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第65回大会へ

第65回中部日本高等学校演劇大会

各校別講評文

 講評文は、生徒講評委員会と専門家・顧問審査員会のそれぞれで話し合った内容をまとめたものですので、HPでは文章を書いた個人名は省略します。

福井商業 尾北 金沢辰巳丘 東海学園 吉城
小松 藤ノ花女子 呉羽 高田 愛知
桑名西 池田 刈谷 富山高専
恵那 勝山南・奥越明成 全体講評



 (福井県)福井商業高校
「星をゆく舟(ただし一人乗り)」 玉村 徹 作


《生徒講評委員会》

 福井の原発事故から約10年後の近未来が主な舞台。一見関係のなさそうな話ひとつひとつが、最後にはすべてリンクしていく過程が見事で観ていて飽きなかった。場面転換を暗転に頼らずに役者自身の動きや声などで工夫しスムーズにみせていたのが、観客を引きつけていてよかった。
 舞台装置は白いパネルが等間隔に並べられているだけの非常にシンプルなものだった。このシンプルさが、教室やコックピットや海など、コロコロと変わる場面によくマッチしていて違和感なく観ることができた。教室には黒板や机がないが、それを「馬鹿には見えないもの」としてあえて舞台上に置かなかったのも、場面転換をスムーズに行うための工夫だと感じられた。
 照明効果は必要最低限しかなかったが、それが、冒頭の星空の星球や海のシーンの流れる雲のサスを際だたせていた。誰もいない所にライトを当てていたのが、まるでそこに人がいるように感じさせられた。音響効果は役者自身の声やリズムを使って場面転換や雰囲気を変えている工夫が新鮮だった。
 一番最初に演劇部の話から始まったのが新鮮だった。お母さんのペットボトルの話から、海や教室やコックピットなどコミカルで一見関係のなさそうなひとつひとつが、最後にはすべて咲恵の過去や原発につながっていくストーリーは巧みだった。その中でも、ペットボトルは大きなキーアイテムとなって場面と場面をつないでいた。先生には見えなかったけれど、主要三人には見えていたことから、この三人の特別さが表されていた。このペットボトルは、時に桃太郎の桃の役割だったり、ペットボトル号という宇宙船になっていたりと、間接的に「馬鹿には見えないもの」として表現されていたが、一番は被災して亡くなった母から咲恵への命のバトンリレーのバトンではないだろうかという解釈があった。
 原発が中心的なモチーフとなっていて、それに対するさまざまな考え方や意見が複雑に交差しており、咲恵の「被災した人たちに同情しているだけ」というセリフに、今回の地震で被害はなく原発をもたない地域にいる私たちの生活が変わったわけではないので、それがさらに罪悪感をかき立てられた。でも、父親からの暴力や家庭環境、被災し家族も故郷も全て失ってしまい、自分とは関係ないと思っている人への怒りや悲しみそれを近くにいながらどうしても理解できずにいるもどかしさなど、他人にはなかなか言えないような内容をぶつけ合えることは、高校生の友情の深さがあるからできることなのではないかという意見もあった。原発や地震の恐怖を知らない私たちの、想像し理解することのできなさがもどかしく思った。タイムリーな話題を、ファンタジーの要素も混ぜながら、コミカルなセリフと、棘のあるセリフの対比を使って鋭いメッセージがひしひしと伝わってくる所が深い感銘をあたえていた。
 「星をいく船(ただし一人乗り)」という題名は咲恵が家族を失いひとりきりで生きていかなければならないことを表しているのではないかという意見が多くあった。見えない海を、見えない船に乗って、一人で漕いでいかなくてはならない。それは同時に、私たち高校生が、これからの人生という海を、自分一人の力で進んでいかなくてはならないことも表しているのではないかとも思った。
 この作品をみて、「感じる」ことや、「ちゃんと感じ取らなくてはならない」と思うところがたくさんあった。最後、咲恵役であるマキが舞台にむかって一人でお辞儀をするのは、悲しさや怒りや不安などをない交ぜにした気持ちと、それでも自分はひとりぼっちではないということを表しているのではないかと思った。


《専門家・顧問審査員会》

 作成中




 (愛知県)尾北高校
「SAKHALIN」 伊藤 弘成 作


《生徒講評委員会》

 舞台は66年前。樺太(現サハリン)の電話交換手として真岡電話局につとめる智恵子や同僚たち、そして智恵子とその周囲の人たち、また定時連絡をするミツの戦争の話である。
 舞台上には、六つの電話交換台があり、上手には豊原の電話局が見やすく区切られていた。そして中央の高くなっている場所は時には局長室になり、また中庭にもなった。女性たちの強さや戦争の緊迫感が、強い迫力で私たちを圧倒した。
 細かいところまで作りこみがされ、リアリティーがあふれている劇で引き込まれた。当時の女性の服装であるモンペや日本兵の軍服が再現されていて、階級などもわかるようになっていた。また、おしるこを食べているときの和やかな雰囲気から一転、「至急報」が入ったときの緊迫した空気や、女性たちが青酸カリを飲んで自決する場面の苦しい叫びが、戦争を体験していない私たちにもまるでその場にいるように感じさせた。ストップモーションや声量を落とすなど、見せたい場所を観客にわかりやすくする工夫がされていた。
 戦争について、講評委員内で活発に意見交換が行われた。戦争が終わっても戦争を続けるという理不尽さや、次々と自決していく女性たちの目を背けたくなるような最期、ミツの「人が死ぬ価値のある戦いですか」という言葉が私たちの心に深く突き刺さった。特攻隊で死んでしまった婚約者から手紙をもらった智恵子は、通信機を武器に戦うことを決意し、同僚が自決する中で一人だけ生きようとした。彼女にとってその手紙は戦う決意のすべてではないか。しかし投降した智恵子の生死については意見が分かれた。また、弟が国民義勇隊に入隊した同僚の徳子は、弟に「前だけ見て戦えよ」と言う。その言葉には本当は弟に死んでほしくないという姉の思いが隠れていた。戦争が人を狂わせているように感じられ、誰も幸せになれないという結末を呼んでいた。
 演出では、花道を使って電話交換手の日常や戦争状況をわかりやすくする工夫がされており、電話交換手の近くで戦争が行われているという臨場感があった。智恵子と恋人が手紙を読む場面では二人の声が自然に切り替わって行き、違和感がなかった。また、死んだ人たちが、門のような二つの柱の間を通って行ったのが死の世界へ誘われているようだった。
 照明は場面を適切に区切って見やすくしていた。ホリゾントは、前半は明るい色で、後半、話が重くなるにつれ赤っぽい原色が多く使われるようになった。音響では、場面が切り替わるときの鈴の音、電話がかかってくるときのブザーの音がちょうどいいタイミングだった。またその音は、私たちの恐怖をあおった。
 完成度がとても高く、よく練習されていた。部員同士に信頼関係があり、遠慮がなかった。それらが自分たちが体験していない戦争をより臨場感あふれる舞台にしていったのではないだろうか。当時の人が望んだ国に生きている今の生活のありがたさや、戦争の悲惨さについて、強く印象に残る劇だった。


《専門家・顧問審査員会》

 作成中



 (石川県)金沢辰巳丘高校
「amour ou argent」 河原 加奈 作


《生徒講評委員会》

 みんなが知っているシンデレラを題材として扱っていて、さらに少し設定も変えていてオリジナリティーがあった。パロディの劇だったが、伝えたいことを面白く伝えていた。
 愛とお金と言う真剣なテーマに対してコミカルな内容の劇で、講評委員から楽しい、おもしろいといった感想がでた。しかし考えさせられる劇でもあり、登場人物からの「愛と金自分ならどちらを選ぶか」という問いかけに対し、講評委員では「愛を手に入れるためにがんばって働く」、「金より愛は手に入れにくい」、「生きるために必要なもの」だから愛を選ぶという意見と、「お金で買える愛もある」、「お金があるから生きていける」から金を選ぶという意見に分かれた。最終的には、どちらも必要なもので簡単に決められるものではないという結論がでた。
 全体を通して楽しげな雰囲気に溢れている劇だった。このように客席にも楽しさが伝わってきた要因には、キャストが大きく関わっているだろう。登場人物が多いが、一人一人の役割がしっかりしていたことに加えて、役者がいきいきと楽しそうに演じていた。キャストのキャラが一人一人に合っていて、キャストの動きもシリアスとギャグにメリハリがあった。特に執事役の演技がキビキビとして観客の目をひきつけていた。
 舞台については、引き割り幕によって舞台上の空間を狭くしたり広くしたりすることで、小さい家と大きなお城の違いがうまく表現されていた。また、舞台装置もそれぞれの場所に必要なものが的確に置かれていて、違いがよくわかった。残念だったのは、照明が顔に当たっていなかったシーンがあったことだ。内側からの明かりでぬくもりを出しているのではという意見もあったが、表情豊かな役者を引き立てるために前明かりをつけた方がよかったのではないかという意見もでた。シリアスな場面で、ピアノの生演奏が活きていた。せっかくなので演奏している姿を見たかったという意見もあった。
 作品独自の世界観や役者一人一人の個性があり、観客を劇の世界に引き込んでいたと思う。観客を楽しませようという雰囲気が良く伝わり、笑いの絶えないあたたかい劇だった。


《専門家・顧問審査員会》

 作成中



 (愛知県)東海学園高校
「田舎一人舞台」 近藤 輝一 作


《生徒講評委員会》

 最初はとても明るい始まり方で、最初一人だったのが次々増えていってキャスト同士の絡みが面白かった。
 後半になるにつれ原発が主人公の周りの物や人をえぐり取っていくようなシーンも増えていき、前半とのギャップがあった。タイムリーな原発の話題に触れ原発という問題にも問いかけてくる劇であった。
 主人公である洋の人生は、友達のみっちゃんと父親を失うところから始まり、原発が原因によるマサの被爆、父の畑の汚染など、度重なる試練に襲われる。
 斬新だったのは、最初の登場シーンだ。主人公の洋が客席から登場し、そのまま舞台に上がっていくという演出は、観客が最初から引き込まれていった。
 洋は自分の存在や自由、自己矛盾について2回同じ台詞を言うが、最初と最後で受ける印象が全く違った。最初は一人で自由に楽しい振る舞いの中で語るため、台詞がいきいきした明るさを感じさせた。しかし最後は、大切な人たちを失って再び一人になった後のため、非常に寂しく孤独さを感じさせた。同じ言葉だが状況が対照的であるため、意味を再度考えさせられた。そこから、人生は諸行無常であり、生きていく事は何かを失っていくことだと感じた。最後の紗幕を使った、亡くなった人たちが手を振っているシーンは、孤独な中にあっても人生においての試練を乗り越え、強く生きていくというメッセージが受け取れた。これは生きている人間すべてに当てはまることであり、洋はその一例にすぎないのかもしれない。
 口調や衣装から役柄が分かりやすかったので、キャストが複数の役を演じていても違和感なく劇に入り込めた。洋の幼少時代のシーンは、役者それぞれの個性が動きや台詞回しによってとても活きていた。それに比べて松原さんは台詞が少なく異色さがうまく際だっていた。松原さんについては、原発の少数派の意見の象徴ではないかという意見や、人知れず亡くなってしまった人ではないかという意見がでた。松原さんが洋を助けなければ、そもそも一人舞台すら出来ていなかった可能性があるのだ。
 舞台セットは、キャスト自らが運んでくる演出が目をひいた。箱馬と平台のみでシンプルだからこそ様々なシーンを表せ、場転が多い劇を上手くこなせていた。しかし中には場転が多すぎて時間軸についていけないという声もあった。
 音響や照明は、駅のシーンでSSを使ってキャストの影を作ることで、別れの寂しさや感情のぶつかりを表現していた。ミラーボールの照明やダンスの音響は一種のショーのようであり、会場全体を巻き込んで観客に一体感を与えていた。とても印象的だった。
 冒頭のテンポ良くコミカルな流れからシリアスな展開まで、まるでジェットコースターのような芝居で最後まで目が離せない劇だった。


《専門家・顧問審査員会》

 作成中



 (岐阜県)吉城高校
「わらし・・・な日曜日」 松本 隆光 with 小坂井高校演劇部 作


《生徒講評委員会》

 観終わった後、我々の胸に残ったモノ。それは『心の温もり』である。
 客は気持ちを舞台に引きつけられ、男は父に、女はまゆみに、もしくはワラシに共感し、自分と照らし合わせたのではないかと思う。それぞれの性別、それぞれの年代が、それぞれの意見を持てる劇だった。
 テーマは親子の愛情。
 思春期の反抗や日々の父への怒りとやるせなさを抱えるまゆみと、娘の成長を素直に受け入れられないが心では娘の幸せを願う父という、客に共感させやすい現実的なキャラ設定に、ハチャメチャで二人を引っかき回す座敷童ことワラシという非現実的なキャラ設定がおもしろかった。演出もおもしろく、例えば父の、女が家事をするものだと決めつけたりする亭主関白な設定や、遠慮なく放屁するところがリアル、またそれに対してまゆみが怒るポイントが的確だった。そのリアルさで、ありがちな問題だからこそ客に共感させようという思惑などが感じられ良かった。特に娘がワラシに変装し、父が娘への想いを告げるシーンで、二人が初めて向き合い、父は表には出せないが本当は娘が大人になっていることに気づき娘の幸せを心から願っていることを語り、娘は父の本意を知り泣き出してしまうのだが、その涙は同じ年代の我々に感動を与えた。
 「もし自分が同じ立場になったら?」という問いかけが講評委員会で出された。女子からは「昔の自分を見ているようだった」との意見が出たり、一方で男子は「格好つけたいからどうしても素直になれない父の気持ちがわかる」などの意見が出たりと、その意見の分かれ方が興味深い。
 スタッフワークは、舞台セットにこだわりが感じられ、実際の家庭の雰囲気を味わうことができた。例えば役者が使わなくても置いてあるティッシュ、ふすまのなかの段ボール、キッチンにおいてある調味料など、細かいところまで再現されていた。
 また前方のパネルの後ろの中割幕を狭めることで、押し入れのなかのワラシを観客の目に触れさせることなく移動できるセットになっており、それが本物の座敷童だと父、そして観客をも錯覚させた。
 しかしキッチンの演技が重要だったにもかかわらず、下手に寄りすぎていて役者が見づらかった、舞台全体が横に広くなりすぎていて見ていて疲れてしまったなどの意見が講評委員から挙げられた。
 音響と照明は大変シンプルだったが、それが効果的で印象深かった。特に効果的だったのは、父が娘への思いを語り、それをワラシ扮する娘が聞くシーンでの照明だ。観る側に、親子の世界を二本のサスペンションライトで視覚的に印象づけた。
 この劇を観て、自分の親とのけんかを思い出し、苦笑いをする人も多くいるだろう。しかしけんかができるという幸せも同時に感じることができた。遠慮なくけんかできる相手がいる、そして仲直りができる相手がいる、そんな幸せが感じられた作品だった。


《専門家・顧問審査員会》

 作成中




 (石川県)小松高校
「海へ 〜DOLLより〜」如月 小春 作 大島 理子 構成


《生徒講評委員会》

 「人生はチョコレートの箱みたいなもの。食べてみるまで中身はわからない。」
 バラバラな空間にいる5人の少女。だが、それぞれネット間でつながり、現実世界よりも大切な仲間となっていく。勉強、学校生活、進路、恋人など高校生のリアルな悩みを抱える中、自殺しようと5人は海へ行くが最後には生きていくことを決心する。
 劇を観てまず飛び込んできたのは5人の部屋のセットだった。それぞれ一目見ただけで、真面目な子、乙女チックな子など個性がはっきりとわかる物の配置が見事だった。また、別々の空間に5人がいるが、会話のテンポなどから同じ空間にいるような一体感があった。だが、中央にあるベンチをもっと活用して、「私は馬鹿です。」という今までの自分を壊し新しい自分になったと宣言するシーンの時、上に乗ってもっと主張を大きくしてみてはどうかという意見があった。
 音響の演出としては場面と場面を繋ぐBGMが明るく、物語の雰囲気に合わないのではないかという意見が出たが、それは現代の女子特有の表面的な明るさを表しているのではないかという解釈もあった。照明は海のホリゾントが美しかった。フェードインやフェードアウトが自然でスムーズに物語世界に引き込まれた。
 演出として、主役5人を取り巻くドール(黒子)の存在が異質なもので、観客の印象に残るものになっていた。主役をドールで囲み、追い詰めることで、その孤独感を強調させていた。また、その機械的な姿勢や動作も不気味さを加速させていた。主役5人の演技はスムーズで、見ていて共感できた。特に、最後海で会うシーンは本当に仲がよさそうで、彼女らの繋がりの強さを再確認させた。
 この劇を見て、現実の友達よりもネットで知り合った友達の方が本音を言える関係であり、それを重要視する少女を描くことで、現代のメディア社会を表現していた。そういう友情もいいのではないか、直接会って無くても心は繋がりあえるのだということが伝わってきた。講評委員の中では、5人はなぜ最後海へ行ったのかという疑問が出た。それには、海は自由の象徴なのではないかという意見や、5人はよく空を見ることから、彼女らを繋ぐ空から降ってきた雨や雪が最後に流れていく海へ集まったのではないかという意見が出た。またなぜ5人は海に自殺しに来たのに最後には生きることを選択したのかという疑問も出た。それには、現実でそれぞれが初めて会い、一緒に海を見たことでもう一年だけがんばって生きてみようと思ったのではないか、「人生はチョコレートの箱だ。」という言葉を聞いて、自分たちの箱を開けたくなったのではないかという意見があった。
 葛藤の中で生きていく5人の少女たち。そこに私たち高校生には学校生活の中、友情や恋人関係の課かでどこかしら共感できる部分があった。少女たちの最後の決断はいやなことがあっても進んでいく強いメッセージを感じさせた劇だった。
 私たちの人生の味はどんな味になるだろうか。


《専門家・顧問審査員会》

 作成中




 (愛知県)藤ノ花女子高校
「きらきら」 武田 郁子 + 花ちゃんズ 作


《生徒講評委員会》

 わたしたちがこの劇をみて感じたことは、「命とはなにか」ということだった。望まれない妊娠、DV、戦争など、人間のどろどろした部分をどろどろしたまま表現するのではなく、産まれてくる前の子どもの純粋な気持ちと母親が子どもを愛する気持ちを軸に物語が展開されていった。特に命の重たさを感じさせたのは、優の「人の命をなんだと思ってるの!」というセリフだった。エピソードを通して、自分たちは父と母からうまれた存在だと思っていたが、自分で選んで産まれてきたのかなと感じることができた。また、題名の「きらきら」は、子どもたちが生まれてくるこの世界や、母親が子どもを愛し育てることは美しいことだという意味が込められているのではないだろうか。この劇は女性目線の劇だったが、男性から見ても考えさせられる劇だったようだ。妊娠に対しては女性は受け身のため、男性側が自分の行動について責任を持たなければならないという意見もでてきた。優は命を守り、産む決心をしたが、様々な事情で中絶せざるを得なかった方が見たらどう感じるのかをもう少し考えてもいいのではないかと思った。
 この作品の大きな魅力は、産まれてくる前の子どもたちの世界をうまく表現していたところである。例えば、幕開けスモークや暖色系のホリゾントの色遣いなどは柔らかく神秘的な雰囲気を醸し出していた。舞台上にはピンクと黄色を基調とした大小さまざまな箱がおいてあり、そのピンクと黄色の色がベビールームのように感じさせた。また、現実世界のシーンの時は箱の中に赤ちゃんが隠れており、母親のお腹の中にいる胎児のように見えた。
 活発に意見が交わされたのは、赤い糸の存在についてだった。この赤い糸は母子の血のつながりだと考えられたが、なぜはじめのシーンで切れたのだろうかというのが問題視された。意見としては、母子ともお互いが出会うために必要なことが準備不足だったからではないかということや、相手を思いやることがまだできてなかったということを表現したかったのではないかという意見もでた。様々なとらえ方ができ、考えさせられる演出だったといえる。実際に中絶をした老婆と、中絶をせず、子どもを育てようとする優との対比がわたしたちの胸を突いた。最後、赤い糸が交わることなくまっすぐだったのもとても印象的で、老婆と子どもがやっと寄り添えたところは感動的だった。
 役者の練習量の多さを感じさせられた。教師と生徒の掛け合いが自然でタイミングが合っていたことや、高校生が子どもに手紙を書くシーンでの高校生と子どもの動きがぴったりだったことなどがそうだ。また、役者の個性が出ていて、シリアスな場面もありながら笑いを誘う場面もあり、そこでも観客の心を掴んでいたように思う。子どもたちの子どもっぽい感じもとても良くでていた。ただ、藤子とれいかのキャラが少し弱かったように感じたので、もっと個性を際だたせるとよかったのではないかという意見があった。
 照明の工夫に目を奪われた。特に、老婆が出てくるシーンのスパイラルの効果について講評委員でもいろいろな意見がだされた。老婆の生きてきた時代を表しているのではないかという意見もあれば、子どものおもちゃのメリーゴーランドを表現しているのではないかという意見もでた。照明によって、こんなにの様々なとらえ方ができるのかと感じた。赤い血や月の光などを効果的に表現することによって、より観客を引き込ませていた。
 音響はタイミングも良く、選曲のセンスもとても良かった。音を入れすぎではないかという意見もでたが、幻想的なあの雰囲気を作るにはこの音響は欠かせなかったのではないかと言う意見もでた。
 命や親子の関係を改めて考えさせられる劇だった。


《専門家・顧問審査員会》

 作成中




 (富山県)呉羽高校
「ごはんの時間2ぃ」 青山 一也 作


《生徒講評委員会》

 昼休みの何気ない会話の中で将来への漠然とした不安や、社会における男女の区別に対する不満を言い合い、考えていく。周りに流される無力で不安定な高校生たちを描いた舞台であった。
 全体的にテンポが良く、自分たちにも関わりのある事なので、話に入りやすかった。キャストの大きな演技とそれに対するリアクションが面白く、特に女子の集団の中で吉田が良いアクセントになっていた。 激しく踊ったり走ったりする宇野を始め、女子たちのそろった動きなど、キャスト一人一人の身体能力の高さが見られた。舞台に立っている人たちが本当に楽しそうで、見ていて最後まで飽きなかった。
 照明については、宇野がエビフライについて語る場面などでのホリゾントの色の変化で、よりコミカルな表現がなされていたのがよかった。後半での、吉田、女子たち、宇野の机がそれぞれサスで区切られていたのは、彼らの心の距離を表しており、徐々に区切りがなくなっていくなどの細かな工夫が見え、彼らの心の距離が縮まることを表現しているように思わると講評委員のなかで解釈された。
 音響については、ドアの開閉音を音響で表していたが、全体的に音量が大きかったので、宇野が怒って教室を出て行く場面が目立たなかったのが、やや残念だった。コミカルなシーンでの音響は効果的であった。
 女の子たちが自分の進路について、結婚、家事、育児などと仕事の兼ね合いについての思いや悩みを吐きだしていく場面は、同じ高校生である自分たちの状況と重なり、共感を覚えた。また、自分の進路を考えれば考えるほど分からなくなってしまう、自分の夢が漠然としているという点でも共感を覚えた。女子たちの話し合いからは社会の中での男と女の差が強調されていたが、吉田の「男も女も大変なんですよ」という主張から、自分の今までの意見を改めて見直す事ができた。
 生徒たちの「流れていく」「流されていく」という台詞は、彼女らの将来における不安や、立ち止まりたいのに周りに流されていってしまう、不安定な心を表していた。台詞をいう吉田の後ろで女生徒たちがふらふらと歩き回る事で、登場人物たちの不安定な心情がよく表現されていた。
 脚本が女性のデメリットと男性のメリットだけピックアップされていて、視点が一方的だったので、女性と男性両方の視点からお互いの立場を考えなければならないという意見もあった。
 現代の社会ではあまり見られない「男性だから」「女性だから」という考え方で物事をとらえているので、女の子たちの意見には共感ができなかったという意見もあったが、この芝居自体がその結論を出しているのではなく、この問題についてさらに深く考えていくことが私たちに求められているのではないだろうか。


《専門家・顧問審査員会》

 作成中




 (三重県)高田高校
「マスク」 西尾 優 作


《生徒講評委員会》

 見終わった後多数派の意見に飲み込まれてしまう怖さを感じる劇だった。
 この怖さは劇全体から感じる不気味さにあると思った。友達に裏切られたり、周りに合わせていないと浮いてしまうという怖さは、私たちの生活の中でも身近に感じることができる現実的な設定だった。主人公アケミに対するクラスメイトが圧力をかけていく雰囲気や、アケミの意見を曲げようとしない幼稚な態度のぶつかり合いが、会場全体に緊張感を与えていた。クラスの中でアケミが段々と孤立していくにも関わらず、周りに合わせていくのが当たり前という空気を作り出している周囲の人物がうまく演じられていた。大人数のキャストでも、一人一人がしっかりと自分の役割を演じていて存在感を出していたが、結局は全体に飲み込まれてしまう(ハンサムたちでさえも)異様な雰囲気を感じることができた。この雰囲気はストップモーションや劇中に何度かあったアケミだけにサスが当たり、周りの声に自分がかき消されていくシーン、マスクを付けているにも関わらず良く通る声などの完成度の高い演技によって引き立っていた。
 題名にも使われているマスクというものは、アケミの過去と関連させてつけることによって自分の身を守ったり、自分を覆い隠して周りの意見に同調する象徴として使われているのではないかという意見があがった。しかし一方では、マスクはもともと感染を防ぐものなのでマスクをすることが広まっていくのは矛盾しているのではないかという意見が講評委員の中であった。さらに講評委員の意見には、少数派になりたくないのでやりたくないこともしなくてはならないという意見と、自分が思っていないことを強要されるのは嫌だというクラスメイトとアケミの両方向の視点からの意見もあった。
 舞台セットは廊下の窓まで細かく作り込まれており、ホリゾントを違和感なくうまく使っていた。さらにその廊下をハンサムが疾走するところは印象的だった。
 衣装では各キャストの個性がでていた。例えば、地味な二人はブレザーを着て膝が隠れるスカート丈に対して、派手な二人は胸元を開け太ももが見えるスカート丈がリアルだった。
 音響効果は少なかったが、前半のハンサムの登場シーンで使われていた明るく有名な音響やダンスや、剛田タケシコ率いるハンサム親衛隊のキレのある動きが観客を楽しませ、なおかつアケミの孤独さや、多数派に流されてしまうむなしさをより際だたせていた。
 マスクをつけた人が多数でる中でも、最後まで味方だったサヤカのアケミを思う気持ちが、形だけでも周りと合わせることが出来た。しかし、最終的には大多数の意見に飲まれてしまったアケミは果たしてこれから周りに馴染めるのか、そしてこの生きにくい日常の中を人とうまく合わせて生きていけるのかという意見が出た。
 時には人の意見も大切にし、自分が折れなくてはならないという社会での生き方を、改めて観客全体に問いかけていた。


《専門家・顧問審査員会》

 作成中




 (愛知県)愛知高校
「合牢者」 井上 ひさし 作 愛知高校演劇部 脚色


《生徒講評委員会》

 最初から緊迫感が絶えず、飽きることなく引き込まれる劇だった。
 矢飼の、友情とお金どちらを取るかという迷いや葛藤について、講評では活発に議論がなされた。結果として出世するための道を選んだ矢飼だが、その中には親に裕福な暮らしをさせたいという思いと、友情を裏切るわけにはいかないという究極の選択があった。究極の選択には副総長の企みが関わっていた。出世をエサに矢飼を自分の思い通りに動かそうとし、3枚の封筒の選択に至っては3枚どれをとっても同じという、大人の汚さを強く感じさせた。矢飼は副総長に一方的に利用させる立場であり、ここから社会の中では利用されるものとされるものははっきり分かれているのだとわかる。
 また、矢飼と原田がどうして急激に友情を深めることができたのか、そこにどのような理由があったのかも議論された。意見としては、二人に共通する点が多かったためだろうというものが多かった。原田の「貧乏御家人の家に生まれ、警察巡査として似たような境遇の人生を送ってきた。」という意味のセリフからも、そのことが二人の間に友情が生まれるきっかけとなったとわかる。しかし、友情が深まるまでの展開が早すぎるという意見もあった。
 最後の犬の遠吠えは印象的だった。矢飼の原田を裏切って死なせてしまった後悔やむなしさ、文字通り権力の犬になってしまった自分を表現しているのではないかと考えられた。悲しげな声が心に突き刺さるだけに、遠吠えは少な目のほうがより効果的ではないかとも感じた。原田が矢飼を責めなかったことも余計に切なさを感じる要因だったのだろう。
 舞台は下手側に鉄格子と監獄の内部を設置し、上手にはそれとは別に空間を作り出していた。また、花道を活用し、監獄の外の世界を表現していた。割幕や薄暗い照明を使うことによって、牢屋の閉塞感や寒々しい雰囲気が出ていた。副総長室は、上からのみの照明をあてることで表情が見えにくく、不気味な威圧感があった。権力の象徴を表現していたのかもしれない。抑えた照明は牢の雰囲気を出していたが、副総長室などになるスペースは、もう少し明るさがあってもよかったかもしれない。
 竹刀で矢飼を打つ音や、靴音、犬の鳴き声などが動きに合っており、本当にその場で行われていた行動のように感じた。BGMの選曲や入るタイミングが作品の世界観を壊さず、統一感があった。しかし少々音響のレベルが大きく、セリフに被ってしまっており、聞き取り辛かったのが残念だった。
 私たちが普段見慣れない雰囲気の劇だったため、少しとまどいや抵抗を感じたものの、この作品から、権力に流されて何もできなかった虚しさや悔しさ、人間の醜い部分、利用され、気づかないままに友情を裏切ってしまう人間の弱さが伝わり、考えさせられる劇だった。


《専門家・顧問審査員会》

 作成中




 (愛知県)緑高校
「ベイビー*フェイス」 田中 完 原案 太田 善也 作


《生徒講評委員会》

 たまたま家に集まった女性がすべて妊娠していた。夫の職を心配する妻、お腹の中の子どもを心配し過ぎてしまう夫、娘の妊娠を知らなかった夫婦……様々な問題を抱えた家族の物語だった。それぞれがぶつかり合う中での温かな夫婦と親子の絆を感じられる劇だった。
 実際に強いというよりも、誰かを守るために強くあろうとするおじいちゃんのかっこよさがよく伝わってきた。そんなおじいちゃんが、これから産まれてくる孫の成長を想像し、「死にたくない」と言ったシーンでは、おじいちゃんの気持ちや長男が抱きしめたところに感動して涙が出たという意見が多かった。おじいちゃんは初めて弱さをみせたのではないかと多くの講評委員は考えた。
 委員の中で、おじいちゃんが亡くなった時と赤ちゃんが生まれた時の順番はどうだっただろうかという疑問が出た。赤ちゃんが生まれたのを見届けてから安らかな表情で亡くなったのではないか、またはちょうど入れ替わるように同じタイミングだったのではないかという、2通りの意見が出た。おじいちゃんが赤ちゃんの顔を見て亡くなったと考えるほうがこの劇の温かな雰囲気に合っているかもしれない。また、美織の連れてきた櫻井さんのキャラクターも注目を集めた。櫻井さんが飲めないお酒を飲んで酔っていた時、おじいちゃんに向かって「頑張ります」と言うところでは、誠実な人柄が受け取れた。彼も元々は強かったのではなく、強くあろうとしたベイビーフェイスの一人なのではないかという意見や、理想の男だとする見方もあった。
 ラストシーンの解釈として、机に置いたアルバム照らされていたのは、亡くなってもなお、家族の中心におじいちゃんがいるということを表しているようだった。
 演出では、キャストの人数が多いため関係が分かりづらくなるところを、登場時の立ち位置や劇中に出てくる三角帽子の色から、夫婦関係が分かるようにする工夫がみられた。こうした人物関係の把握しやすさには、演出だけではなくキャストの演技力も働いていた。同時に別々の人が話していたシーンでも、聞かせるべきセリフとそうではないセリフを区別し、声量に差をつけるなど細かい気配りが見られた。細かなところではあるが、「万引きしちゃうよ」など刺激的な冗談も織り交ぜられて、劇にアクセントをつけていた。
 舞台装置は丁寧に作りこまれていた印象が強い。例えば、最後の場面で舞台奥に石垣と桜が見える演出は好評だった。また、壁の汚れがあったところが、生活感があるとの意見があった。
 照明は必要最小限に抑えられていたが、窓枠の影で夕方を表現するなど、繊細さが際立っていた。同じように、音響でも役者が舞台の奥に移動したのに合わせて着信音の音量を変化させていたことに細部へのこだわりが感じられた。
 タイトルのベイビーフェイスはおじいちゃんだと考えられるが、色々な解釈が可能だろう。難しい予備知識が無くても素直に楽しめる劇であり、心温まる作品であった。


《専門家・顧問審査員会》

 作成中




 (三重県)桑名西高校
「たんぽぽん」 湯田 晃 作


《生徒講評委員会》

 同じ演劇部の友達同士であったナツヒコ、ハッチャン、ミドリ。最後の公演のため、3人で台本の打ち合わせをしていたが、ナツヒコは交通事故にあい、高次脳機能障害になってしまう。
 見終えた後、なんともいえない切なさが残る劇だった。
 舞台は、抽象的な構成で作られており、どんな部屋にも見ることが出来たという意見が多かった。黒色のパネル上に入っていた3色のラインには、3人の存在が表現されていた。青色と赤色がそれぞれ2本引かれていたのに対し、黄色が1本で他の色より太かったことが、講評委員のなかで、ナツヒコが障害で「変われない存在」になり、友達2人のなかでずっと大きい存在として居続けていくことを表しているのではないかという意見が挙がった。
 ナツヒコが高次脳機能障害であることを知らされた時の友人2人の信じられないといった気持ちが役者の演技で観客まで広がっていった。特に、初めてナツヒコの病室で対面した時に、ナツヒコの不可解な行動に違和感を覚えてしまう友人2人のシーンと、障害を負ったことを知らされた後に病室を訪ねた時の会話が全く同じだったのに哀しさを表現できていた。ナツヒコの黙々と椅子を運び続けるシーンはナツヒコが病気の症状で不気味な行動をとり続けてしまうのではないかという解釈や、ナツヒコが事故前と変わってしまったことを意味しているのではないかという意見など様々な解釈があった。
 ナツヒコが事故にあったときの車のヘッドライトが動いていく照明の使い方が、事故当時の臨場感を上手く表現していた。また、ラストのシーンでのタンポポの照明が本当に綺麗で、印象的だったという意見が多かった。タンポポが映し出された位置が黄色のライン上であったことから、タンポポはナツヒコを表現しており、そのタンポポの照明がゆっくりと消えていくところは、タンポポが綿毛になって飛んでいくようで、ナツヒコが「変われない存在」から解放されたことを意味していたのではないかという意見が出た。音響の面では、蝉の声が夏の暑さを強調しているところや、事故の時の雨の音が互いにだんだん大きくなっていってカットアウトする手法がよかったという意見が多く出た。
 事故の後、「変われない存在」になってしまったナツヒコと「変わっていく存在」のハッチャンとミドリ。一緒に成長できなくなってしまったけれど、3人の間にはけっして切れない絆があった。
 卒業式後、「たんぽぽん」を上演しようとするハッチャンとミドリ。ミドリの持つ2つの卒業証書や、誰もいない体育館で上演するという事に、ナツヒコを大切な存在として一緒に卒業したいとする2人の切ない希望が満ち溢れていた。タンポポが綿毛になり、それを静かに見守る2人には、寂しさと、友の死を受け入れ、乗り越えようとする意志が感じられた。
 3人のように、大切な絆を私もつくりたいと思った。


《専門家・顧問審査員会》

 作成中




 (岐阜県)池田高校
「きらわれたガール」 池田高校演劇部 作


《生徒講評委員会》

 いつも不自然なほどに笑顔を浮かべている、「いい子」である少女ナナミが、現実世界とエリマキトカゲの世界を行き来し、飛ぶことを夢見るエリマキトカゲ、コダマと出会い自信を手に入れていく、というストーリーだった。終始勢いのある芝居で、最後まで楽しみながら観ることが出来た。非常に高いエンターテインメント性を持っていた。
 キャストがみんな音楽に合わせてキレのある軽快な動きをしていて、個々の高い運動能力を存分に発揮していた。一度に極端に多い数のキャラクターが登場しているわけではなかったが、キャストが舞台全体を動き回っており、舞台が狭く感じるほどだった。台詞の言い方などもリズミカルで、聞いていて心地よかった。また、観客から見て動きがどう見えるかという研究が良くなされていて、自然に「楽しい!」と思わせてしまう力があった。衣装などがカラフルで、それぞれの個性がよく表れていた。人間とエリマキトカゲの二役をこなしているキャストが多くいたが、エリマキトカゲ特有の"らしい"動きなどで区別されており、観ている方もあまり混乱しなかった。しかし、ダンスなどのノリの良いシーンとストーリーが進むシーンの切り替わりが激しく、観ていて忙しかったという意見や、動いているシーンは生き生きしていて良かっただけに、ストップモーションで少し揺れていたりするのが残念だという意見もあった。
 照明については、ホリゾントにエリマキトカゲの落書きが浮かび上がったところや、コダマの飛ぶシーンでの影など、多くの巧みな演出が見られた。照明を当てる角度によって、キャストの表情がよく見えて、感情などが伝わりやすかった。また、音響に関しては、テンポの良い、気持ちが上向くような音楽を多用していた。また、最初のナナミの語りのシーンなど、音楽の盛り上がりと台詞の盛り上がる部分がきっちりマッチしていた。これらの照明・音響が、この芝居における楽しさや明るさを一層引き立たせていたように思う。ただ、音楽だけで台詞のないシーンなどでは音量がもう少しあってもよかったのではないだろうか。
 舞台美術の面では、装置の後ろに隠れたりできる機能性はもちろん、階段の色が爬虫類のようで、エリマキトカゲの世界の雰囲気に良くマッチしていた。
 非常にテンポが速くストーリーが進んでいったため、この作品が伝えたかったものについて、よく分からなかったという意見があった。しかし、コダマの何度失敗しても夢に挑み続けるポジティブさや、友人や好きな人に対しどこが消極的だったナナミが、それを見て自分の良さを発見していく様子から、「人に嫌われることを恐れて保身に走らず、一歩踏み出そう」というメッセージを受け取れたという意見もあった。どんな人でも、前向きに生きていこうと思わせる力があった。
 いい意味で高校演劇の枠を越えた楽しさ、面白さが非常に良く表れていて、観ていて決して飽きると言うことがなかった。何度もくり返し見たくなるような魅力のある作品だった。


《専門家・顧問審査員会》

 作成中




 (愛知県)刈谷高校
「Life is Judgement!!」 刈谷高校演劇部 作


《生徒講評委員会》

 全体のテーマとして、個人の選択の重要性や、多数意見に流されがちな我々日本人の国民性に疑問を投げかけるような劇だった。この劇を見て、一番感じたのは「選択する重要さ」である。
 一見ごく普通の会社で、突然施行された「カード・ジャッジメント制度」。この制度の意味や、カードに全ての決定権を委ねてしまうことへの恐怖について、講評委員では活発に議論がなされていた。序盤ではコミカルな雰囲気でテンポ良くキャラクターそれぞれの性格や立場を表現されていただけに、後半に行くにつれてカード・ジャッジメント制度により徐々に壊れていった登場人物達の異様な雰囲気が際立っていた。
 緞帳が上がった瞬間に、この物語の舞台が会社のオフィスであることが分かった。それほど、精巧に作り込まれた装置であった。パネルを使って室内という空間を区切り、会社のロゴ入りの段ボールや、机の上の書類など、細かい小道具にもこだわりが見られ、丁寧に作品の世界観を表していた。しかし、階段の必要性や、出入り口が統一されていなかったためにどこに繋がっていたのかが分かりづらいなどの面が少し残念だった。その他のスタッフワークについて、暗転時の音響や、恐怖を煽る照明が評価されていた。だが、下手側のパネルに割幕がかかってしまっていたことや、捌けた後にヒールの足音が響いていてセリフにかぶっていたことがよくなかったという意見が出た。
 独特の不安さや、気持ち悪さが演出によって工夫されていた。この制度を導入したのが庶務課だけであったという部分について、「同じ会社なのにおかしい」と疑問視する意見もあったが、カードに縛られている哀れな部分としての庶務課と、縛られていない部分であるその他の部署との対比になっていたのではという結論に至った。自分の意見が言えないことや、集団や人の意見に流されてしまい、自由でなくなる怖さが、全体を通して表現されていた。最初のブルー暗転のときはその中での動きが見えていたが、徐々に暗転に変えていき、動きを見せないようにしていくことでカードによって堕ちていく人間の心理をよく表していた。
 登場人物達が自分自身で考えることを止め、からっぽになっていく過程がキャストの演技力で見事に表現されていた。勢いのあるテンポのよい演技だったが、同じ動作を繰り返していたため、前半のテンポが一定に感じられた。そして、全員の服装に統一感がなく会社員に見えないという意見が出た。お茶を運んだり、配ったりする動作や、ばらまいたカードをそのまま床に散らばったままにしておくなど、細部の動きにもう少し改善すべき点があったのではないかと思われた。
 劇中の、一瞬疑問を感じながらも、大多数の意見に従ってしまう人や、指示される事でしか動くことが出来ない人などが、現代社会の人々を象徴しているようだった。このような状況は現実にはなかなか存在しないが、世間や社会において、私たちは自分の意志で選んでいるように見えて、実は無意識のうちに選択肢を狭められ、選ばされているのではないかという事に気づかされる劇だった。「自分で選択しない事が一番の罪」というセリフは、私たちにもう一度現実を見直してみてもよいのではないかと訴えているようだった。


《専門家・顧問審査員会》

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 (富山県)富山高等専門学校
「夏芙蓉」 越智 優 作


《生徒講評委員会》

 卒業式の夜、学校で三人の友人を待つ千鶴。集った四人の会話が少しずつかみ合わなくなっていく。千鶴が待っていた三人の友人は、事故で亡くなっていたことが明らかになる。そんな彼女たちのなか一人だけ生き残った千鶴は、夏芙蓉を三人にたむけ、卒業の雰囲気が漂う教室を後にする。
 ダークオープンとともに袖からの少女たちのたわいもない会話が開始され、どのように物語が展開されるのか期待が持たされる幕開きであった。明かりが入り、卒業式終了後の雰囲気を残した教室のセットが表れた。セットは学校の教室をできるだけ最小限の舞台装置で表現していたが、十分に学校であることが分かった。ただ、黒板の飾りやごみ箱の文字から、小学校の教室に見えてしまったという声もあった。
 役者の演技に関しては、千鶴と舞子の友情関係が大変よく伝わり、さらに玉井やサエと舞子の間の関係性もよく表れていたと思う。この作品の魅力の一つである女子同士の友情関係が十分に伝わった。千鶴の感情のこもった演技から心情がよく伝わってきたが、もう少し抑制をきかせることで観ている者に彼女の悲しみはさらに深く伝わったかもしれない。また、千鶴が舞子の気配を感じた最後の場面では、千鶴が懸命に見えなくなってしまった舞子を探している様子に心打たれたが、それまでの千鶴に対するイメージから少し離れてしまったと受け取る意見もあった。全体としては台詞回しが若干早くなってしまい聞き取りづらく、ややテンポの変化があるとより入り込みやすかったのではないかという意見も出たが、四人でこんな風にお菓子を食べたり一緒に騒いだりして、いつも会話を楽しんでいたのだろうという想像ができた。
 照明は、四人を照らす教室の明かりや、千鶴と舞子の出会いの象徴である傘に当たるスポットなど大変シンプルで、全体的には夜の教室のどことない寂しさを感じさせていた。さらに、場面の切り替わりが行われる際の薄い暗いブルーがより寂しい感じや孤独感を演出していて、シンプルながらも舞台の雰囲気に合った空気感を作り出していた。
 全体的な演出として、三人が亡くなったことに気付いた後、舞子との繋がりはとても上手に表現されていたと思う。一方、玉井とサエの扱いがもう少し丁寧に表現されていたらさらによかったのではないかという意見も出た。寝ている千鶴に上着を掛けたのが舞子ではなく玉井であったことに、違和感を持ったという意見も講評委員の中で少なくなかった。逆に演出面で効果的であったとの声がたくさんあったのは、最後に千鶴と舞子がお互いを見合って歩いていく場面であった。手を重ねるようでありながら互いの体を触れないようにしていたのは、二人がもはや手をつなぐことができないことを表していたように思われた。また、三人の死が判明した後、千鶴と他の三人の距離が離れ、三人がまるで自分たちの死を認めるかのように夏芙蓉の花を机に置き、光を求めるように手を挙げているシーンがとても印象的であった。
 学校に来た三人は、千鶴の強い思いに引き寄せられた霊のようなものというとらえ方もできるが、一方で、千鶴の夢、もしくは心の中の願いとして存在したものだったという意見もあった。いずれにせよ、三人とこの時間を過ごしたことで千鶴の卒業式が終わったのだと感じた。
 活発であった舞子が死に気付いた後のテンションの変化に役者の技量の高さを感じた。頼りないが誰よりも優しさのある千鶴と、しっかり者であるがお調子者の舞子。この二人がかもしだすハーモニーのようなものが、この舞台の軸をしっかりと確立していたように思えた。
 最後に、青春の美しさ、かけがえのないものを持ちそれを失う怖さ、などの高校生ならではの感覚で味わえるものをよく表現できた舞台であったと思う。生命の尊さや美しさを改めて感じた。


《専門家・顧問審査員会》

 作成中




 (岐阜県)恵那高校
「左様然らば」 植松 七海 作


《生徒講評委員会》

 そろばんをモチーフに展開される、笑いあり、恋心ありの楽しい舞台であった。特にキャラクターの個性がよく表現されており、セリフ回しやキャラ同士のやりとりが純粋に面白かった。笑いの仕掛けが、いたるところに用意されていたが、そのために観客の注意が拡散されて、本当に伝えたかったことの印象が薄まってしまったのではないかという意見もあった。あるいは逆に、もっともっと面白く出来たのではないか、非常にもったいないという声も出ていた。
 舞台については、細かく丁寧に作られていており、好評だった。開閉するドアや、ガラス戸、扇風機が首振りで回っていたこと等、関心の材料はたくさんあった。また、役者の服装も、季節が夏であることがすぐに伝わるよう配慮されていた。人数分以上の座布団をつみ重ねるなど、そろばん教室らしい雰囲気になるよう、小道具の使い方の工夫がされていた。
 前出のガラス戸については、本当に勢いよく開閉できることに感心しながら、その一方で、大きな窓なのか、テラスに出るのか、玄関なのかよく分からないという声も出ていた。
 役者同士のそろばんなどの小道具の受け渡しの間が自然さを出し、注目を集めるようによく考えられていた。笑いが多く起こる劇だけに、直後のセリフが聞き取れないことが多々あったのが残念だった。声量を上げてもいいが、次のセリフを少し遅らせるとよかったのではないかとの意見がでた。
 明らかに異様ないでたちで登場した、高村と秋山に対する驚きが、不足していたと見る向きもあるにはあったが、異様な二人をすんなり受け入れ、話が展開すること事態が、日常を裏切る異常な日常なのかもしれない。
 この劇から伝わったものは何かということについては、東の成長が上げられる。「あなたは魔王ですよ」というセリフが印象的で、魔王だから失敗しても何度でも挑戦すればいいじゃないかというメッセージを受け取ったという発言もあった。他に、東海大会で挫折した東へ「神谷さんやフジさんからしたらギザ十」であり凡人ではないのだ、特別だと伝えたかったのではないかという意見が出た。また、フジをはじめとする周りのキャラクターが必死に芝居を企てて、読み上げを読ませようとする熱意がよかった。東の挫折はよく共感できる話だったため、入り込めるという意見に対し、初対面の高村と部長を受け入れるのが早くあまり入り込めなかったとの意見があった。
 最後のシーンでは、そろばんが照明の光に反射されて一瞬きらめいたのがよかった。また、読み上げながら幕が降りる演出は、BGMとそろばんの音に加えて、拍手の音もかぶるので盛り上げるのに効果的であった。
 未だ前へ進めずにいる東へ遠慮がちに接していたそろばん教室の三人と比較するように、美術部の二人は遠慮なく自由に描かれていたのではないかという解釈もあがり、講評委員の理解が深まった。


《専門家・顧問審査員会》

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 (福井県)勝山南・奥越明成高校
「あれほどの 〜2012年」 川村 信治 作


《生徒講評委員会》

 この劇を見てまず大きく感じたことは、形は無くなっても気持ちは伝わっていくという事だった。その事を大きく感じた場面は、ラストに後輩達が部長に「演劇部、私ら引き継ぎます」と伝えた場面だった。学校は無くなるが、今まで続いてきた伝統や、部長の気持ちを守って引き継いでいこうとする部員たちの気持ちに、とても感動した。ミュージカル仕立てで観客の視線を集め、考えさせるという事や伝えるという事に加えて、楽しさなども伝えることができていた。
 歌っている時の表情やダンスの時の動きの大きさなど、役者がとてもいきいきとしていて元気をもらうことができた。ダンスをしながら歌を歌う場面では、声が少し小さく迫力が足りなかったという意見も出たが、動きながらというとても声の出しにくい状況でもあれだけの声を出しているのはすごいという意見も出ていた。役者の歌声はとてもきれいで心に染み渡るものがあった。やる気の無い時の後輩の「はい」という返事や、ラストの演劇部を引き継ぐと部長に宣言したときの後輩達の「うん」というところなど、短いセリフであってもしっかり感情が込められていて、役者の演技力の高さが伺えた。
 スタッフワークでは、まず舞台装置にリアリティーがあって良かったという意見が多かった。季節が夏から冬に変わるとき、下手側にあった木が葉っぱのついていない木に変わっており、細かいところまで気を配っていた。さらに、その葉っぱの無い木がもうすぐ学校が無くなってしまうむなしさを表現できていた。ギロチンの完成度が高かったという意見が多かった。照明は、ホリゾントの色がきれいで、夏にはロアーホリゾントの緑が濃く、冬には薄いといったように草の生えている量のイメージで季節感を上手く表現できていた。場面転換時に舞台の端にいる部長の理加にあてていた暗いブルーのスポットライトが、理加の不安や自分の代で学校が無くなってしまう悲しさなどの心情を表現できていたと思う。音響効果においては会話から歌に入る時のフェードインやタイミング、役者の声にかぶらない音量など役者や雰囲気に配慮できていてよかったと思う。ただ、ギロチンで首が切れる音について、もう少し鈍い音の方が良かったのではないかという意見が出た。
 演出の面では、劇が始まると同時に緞帳が下りていくというラストの演出がすごくきれいで、勝山南高校は無くなるが、その学校の意志や伝統はこれからも続いていくというのを表現していたのだろうか。また、場面転換の時にホリゾントの光のみを使い、役者の動きをシルエットで見せていたのが時間の流れを感じさせていてよかった。
 この劇は、劇と同じような状況に置かれている勝山南高校と奥越明成高校だからこそ出せる雰囲気があったと思う。伝統や人のつながりは切っても切れないもので大切にしていかなければならないという事をこの劇から感じさせられた。


《専門家・顧問審査員会》

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 全体講評

《生徒講評委員会》

 最初に、今回の中部大会の特徴を3つにまとめ、それについて講評委員から出た意見を紹介します。
 まず、親子の関係や友達同士の関係を考えさせる劇がありました。
 吉城高校の「わらし…な日曜日」は、親子の絆を改めて感じさせる劇でした。舞台セットがとても細かく作られ、照明・音響があまり使われていないことが、日常的を演出するのに効果的でした。
 小松高校の「海へ−DOLLより−」は、五つに分かれた平台の上にある部屋を照明が区切り、見やすい舞台にしていました。ネット上での友情を扱っていましたが、五人には強いつながりを感じ、「生きようという」と決意を固めたシーンがとても印象的でした。
 藤ノ花女子高校の「きらきら」では、照明や音響、スモークを効果的に使っており神秘的な舞台に仕上がっていました。高校生での妊娠・中絶やDVの問題や、親子の愛情について考えさせられる劇でした。
 緑高校の「ベイビー*フェイス」はキャストが年相応に演じられていて違和感なく観ることができました。完成度が高く、夫婦の関係や親子のあたたかい関係を観てとても感動しました。
 桑名西高校の「たんぽぽん」では、黒い舞台装置から劇の重々しさを感じました。最初の明るいノリの良い雰囲気とシリアスな雰囲気のギャップが三人の友情の切なさをひきたたせていました。
 富山高専の「夏芙蓉」では、千鶴とは違う世界に行ってしまうという三人の、光を求めているような動きが神秘的で美しさを感じました。

 次に、観ている観客をひきつけるための工夫がよくなされている劇がありました。
 金沢辰巳丘高校の「amour ou argent」では、役者ひとりひとりが生き生きと演技しており、観客を楽しませていました。衣装にこだわりも感じました。
 東海学園高校の「田舎一人舞台」では、客席で演技をするなど観客との一体感が得られる斬新な演出がされていました。また、役者の演技力が高く、すべての年代を演じきっていたのに驚きを感じました。
 呉羽高校の「ごはんの時間2ぃ」では、役者のキャラがたっていて、テンポがよく目が離せない劇でした。役者の間の取り方などで自然に笑えるところがあり、観客を劇にひきつけていました。
 高田高校の「マスク」では、大勢の役者が台詞や演技力で異様な雰囲気を作り出し、集団心理というものの恐ろしさを感じました。最後、アケミがマスクをつけようとする場面は、観客の神経のすべてをひきつけていました。
 池田高校の「きらわれたガール」では、役者のダンスと照明・音響のタイミングがとても良く、観客を楽しませていました。最後のナナミのすっきりとした笑顔が印象的で、観ていて元気になったという意見がとても多かったです。
 恵那高校の「左様然らば」は、登場人物の見せ方がうまく、それぞれの役割がしっかりしていました。また、動きや台詞回しなどで観客の笑いを誘っていました。
 勝山南・奥越明成高校の「あれほどの 〜2012年」は、ミュージカルで、伝統を受け継ぐ覚悟ができ、部活の仲間達がだんだんとまとまってひとつになっていく様子が伝わってきました。劇の内容と部員達の現実が重なり、全員のこの劇にかける強い情熱を感じました。

 最後に、じっくり考えさせられる劇がありました。
 福井商業高校の「星をゆく舟(ただし一人乗り)」はペットボトルを通し、命のバトンリレーについて考えさせられました。原発のことにも触れられていて「被災したのがそんなに偉いんか」や「私の前で原発の話をするな」という台詞のぶつかり合いが心に深く突き刺さりました。
 尾北高校の「SAKHALIN」では、目を背けたくなるような戦争の悲惨な状況が強い迫力とともに伝わってきました。ミツの「人が死ぬ価値がある戦いなのですか」という台詞や、智恵子の「生きる」という決意が、彼女たちが望んだ時代に生きる私たちの生き方について考えさせてくれました。
 愛知高校の「合牢者」では、時代背景がわかりやすくよく考えて作られていて、音響・照明・舞台装置・役者の完成度がとても高い劇でした。登場人物を通し、自分たち人間の弱さを感じました。
 刈谷高校の「Life is Judgement!!」では、選択カードによって人間がだんだんおかしくなっていく雰囲気がよく表現され、恐怖を感じました。私たちが進路などで選んでいる選択も実は周りに流されて自分の本当の選択ではないのかもしれないと感じました。

 全体として、人と人とのつながりを感じさせられる劇が多かったと思います。あたたかいつながりもあれば、つながっているからこその苦悩もあるということが取り上げられていました。改めて自分とその周りの人とのつながりを考えさせられました。また、上演校の熱意がとても伝わる劇が多かったと思います。創作脚本では部員の長所を生かし、自分たちにしか伝えられないことを伝えようとしていました。また既成では、よく考えて潤色され、難しい脚本に挑戦していたのも印象的でした。
 最後に、この中部大会を通して、たくさんのつながりが生まれたと思います。演劇が大好きな人がこんなにたくさん集まり、こうして大会が成功に終わったことを、そして私たちがこうして講評できることを幸せに感じる大会でした。来年も、再来年も、この中部大会を通して生まれたつながりを大切にしていきましょう!
 以上で、全体講評を終わります。ありがとうございました。


《専門家・顧問審査員会》

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