように思えます。
 サスも、ある法則性をもたせた方が親切でした。刺されるシーンのみぬいてみるというのも効果的だったと思います。
 しかし2校共にそれぞれの時間と思いを繋いでトライしたこの作品は何ものにもかえがたいものとして貴方方の中に生きづいていくと確信します。




 (福井県)勝山南高校
           「ひとりす」 川村信治 作

《生徒講評委員会》

 周りの人たちとの関係に悩む高校生の、等身大の姿が感じられた劇だった。
 2つの高校の交流キャンプで高校生たちが山の中で過ごすのだが、その中の1つのグループに、人と関わるのが苦手な人たちが集まってしまう。初対面の人と過ごす中で、人と付き合うことをあきらめて孤独に生きようとする睦美と、逆に一人になることを恐れて周りに気を使いながら生きている堅美とのすれ違いが、特に印象に残った。2人の掛け合いのシーンの後で、それぞれに別のスポットライトが当てることでそのすれ違いを印象付けていた。一人ぼっちでいると、自分がいるかどうかわからなくなってしまう。深い雪の中でたった一匹で木の実をかじる、リスのように。彼らの会話からそんな孤独のつらさが伝わってきた。思春期の高校生なら誰でも感じたことがある人間関係でのわだかまりや迷いをそのまま詰め込んだような劇だったと思う。
 歌や詩を創作して取り入れるという斬新な表現が心に残ったが、それ以外の会話部分のせりふも詩を朗読しているような不自然な雰囲気が感じられたために、共感しにくかったという指摘もあった。見る側が入り込めるように、せりふに感情をのせて伝えていく工夫が必要だったように思う。
 そんな人々がキャンプを通じて分かり合えたかというとそうではない。このハッピーエンドでは終わらないという点がリアリティーを感じさせたように思う。舞台装置が細かいところまで作りこんであり、ホリの色の変化によって時間経過がスムーズに表されていたこともあって、本当にキャンプ場にいるような気分にさせられた。しかし、最後まで大きな変化もなく幕が降りてしまったために、全体的に流れが平坦だったと感じる人も多かった。登場人物たちの心情を大きく変えるような事件があれば、さらに見やすかったのではないだろうか。
 結局、彼らは人とうまくやっていく方法を見つけられないままキャンプを終え、別れてしまう。しかし僕にはこの劇を通して、凝り固まった「自分らしさ」の殻を破って人と接することの大切さが感じられた。


《専門家・顧問審査員会》

 初めに上演作品の一覧を見た時に、なぜか気になったひらがな四文字。「ひとりす」…一人・す? 火・と・リス? 何だか不思議な感触のことば。幕が上がると、そこはキャンプ場。二つの高校が合同でキャンプを行い、交流を深めようという行事がはじまる。偶然一緒の班に入れられた5人の男女と、通信制の高校生である睦美が過ごす一泊二日のキャンプ。一人一人は素敵な個性を持った生徒なのに、お互いを理解し合おう、関わろうとする気持ちがあまり強くない。もしくは、理解しようと努力しても空回り。意図しないのに相手を傷つけるようなことばを投げかけてしまったり、せっかく出会ったのだからと関心を寄せてもすげない返事が返ってくるだけだったり。淡々としたセリフのやりとりに、現代の高校生の心の孤独を感じとった気がした。舞台の真ん中にぽつんと立つ一本の木は、彼らのそんな孤独を象徴していたとのことだが、もっとそのことが強調されていてもよかった。ぽつん、といえば劇中、登場人物が皆で「ぽつん…」「ぽつん…」と遠くを見るようなまなざしでつぶやく場面があったが、言い回しを工夫すればもっともっと切なさや寂しさを伝えられるのではないか。全体的に、朗読のような会話が続き、一面から見ればそのかみ合わなさ、ぎこちなさこそが表現したい部分と言えるし、他方、抑揚がないために平坦な感じを与えてしまっているとも言えた。人物の距離や時間帯を考慮して、時には大声を張り上げたり、最小限に声を抑えたりすると、よりリアリティが増すだろう。
 またこの作品では歌が効果的に使われていた。勝山南高校オリジナルの楽曲である。フォーク調で、歌詞は分かりやすく、優しい。そして切ない。キャンプにギターにフォークソングとはベタベタの組み合わせである。小学生の時に行った椛の湖ピクニックを思い出してしまった。でもその感じは温かい。最後に近い場面、睦美が書いた歌詞に野乃が曲をつけた『雲』を皆で歌う。それまでばらばらだった6人が初めて一つになったような気がする。けれど、それは一瞬の幻想だったのか、キャンプの終わりと共にまた一人ずつ去ってゆく。睦美の幼なじみである堅美が最後に去り、取り残される睦美の姿に胸を締め付けられ、涙が出そうになった。




 (愛知県)新城東高校
           「空はいつも屋上の上のほうに。」 
                                  天野順一郎 with 新城東高校演激部 作

《生徒講評委員会》

 この作品からは、弱い自分や生きていくことと向き合っていくことの大切さを感じさせられた。多くの人に共感される題材で受け入れやすい劇であった。
 脚本については、いじめ、親の病死、担任教師の入院など、さまざまなドラマがあったが、それが上手く絡みあっており、一つのまとまった劇となっていていた。また、構成についてもバランスがよくとれており、最後まで飽きることなく観ることができた。登場人物については、とても丁寧に描かれていたが、横田先生に対して、重要な役割を少し持たせすぎているのではないかという意見があった。
 ダンスについては、人間関係を表していて効果的であったという意見と、あまりそのようなことは感じられず、観客を引きつけるものであるように感じたという意見もあった。
 役者については、この劇の中心である拓也と美希、先生は、特に難しい役どころであったが、役作りがよくできており、最後まで違和感なく観ることができた。特に、横田先生は役者と年代が違う上に、生徒に対する気さくな一面、他の先生たちと接しているときの一面、また入院して美希が会いにきたときの一面など、さまざまな表情を見せる役柄だったが、どの場面も上手く演じていて自然に観ることができた。それ以外の登場人物についても、よく個性が出ていて劇全体が引き締まって感じることができた。同じ高校生を演じている役者や、親、先生といった違う年代の人物を演じている役者とで分かれていたが、それぞれがその年齢にあった人物に見えて感情移入しやすかった。また、拓也が語るときの周りのストップモーションもそろっており、細かいところに対するこだわりが感じられた。
 舞台装置については、装置だけでは、それがどこなのか少しわかりづらいものであったが、タイトルの部分やオープニングの説明などにより、上手く観客にどの場所を指しているのかを伝えることができていたと思う。また、ボックスの使い方が上手く、さまざまな場所に対応していた。そして、場面転換の際のボックスの移動も自然に行われていた。ボックスに描かれていた模様は、雲をイメージしたように思えたが、中には翼に見えたという意見もあった。それらのことも含め、ボックスが全体のイメージとよくあっていて好印象だった。ただ、屋上の柵が少し低く感じられたのだが、それは演出の都合上の問題でそのようになったのだろう。舞台装置全体としては、奥行きと高さがある大きな装置であったが、演出や役者がその空間を上手く使いこなしていたので、よく考えられた装置であった。
 音響や照明は、タイミングの合わせ方が上手かった。音響については、選曲もあっており、劇のイメージを的確に表現できていた。照明については、サスを使うことで、暗転をせずに場面転換を上手く行ったり、シルエットで見せたりするなど、観客の集中力を持たせる工夫がされており、とても効果的に思えた。
 この作品は、役者、演出、裏方の連携がしっかりとれていて、よく練習した成果が表れていた舞台だったと思う。テーマや伝えたいことが十分に感じられる劇で、見終わった後には、すがすがしい気分になった。


《専門家・顧問審査員会》

幕が開き、一人の少年が今まさにビルの屋上から落ちる。…ん!?という、非常に印象的なシーンによって一気にこのお芝居の世界に引き込まれました。舞台は学校生活という、高校生にとっては、ごく普通の日常。このお芝居の秀逸な点は、役者一人一人がきちんと舞台の上で会話ができているので、お芝居の舞台である学校が、そしてそこに生きている高校生がきちんと表現できていた点でした。この役者の安定感があったので、素直に舞台の世界に入って最後まで気持ちよく見ることができました。特に、途中の騒がしい教室のシーンなど妙にリアルで、納得してしまいました。  また、個々人の役者に焦点を当てると、主役の男の子の持っている空気は素晴らしかった。また、お母さんと先生のシーンはきちんとした大人の会話になっており、上演後に話題になりました。
お芝居は、へたれな男の子と自分に自信の持てない女の子を軸に回っていきますが、2人とも自分を出すのがへたくそで、見ていてそのもどかしさに愛情を感じました。楽屋でもお話しさせていただきましたが、このお芝居に出てくるエピソードとしての先生の存在があまりにも大きすぎたので、この点ではもう少し別のエピソードで、2人がきちんとお互いや自分と向き合っていくドラマを見たかったなぁということを感じました。また、幕切れの位置が、ラストの屋上で終わっていたらより気持ちよく終われたかなぁと言うふうに一観客として感じました。それほど、最後が蛇足に感じられるくらいきちんとした仕上がりになっていました。
最後になりますが、この上演に関わった全員が全員「このお芝居を好きなんだ!」という強い思いを客席でひしひしと感じ取ることができました。そして、そういう感動的で爽やかな気分にさせてもらえる舞台に出会えたことを幸せに感じました。どうもありがとうございました。




(三重県)桑名西高校
     
「生徒総会」 畑澤聖悟 作

《生徒講評委員会》

 全体を通して、「場面転換も無く演劇というより学園生活のドキュメンタリーを見ているようなリアリティーがあった」「舞台を広く活用していた」「安心してみることができた」等の意見が多く聞かれた。また多数決で多いほうが正義なのかという問題提起に今の政治状況と多々重なる部分もあり、共感を得た。
 見ている自分と共感できるポジションの人物がおり親しみをもてたが、一方で勢いが不足していて強く感じるものが無かったようにも思えた。生徒総会というもの自体を経験していない観客にとってはうまく想像力が働かなかったからかもしれない。コメディーとしての面にもっと力をいれ、前を向く演技をなるべく最小限にして、役者同士が向き合って会話をすればもっとこの作品の世界に入りやすかったのではないかと思う。
 生徒会という学校では地味な存在が、裏では苦労しているのだと多少の理解ができた。また龍や清国らの変わった動きなどにより「学生の若々しさ」が生き生きと感じ取れた。さらに制服を廃止したいという潤一郎の主張は、大きなものに対する反抗という自分たちの中にもある気持ちと同じだと共感した。彼ら・彼女らの姿からは、学生の抱える「大人でもなく、子供でもない」という「矛盾」が端的に描かれていたのではないだろうか。また平成十一年という古い設定の脚本であったが学生らしい一面もよく出ていたと思う。もっと会話の積み上げを丁寧に行い、相手の台詞を理解してから返すという作業を意識すれば、テーマをより一層伝えることができたのではないだろうか。
 舞台装置は教卓や折り畳み机、パイプ椅子が設置してあり、シンプルながらも一目で学校が舞台であると分かりやすく、看板の出来は素晴らしいものだった。
 照明もやや暗めだったので、本当に体育館のような雰囲気を出していた。
 音響が少ない舞台だったが、劇として違和感が無くよりリアリティーを出していたと思う。
 演技は全体を通してテンポもよく、どの場面もしっかり作りこんであり、練習量の豊富さがうかがえた。
 たくさんの生徒から校則について多種多様な声を聞き、それを現実にしようと努力し生徒総会という一種の意見の交換場を設置して、文句を言われても話を聞いていなくても、頑張って制作した資料を捨てられても学校のために一生懸命に働く可奈子の誇り。理由はどうあれ自分自身への誇りや自由を主張する潤一郎の誇り。この二つの誇りは表現や具体的な理由は違っていても、自分自身の正義に対する誇りではないかと思う。多数決が正義という今の政治とは似て非なる正義、そして誇り。この劇からは、そんな想いを忘れないで欲しいというメッセージを受け取ることができた。


《専門家・顧問審査員会》

畑澤聖悟さんのいわゆる「ウェルメイド」な、会話で展開される劇を、とても楽しく演じられていて良かったと思います。膨大な台詞量であるにもかかわらず、詰まることなくきちんと流れをつくっていたのに好感を持ちました。ひとつの場所という設定で、照明、音響変化がほとんどないというのは、役者の「演技力」を要求されますので、なかなか大変だったと思いますが、それぞれがそれぞれの役としての「立ち位置」を守り、頑張ってたように感じました。ただ、役者に注目する芝居ということは、つまりそれだけ役者のアラが目立つ芝居だというわけで、滑舌、身体のつかい方などが、気になる場面がありました。またこの戯曲は「対立関係」がきちんと出ることでメリハリの出る芝居でしたので、対立が緩み、役者間の他の役者に与える影響力が弱まり、役者がそこにいる「目的」が見えなくなったりすると、単調に感じられてしまう場面がありました。その原因としては、会話劇なのにも関わらず観客席を意識し過ぎる立ち方、つまり前を向いたりする演技(正面切り)をたまにやってしまうのにも原因がある気がしました。縦軸(演者と観客)と横軸(演者と演者)の割合をどれくらいにするのが適切かを考えるのが、ひとつの部屋で起こるリアルな会話劇には必要だと感じます。「見せる」ではなく「見られる」、つまり「覗かれる」芝居になれば、より登場人物たちのおかしさが浮き出るわけです。例えば、潤一郎の村上さつきに対する長いくだりのみ「正面切り」で演じたりすると、そこのバカさ加減が面白く映り、よりクリアになったのではないかと思いました。
 しかし、可奈子の葛藤、清国の面白さ、潤一郎の壊れ方…などなど面白く観ましたし、もちろん他の役者さんもみんな、楽しくイキイキと、登場人物になろうとしているのは、良いことだなぁと思いました。




(愛知県)滝高校
    「心霊倶楽部」 瀧源作 作

《生徒講評委員会》

 主題がどうのこうのという劇ではない。ただひたすら観客を楽しませることに徹しようとしている劇で、それが見事に成功している。もちろん主題はある(後で触れる)のだけれど、それよりもとにかく観ていて楽しい、観客を笑わせることを前面に出した、エンターテイメント精神にあふれる、勢いのある劇だった。
 舞台は、とある高校の地下室。そこが「心霊倶楽部」の部室だ。壁一面に魔除けのお札が貼られた、いかにも何かが出そうな雰囲気の部屋で(この造形が素晴らしい)、今日も部員たちが大騒ぎをしながら楽しそうに幽霊談義をしている。そこへ、入部希望の新入生佑実がやってくる。しかし、どうも話がかみ合わない。何かが変だ。部員たち同士の会話もよく聞いていると、どうもちぐはぐ。やはり何かがおかしい。観客の側も、次第に胸騒ぎがし始める。観客を劇の中に取り込んでいく、この段取りがとにかく上手い。小道具の使い方も、照明も音響もツボを押さえていて、憎たらしくなる程だ(見習いたい、という意味です。念のため)。身体全体を使った役作りは、皆のお手本になるだろうし、演技者だけでなく、裏方も一体になっているようすが目に見えるようだ。 
 途中で、実は、目の前で展開しているのは、死んでいることを自覚していない幽霊たちと、幽霊が見える生きている佑実の話だったことが明らかになる。映画「アザーズ」を思い起こさせるこのどんでん返しにはうならされた。そして物語は、幽霊との関わりのなかで佑実が成長していくようすを描くことに変化していく。ここは賛否両論あるところだったが、とにかく「友だちがいない」彼女は、目の前のことから逃げないで自分に向き合い、自立し、前に進んでいこうとするのだ。
 講評委員会では、観客に楽しんでもらおうとしている意気込みがよく伝わり、楽しめる劇だったという意見が多く出された。その一方で、幽霊たちの「成仏」という課題が、いつの間にか佑実が自分から前に進んでいこうとする勇気の問題に変わってしまい、伝えたいことがうやむやになっているのではないかという意見もあった。どちらかに絞った方が、より面白くなったのではないだろうか。 
 演技では、恐怖心などが、身体全体や手足の大胆な動きで視覚的にきちんと表現されていて面白かった。ただ、幽霊たちは生きていた年代が違うという設定だったが、うまく表現し切れていないのではという指摘もあった。また、せっかくの大人数の脇役たちを使って笑わせることを工夫すると、雰囲気がまた変わって面白くなるのではないかとも感じられた。
 専門家審査員との話し合いのなかで、演技者が観客を意識して「見せる」演技だったが、幽霊の世界を観客が覗きこんでいるように見せる工夫をすると、心霊倶楽部の雰囲気や怖いものを見るというドキドキさが感じられて面白かったのでは、という指摘があった。
 またラストも、化け物を出すよりも赤い月を出して恐怖感で終わらせる描き方でも面白かったのではないかという意見もあった。
 装置も、壁のお札が動いたり、マネキンの鼻毛が実際伸びたりするなど、細かいところまで造られていて楽しめた。音響では雰囲気に合った選曲がされていて、その曲を知っている人でも知らない人でも、楽しめるものだった。


《専門家・顧問審査員会》

 幕が開けてまず驚いたのは装置の豪華さでした。学校のどこか、旧校舎だったり地下室だったりするところに「心霊倶楽部」の部室はあるようです。壁中に貼られた御札、薄暗い照明。真ん中の少し高いところに明かり取りの窓。この窓の向こうを"すーっと横切っていくユミちゃん"。壁の"御札はひとりでに動く"し、"人形の鼻毛は勝手に伸びる"し、照明もとても凝っています。また上下手だけでなく中央にも出入り口があることで、"アリサ先輩があっちから出てきたと思ったらこっちから出て来る"なんてことも起きます。"扉がひとりでに開き、無数の手が…!!"というお約束のホラーシーンもありました。とにかくもう舞台じゅうにギミックが仕掛けてあって、これはお化け屋敷か、はたまたイリュージョンか? と思えるほどの楽しさでした。観客の反応がそれを物語っていたと思います。だからこそ、扉の開閉部分は、ぐらつかないようにする(もしくはそう見えないような開閉をする)もう一工夫もあると良かったです。お化け屋敷やマジックは、「タネ」や「仕掛け」が見え隠れすると観客が素面になってしまうからです。同じ理由で、最後に出てきた大きな妖怪はもっと象徴的な存在でもよかったかもしれません。しかし総じて役者が本当によく動き、またその動きもしっかりと計算されていて、人数の多い場面でも舞台がごちゃつかずに見えたのはすばらしかったです。
 また、お話の仕掛けも見事でした。モチーフ自体は映画や小説で見たことがあるかもしれません。「死んだ人間が、死んでいることに気付かず幽霊となってさまよっている。生きた人間にそれを指摘され、やっと成仏でき」…ない!…なぜ? というところからさらにストーリーは続きます。人付き合いの苦手な、現代に生きている佑実が、成仏できずに昭和の時代からとどまっている地縛霊たちに、むしろ助けられて成長していき、「心霊倶楽部」の仲間を増やすことができる、という後半部分こそ、訴えたかったテーマなのかも、とも思います。一方で、成長劇に仕上げずに純粋にエンターテイメントとして終わらせても、それはそれで見応え十分であったでしょう。ともあれ、私も「心霊倶楽部員」になりたいと思ってしまう不思議楽しい芝居でした。お疲れ様でした!




(富山県)富山第一高校
       
「www vs アイ」伴優美・栄杏夏 作

《生徒講評委員会》

 高校生における社会問題を中心に、ネット世界につづられる裏の世界の恐ろしさや、ネットという名の「クモの巣」に入り浸っている若者とネットをあまり理解していない大人との差を描いた作品だった。
 舞台装置は椅子と教卓のみと非常にシンプルな舞台で、逆に簡素な装置だったのが好感を得た。ただ、簡素故にどこまでが教室だったのかが分からないという意見もあった。
 衣装は制服だけとシンプルだったが、ネット内の世界を表す際に女子が個々別々の仮面を付けたことで表情を分からなくし、本来の自分を隠すことで仮面が彼女たちの「現実逃避」の現れのように感じた。
 プロジェクターを使うことでよりリアルなネット世界を表現できていた。またプロジェクターの光でわざと影を作ることで、言葉のクモの巣に絡まった若者の姿を見せていた。パワーポイントの使用を最小限に抑えれば、観客の想像力にもっと語りかけられたのではないだろうか。
 相田の独白と、ブログやリアルでよく使われている言葉をパワーポイントで流すという面白い発想から舞台は始まった。ブログやリアルでの女子の裏の声が段々と明らかになり増していく。文字を打つことでしか自分の本心を言えず、ブログで他人の悪口を言っても次の日には仲良く接しているという光景が、より一層彼女たちの本当の気持ちを分からなくしていく様に見えた。また自分が知らない所で、ブログを見られているのではという罪悪感を抱いているにも関わらず、「ワラ」という一言で全てをあやふやにしようとする行動に、見えない世界に対する危機感の無さが感じられた。ただ独白の始まりと終わりが分からない場面が多々あり、照明を統一するなど見やすくする為の工夫が必要だったのではという意見もあった。
 クラス内の女子と男子の力差は見ていて面白かったが、もっと強弱の差をつけることができたらよかったとも思う。
 題名にもある「www」と「アイ」という単語は何を表したかったのか。「www」はネットワークを意味しているが、劇中では女子高校生をからめ捕る「クモの巣」のイメージであり、さらには同時に「ワラ」も意味しているのかもしれない。そして「アイ」は「私」のアイと「眼」のアイで「私の眼を見て」と、相手とのコミュニケーションをとろうと必死になる外部からのメッセージのように感じる。ネットという偽りの世界と現実との戦いがうまく描かれていた。


《専門家・顧問審査員会》

 現在の高校生たちの問題をブログ、リアルを使い、日常を切り取ったかたちでうまく、解りやすく描けていた、いい作品だったと思う。
 シンプルに椅子だけのセットにして教室を表現することにより転換をスムーズにできて、また、無理な演技も無く、最後まで飽きずに観る事が出来た。しかし、前半がまったりと進んでいてもっとテンポ良く見せるシーンが入った方が観やすかったのではないかと思う。後半は解消されて、終わり方もスッキリしていて良かったと思う。
 プロジェクターを使い、セリフだけの表現じゃないところもよかった。しかし、少し多用しすぎな感もある。また、プロジェクターの光量が弱く、読みにくいシーンがあり残念であった。
 転換、独白の照明に統一が無く、綺麗なシーンではあったと思うが、観る側が混乱をしてしまうので、約束ごとをはっきり決めたほうが観やすくなるのではないか。
 男女の力関係をはっきりつけ、男子の頼りなさが描けていてよかった。それにより、クラスの力関係、個々のキャラクターが解りやすく表されていたと思う。
 インターネット社会の問題をうまく取り上げた作品だと思う。



(石川県)金沢錦丘高校
        「OK・マイ・ティーチャー」のまさとる 作

《生徒講評委員会》

 6人の女子高生達が、周りのあらゆる人達に不満をぶちまけるところから、この劇は始まる。そして彼女達の怒りの矛先は、生徒を殴ったり、または熱血過ぎてついていけなかったりする、ろくでもない先生達に向かう。そこで、彼女達は文化祭で、「あの日、あの頃、あの時マシーン」という、精神年齢を好きな年齢に戻すことができる不思議な機械を使って、先生達の理不尽さのルーツを探ってやろうとたくらむのだ。
 冒頭から、ダンスとテンポのよい掛け合いで力強さがみられ、観る者を引き込むことができていたと感じた。しかし、せっかく面白い設定があるにもかかわらず、それを十分に生かしきる事ができていないという意見もあった。見せ場で観客をさらに大きく沸かせるために、動きなどにもっと工夫があるとよかったと思う。
 マシーンによって戻ってきた昔の頃の先生達は、生徒達と同じように不満を抱えながらもそれに負けないで生きていた。それを見た生徒達は、不満を持っているならそれを相手にちゃんとぶつけて、自分から解決しようと努力することが大切だと知る。そして、その姿から、甘えからの自立というテーマを感じることができた。ただ、生徒達の心情の変化の過程がわかりづらかったために、主題が少しつかみにくかったように思う。テーマを十分に見せるために、キャストが台詞の意味を理解し、感情をよりはっきりとのせていくことが必要なのではないだろうか。
 はじめは学校を踏みつけるような印象を与えた舞台装置が、心を入れ替えた生徒達に掃除され、卒業のシーンでは照明によって光り輝くような演出になっていたのが、心に残った。また、音響の選曲は場面ごとに合っていたように感じたが、音量が大きすぎて演技よりも前に出ているように感じられるところもあった。
 全体を通して一人何役もある劇なのだが、しっかりと演じ分けることができていたように思う。自分の意見を強く持ち、行動することの大切さが伝わってきた劇だった。


《専門家・顧問審査員会》

 オープニングは台詞の掛け合いが音楽の歌詞とぴったりタイミングがあっており、ダンスはパワフルでリズム感もよく、体の動きがいきいきとしていた。元気のよさがストレートに打ち出されているところに好感がもてた。そこに17才の等身大の高校生がリアルに描かれていた。
歌詞入りの音楽がうまく使われていたが、あまり多用すると最初の印象がうすくなるきらいがあった。また、音響の音量が大きすぎるところがあった。照明は場面にあっていて、カラフルでよかった。セットも「おかまだ研究所」の看板などよくできていた。
高校生を抑えつける先生への鬱積した思いがこの作品の物語を先にすすめるエネルギーになっているはずだが、その点がすこし弱かったのではないか。演じる側に、この作品の高校生たちに共感する部分がどれだけあるのかが見えにくかった。
脚本としては、「あの日、あの頃、あの時マシーン」によって、先生たちが17才だった頃を垣間見るのだが、生徒と先生が直接向かい合うことなく、生徒の側が自分たちのあり方を反省し、先生や学校への怒りを収めてしまうのは、あまりに優等生的で物足りなさを感じた。
一人で何役もの役を場面ごとに演じ分けており、練習を積んできたあとが見えた。




 (岐阜県)大垣北高校
                   「よぃコのぅた」説田真穂 + 大垣北高校演劇部 作

《生徒講評委員会》

 劇が始まり、主人公が追い詰められる様子を見た瞬間に現代の若者の心の中を見たような気がした。舞台の様子も、よく見るとトイレという閉鎖された場所を回想や幻想などさまざまに使い面白かった。
 親、先生からのプレッシャーや友達との付き合い方など、周りの人が自分の私利私欲のためだけにそれぞれの歪んだよい子の理想像を『ふつう』ということばでわたしたちに押し付けているのがとても現実の社会を映し出しているようで、人間くさかった。さらに先生の言うことは決して間違っていない(!)ということが見ている側に強く印象を与えたのではないだろうか。友達三人が楽しく話している場面で主人公が無理して笑おうとしている様子がひしひしと伝わってきて、本当の気持ちを打ち明けることの出来ない相手にびくびくする様子や、心配はしてくれるものの周りにすぐに流される現在の人間の姿が垣間見られた。主人公もそうだが、人に流されてしまうサエにも人の弱さというものが見られたような気がした。途中で何度も苦し紛れに自分の好きな音楽を聴く場面があったが、救いや逃げ道を求めているのがよく分かり、またその苦しみを振り払うかのように狂って踊っていた場面がとても印象的で忘れることができなかった。最後に昔の自分を流してしまった後に、トイレの小さな窓を抜け殻のように無感情のままに見つめながら、自分の中の個性を押し殺して無のままに生きようとしている最後のシーンでは主人公は最後には自殺をしてしまうのではないかという想像までさせられた。追い詰められてどこに逃げたら良いのか分からない様子がうまく描かれていたように思われた。顧問専門家との話し合いの中では主人公の「よい子」だった面について「むかしからただのわがまま娘にしか過ぎない」との声も強く出されたが、私たち高校生にとっては、よい子ってどんな子?普通って何なの?と感じさせる意味深い劇でとても好印象だった。
 照明は、過去の自分が出てくるところなどで青の部分と普通の明かりの二つに分けられていたことによって、心の中の暗い部分やいろいろな感情が入り混じっていたのが伝わってきた。また、サスを使うことによって孤独感が表されていた。装置なども細かいところまで丁寧に作られていたので、とてもよかった。
 気になった点と言えば、トイレのドアが開け閉めをするたびに奥にも手前にも揺れてしまうことから固定した方が良いのではないか、過去のシーンの後ぬいぐるみや紙が残ってしまっているのに現実に戻ってしまったので何か他に改善する方法があるのではないかという点が出てきた。
 空を見ることによって心が開放され、雲のように自由に生きたかった主人公の様子を無意識のうちに自分に重ねてしまう人も多かったのではないか。全体を通して、人間の醜さや人の奥底の心情がうまく描かれている作品だった。
 本当にお疲れさまでした。 


《専門家・顧問審査員会》

 自分の置かれた状況を打開したいという高校生というこの時ならではのあがきの中から生まれた作品だと思います。視点もテーマもいいと思いました。しかし、トイレのドアーに立ちむかうにしても、そこからどんな人がどんな反応でかえってくるかを予測していて、本当に助けを求めていない。だから挫折が積み重なっていかないのです。それは子供の頃の彼女にも言えると思います。作品の振り幅が大きい。もう少し作品も内容も絞り込みがあればとてもいい作品になると確信します。自分達で作品を書くということはキャスティングのうえで有利な部分もありますが、作品として一度俯瞰してとらえる必要があります。そうすることで、その有利さを生かせる役や戯曲への迫り方ができるはずです。
トイレという場所は、物心ついた人達にとってあまりにも身近です。今あなた方が学校内で逃げ込む場所がトイレなのだと思うのですが、この場所は全ての人達に糞尿まで感じられる所です。あえて使うのなら、それを上回り越えるような葛藤が必要となります。使用されていない部室の小さな窓とロッカーでも良かったのではと思います。只、その発想が面白く、それぞれのスタッフの人達が一緒になって積み重ねた日々が見える嬉しい舞台でした。これからも是非頑張ってほしいと思います。



 (愛知県)愛知高校
                   「文七元結」 三遊亭圓朝 作

《生徒講評委員会》

 落語特有の世界観が表されていて、江戸っ子特有の心意気や人情というものを感じた劇だった。
 全体的に、落語という特有の世界観を持つものを壊すことなく舞台に出せていたと思った。もとからこの落語を知っている人から見ても、初めて見る人がいても設定が親切に伝わってきて、世界に入り込みやすかった。また、落語特有の言葉遊びも生きていた。
 舞台装置、照明なども江戸の雰囲気を出せていたと思う。特に、吉原を表すピンクのシルエットが効果的で美しかった。小道具や大道具も細かく作りこまれており、特に舞台中央に現れた大きな橋は見事であった。そして、アイディアに富んだ転換によって客を離さない工夫がされていた。ただ、女将の部屋と長兵衛の部屋を後ろの壁であるパネルを裏返すなどして雰囲気を変えれればよかった。昔の人の動き方などよく練習されていたが、着物の着方や布地、また所作など時代特有の特徴が細やかに表現されているともっと雰囲気が出たと思う。キャストが雰囲気を出すことができていたのにも関わらず、音響で心境を表す曲が多く盛り込まれすぎていたような印象を持った。また、一番最後の場面の洋楽は違和感を感じるという意見もあったが、ギャップ感がよかったという意見もあった。ギャップ感をあえて出すというならば、洋楽で統一できていればよかったと思う。
 劇を観て伝わってきたことは、昔ならではの絆と現代と昔での人間関係の差、というものだった。現代では、取引先から預かったお金を無くした人がいても、お金を喜んで差し出す人はいないだろう。優しさや思いやりというものが失われつつある現代人にはなくなってしまったものが描かれていたと思う。人情味溢れるストーリーだったが、起承転結の承の部分である長兵衛がお金を借りる、という部分に行き着くまでが少々長く感じた、という意見があった。前半部分がテンポよく回せていけると、もっと客を世界に引き込んでいけたと思う。落語の雰囲気や粋を伝えていきたいということ自体が大きな「目的」であると感じられた。
 見終えた後、今まで知らなかった落語の世界に触れてみたいと思わせる、また江戸の人情味を感じさせてくれる劇だった。


《専門家・顧問審査員会》

古典はいいですね。多くの人々に長く愛されてきた確かさと国民性があります。出典が古典だけに、その人物像は典型的であり、突飛で意外な役どころを期待はできませんが、その分しっかり演じないと中途半端になってしまうきらいがあります。しかし、愛知高校は過去に何度も古典ものに挑戦してきた実績もあり、人物の描き方には自信があるようです。
タイトルにもなっている文七よりも、本当の主人公はやはり長兵衛でしょう。長兵衛のお人好しぶりがなければ成立しないお話なので、長兵衛役のキャスティングが重要だったに違いありません。もちろん稽古によってそのキャラクター性を深めていったのでしょうが、たいへん良かったと思います。「佐野槌」の女将役もいい感じでした。
感心したのは、場面それぞれの舞台装置の見せ方でした。長兵衛の家→「佐野槌」→吾妻橋→近江屋といった展開がおもしろく、飽きさせない。吾妻橋はすごかったですね。歌舞伎にでも出てきそうな、いかにもといった風情でした。そこでの長兵衛と文七のやりとりが舞台装置と相まって効果的だったと思います。当然のことですが、作品の持つテーマや内容が舞台装置によってより効果的に描かれなければなりません。役者はいいのだけれども美術が邪魔してるよね、という評価を下されたのでは何にもなりません。
音響や照明といったスタッフワークの重要性はそこにあります。作品はどうであれ、私はこの音楽を使いたいとか、この前覚えたアカリのネタを使ってみたいというのはよくあることです。そういうエネルギーが演劇部員としての明日を作っていくわけですが、観客としては作品重視であってほしいわけです。スタッフ個々人のワガママに付き合っていられません。
 そういう意味で、愛知高校演劇部の『文七元結』はトータル性が高いと思うわけです。いい作品を作っていくのはたいへん面倒くさいことが多い。装置、衣装、小道具、音響、そして役者の演技表現。こだわりを持てば際限がない。しかし、手を抜けば、これまた際限なくズタズタになってしまうのが演劇のコワイところ。あえて古典に挑戦し続けるその面倒くさい世界へのこだわりが愛知高校演劇部の真骨頂なのでしょう。




 (三重県)四日市高校
                「Father's day」 小林晋作 作

《生徒講評委員会》

 観て第一に「ああ、これはあるな」と実感でき、とても楽しめる作品であった。客席に向かって行う動作が無いので、劇を観ているというより、まるで大学生の、ある夏の一日を第三者として眺めているような感覚がして、面白かった。自分の言う事に、いちいちイライラするような返事をする友達の奏太、必要ないと言っているのにしつこく口出ししてくる父親一仁。そして、その父親の言葉を納得しつつも反抗してしまう主人公徳紀。いかにもいそうな彼らの難しい親子愛を感じさせた。
各部に焦点を当てると、演技演出に関しては、上にも述べたとおり実際にありそうな状況をうまく表現できていたと思う。例えば、徳紀の部屋のかたづけの仕方についても、くしゃくしゃにして突っ込んでしまう服、すみに積んだ漫画、とりあえずまとめたごみなどがそれを引き立てていた。また、徳紀と奏太のやりとりの言葉と言葉の間も実際にありそうだった。ただ、劇の始まりや、かたづけ中のシーンがもう少し短くてもよいのではという意見もあった。父親の「JKってなんですか?」とか、「いいんじゃないか〜、ロリコン。」という言葉から息子に対して、ぎこちなく接しながらも、息子を理解しようとする意志が伝わってくるが、父親が真面目な中学校教員としては見えにくかったので、そこを工夫すると、ぎこちなさや昔の恋愛の話がもっと面白く、温かく思えるかもしれない。
装置・小道具は、散らかりようがいかにも男子大学生の部屋のようで、自然であった。ただ、さらにリアリティを出そうとするなら、ポスターをはがした後のまわりの壁と日焼けの差をつけるといいかもしれない。扇風機に揺れる制服が生活感を醸し出していた。
照明・音響に関しては、照明は一切変化をさせず場面転換もしないことと、音響はエンディングを除き、生活音以外使わないことも、よりリアリティを出していた。
「いいんじゃないか〜、ロリコン。」
この台詞から伝わる父親の一生懸命な息子への愛、そう言われ、野菜を買ってきて、「野菜炒め作るからさ。」という徳紀なりの返事。リアリティ溢れる空間で繰り広げられるこの親子の不器用なやりとりがほんのりと温かい。


《専門家・顧問審査員会》

 おもしろかった。ついくすりと笑ってしまうやりとりに50分間があっという間だった。いい意味でのゆるさ全開の中、心地よく舞台に入り込めた。しかも見終わった後もじわじわと作り手のリアリティを追求する意志が伝わってくる芝居である。
 まず、登場人物のセリフ。「こんなこと言っちゃうよねえ」と心の中でいちいち頷きながらも、こういう生のセリフを台本の中に固定させた作者の観察眼と筆力に感心した。特に審査会で絶賛されていたのは、突然の父の訪問に主人公徳紀が部屋のゴミを片付ける場面。よくもまあこんなに散らかしたものだと呆れるほどの部屋を黙々と片付ける。そのゴミの量はセリフのない間合いと比例するのだが、その長さ(ゴミの量)が絶妙であった。何度かゴミの量を変えて試してみた結果であろう。また、父の元恋人蛯子さんの伏線の張り方や、徳紀が後半以降父来訪の気まずさで餞舌になる、という自然な流れからセリフ量が増えていたのもよく考えられていた。全体を通して正面切っての演技が少なく、照明も白い壁の装置でも目に痛くなく、観客は登場人物達の日常をのぞき見しているようなわくわくした気持ちにさせられた。
 以上この劇のイ計算された自然な感じ」を述べてきたが、その辺りをより追求するならば、徳紀と奏太のひそひそ話は近くの者同士が話す声の出し方に変えたり、部屋の空間の手前はどこまでなのかを明確にしたり(例えば事前にTVを置くとか)、少し若く見える父親役に年相応の年齢を感じさせる演技を工夫させたりなどの配慮もあると、より素晴らしいものになるだろう。
 父と息子の久しぶりの対面。ぎこちない会話に見え隠れする互いへの思い。特に徳紀がこれまでの鬱屈した気持ちを一気に吐き出す場面は、父親のように将来に確固たる展望を持ちたいと思いつつまだ模索中である苦しさ、父親へのコンプレックスがうまく表現されていた。息子からボールを投げつけられても不器用にしか返せない父親。そこへKYな奏太が両者の行き違いを冷静に分析する。登場人物に語らせすぎないラストも余韻があり、観客にいろいろと考えさせる余地を与えていた、温かい舞台であった。




 (愛知県)刈谷高校
                「君、君たらずとも」 刈谷高校演劇部 作

《生徒講評委員会》

 この作品は「自由について」というものがテーマの作品だった。話が答えを出さないまま終わっていて、先生の行動の後、生徒たちが客席をゆっくり振り向くラストのシーンでは「自由とは何か」「自分の自由とは」を観客の一人一人にその答えを委ね、考える機会を与える意図を感じた。また、「“自由”というものを本当に自分達がわかっているのか。」さらに、劇中に出てくる先生自体「自由」というものが本当にわかっているのか、という疑問も出た。この作品自体が、誰からか導いてもらわないと困るという、現在の若者を表していると議論がなされた。社会全体が、「周りの他人と同じでなければならない」とか、「勝ち組に乗る」とかという風潮に流れているということを表現しているのではないかなど、作品の表現するべきことが全体を通してよく表現されていたと思われる。それ故に、講評委員会の中からも見終わった後に「不気味だった。」「怖かった。」という意見が出たが、全体として深く考えさせられる舞台であった。
 脚本の中で、赤紙を受け取る人たちは、エリートだと思っていたが、実は排除のための制度であることがあきらかになった。その後、それをもらわなかった人たちこそ“社会”という戦場へ出されるのではないかということが議論された。話全体として切り詰めた内容の話であったが、笑いをとる部分やタチバナくんと先生の存在により安心でき見やすかった。細かい点では、わからないところもあったが結果的にはそれも受け入れて劇を観ることが出来た。
 役者については、ダンスなど動きがたいへん揃っており舞台全体がとても引き締まっていた。ただ、練習をよくされている部分と若干手薄な部分のところがあり、場面場面に差を感じた。また、それぞれのキャラが自分達の役をこなしきっていたが、舞台奥のシーンでは、声量が不足しているという点や、舞台手前の役者の声とかぶっていて聞き取りにくかった。
 舞台装置については、学校の教室であることが一目でわかる舞台であった。ただ、舞台奥のオブジェについて、意図がまったくつかめなかったという意見とクラスを比喩しているという意見とがあった。
 音響については選曲が良くタイミングも合わせられていたと思う。照明については、単サスの使い方などが舞台全体として全体の印象を引き立てていた。
 大人たちに敷かれたレールの中で何かをつかもうとする私たち若者の心情をうまく捉えられている舞台であった。
見る人に友情・人の心・自分の回りについて深く考えさせてくれる舞台だった。


《専門家・顧問審査員会》

 鑑賞しながらいろいろなことを考えさせられた劇であった。脚本は生徒の皆さんが協力して作ったということだが,よく練られていた。舞台はとある士官学校で,そこに通う生徒はいつか戦場に立つその日のために日々努力している,と幕開きとともに宣言される。ところが,それからしばらくはごく一般的な高校生活が繰り広げられる。そこへ突然軍隊的な色彩の強い場面が現れる。劇はこのスタイルが基本となって進行していく。
 劇が進行するにつれてこの台本に込められたメッセージが少しずつ見えてくる。常に勝つために努力し,赤紙をもらってお国の勝利のために尽くすことを目指す生徒たち。この生徒たちは,社会から常に優秀であることを求められる高校生そのものであり,士官学校とは高校生が抑圧された状況を象徴化したものだろう。他方,生徒たちの軍隊的な言動に違和感を覚える先生。生徒の自主性を重んじようとするがかみ合わず悩む。士官学校的な抑圧への疑問を投げかけるその姿は,早くから子どもを競争にさらす社会に対して疑問を投げかけているようにさえ見えてくる。そして,両者の間で話題に上る赤紙。優秀な者に与えられる赤紙が,実は士官学校の方針から脱落した者に与えられるという事実が明らかになる。いわば社会の要請に沿えなかった落伍者ということになる。さらに興味深いのは,生徒に「自由に何をやったらよいのか」と問わせたことだ。この場面の受け取り方は多様であろうが,自由を奪ってきたことへの反発だろうか,それとも自由を得てかえって活力を失った高校生自身への皮肉なのだろうか。いずれにせよ,いろいろと考えさせられる台本であった(そしてそれが上演校のねらいだったのだろう)。
 演技面はよく稽古されており,普通−軍隊の対比もはっきりしていた。照明は赤のシルエットや単サスの使い方など工夫が凝らされていた。音響も選曲やタイミングについてはよく練習されていたのだが,ステージ奥を使う際に役者の声が思うように飛ばず,前スピーカーから出していた音響がかぶっていたのが気になった。改善点としては,まず場面転換である。台本にも関わるのだが,劇中盤のステージ奥を使う場面が何回か繰り返されるので,どうしても単調になってしまい中だるみしてしまうのが惜しかった。台本について付け加えると,赤紙の秘密を明らかにする過程を工夫するとよいのではないか。例えばタチバナは他のクラスメートと違い恋愛もするし軍隊的な色も薄いが,彼には赤紙が来る。なぜ彼に赤紙が来るのかを描くのも1つの手であろう。