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第61回大会へ

第61回中部日本高等学校演劇大会

各校別講評文

 講評文は、生徒講評委員会と専門家・顧問審査員会のそれぞれで話し合った内容をまとめたものですので、
HPでは文章を書いた個人名は省略します。

大聖寺 武生東 華陽フロンティア 春日井
富山中部 大垣北 金城学院 勝山南 飯野
大同工業大学大同 横須賀 川越 砺波 刈谷東
中津商業 鶴来



 (石川県)大聖寺高校 
                「今夜はすき焼き(仮)」  新井繁 作

《生徒講評委員会》

 全体的に自然な流れのなかで畠山の孤独が見られた。罪を犯したことへの後悔と、人間が持つ良心との葛藤、自分の罪を認めて新たに道を踏み出す吉田と最後まで罪を認めず悔いを残すことになった畠山との対照が、印象に残る劇だった。
 細かいことだがコップを置く音が不自然だったので、改善点として砂などを入れると、思いきりかつ自然に置くことができて、より雰囲気が増すのではという意見があった。
 回想シーンでは、サスを使うことにより「畠山の孤独」が感じられた。一回目の回想は吉田の後ろめたさ、二回目の回想は畠山の後ろめたさが感じられた。サスの入り方も自然で、客席に面と向かって演技することで、畠山の怒りや動揺が感情を語らなくても伝わって来てよかった。
 回想シーン後に畠山が盗みを行ったことへ対する動揺が見られ、同時に吉田の畠山への強気の姿勢や、畠山を責めるような台詞が見どころである。
 二人の力関係が徐々に逆転していくところに面白さを感じた。
 最後、吉田が警察に行くシーンで、吉田に更生の可能性が示唆されていたのに対して、畠山の方はそのまま置き去りにされ、独り苦しむ場面が印象的だった。また「できるならね。」という吉田の台詞が、更生できない畠山を見下している、一種の軽蔑に取ることもできたという意見もあった。その他に、「お前に出来るのかと問い詰めることによって、今の自分に気付かせ、新しい道へと導こうとしたのではないか」という意見もあった。
 そしてその台詞を受けて、叫ぶように泣いた畠山は、「絶望から」、「不甲斐なさから」泣いたという意見もあれば、「吉田を救うことができたなら自分も救われたのでは」という気持ちからではという意見もあった。
 救おうとする気持ちから、吉田をかばおうとした畠山の行動が唐突で分かりづらい、なぜ急にそこまで必死になるのかという意見、畠山が泣くシーンで、「立ち尽くして吉田を見ている」のは「羨ましい気持ち」からの行動ではという意見が出た。
 始まりが吉田への尋問であったことから吉田が更生していくストーリーを認定したが、それを裏切る形で畠山も釣銭を誤魔化していたことが明らかにされ、そうした展開に驚かされた。この劇は、吉田の今後を期待させ、畠山の未来を考えさせた。想像力を刺激させてくれた。
 「探し物は何ですか。見つけにくい物ですか。」と歌われていた井上陽水の歌は、出口を見失った畠山が望む「こうありたい自分」を示唆していたのかもしれない。


《専門家・顧問審査員会》

 作成中



 (愛知県)緑高校 
                「見えっぱり家族(ファミリー)」 高場光春

《生徒講評委員会》

 まるで本物の家族のように温かく、見ていて家が恋しくなるような話だった。
 装置については、特に完成度が高く、舞台大道具も後ろの庭が透けて見えるようにしてあるなど、細部まで工夫されていて生活感が出ていた。衣装や小道具も、扇風機が回っていたり、風鈴が下げられていたりしてとても夏らしかった。照明によっても、西日が射す家の穏やかで温かい雰囲気を上手く表していた。
 嘘に嘘を重ねてしまう見栄っ張りな家族、というどこにでもありそうな話にとても共感が持てたし、ファミリードラマを見ているような感覚で、どんどん惹きつけられた。役者全員の台詞や動きがとても自然で話に入りやすく、人間性が感じられ、個性が際立っていた。父親のちょっぴり頑固だけれど優しいところや、母親の温かさ、姉が妹の嘘に付き合ってあげている姿がとても「家族」らしく、等身大の姿だった。
 ありのままの「家族」の姿に温かい気持ちになった。しかし、何を伝えたかったのかわからなかったという意見と、伝えたいものがはっきりとしていなくても、この話の場合はよかったのではないかという意見があった。
 ギャグ自体はとても面白かったのだが、笑い声で聞こえなかったところがあって少し残念だった。
 コメディな話の中に三十路近くの未婚の娘を心配したり、彼氏を連れてこようとするのを叱ったりする親や、それに反抗する娘の姿があり、とても身近に感じることができた。本物のある一家庭を見ているようで、思わず自分も家に帰りたいと思ってしまったという意見があった。
 父と母が昔駆け落ちをして、その大変さを知っているからこそ娘たちにはしてほしくないという親心や、子に対する無償の愛情を感じた。そして、「欲しくて欲しくてたまらなくて産んだんだ」、「赤ん坊は神様からの授かり者だ」という台詞に心がとても温かくなったし、親が子のことをどう思っているのかを知ることができたような気がした。父と母の会話も、本当に極自然な「夫婦」の姿が描かれていたと思う。
 しんと静まり返った室内に時折響く風鈴の音が、登場人物の心情に変化をもたらしたようにも感じられたという意見があり、その存在を強く感じた。

 名古屋市立緑高等学校の皆さん、お疲れ様でした。


《専門家・顧問審査員会》

 作成中


 (福井県)武生東高校
                「絶対的ライン」 仲野由華 作

《生徒講評委員会》

 私たちは人間である。心がある。絶対的な自分がいる。
 絶対的な自分は、絶対的じゃないものに囲まれている。
 自分は、絶対。けれど周りにいる友達は? 自由は?希望は?
 一言では言い切れない、しかし確実に何かが自分に前向きな変化をくれる。そんなちょっと不思議な印象を与えてくれる作品だったと思う。
 主人公の夕子と、劇の中に出てくる台本の中の「彼女」と、京香の事故によって変化してく友達の様子が大胆に、かつ深く描かれた台本だった。キャストも、それぞれ個性を持っていて、楽しい雰囲気とシリアスな雰囲気のギャップも楽しめてとても面白かった。
 しかし、対照的に置かれる言葉が多く、どれを一番伝えたかったのか、どれを根にしてキャスト達が動いているのか一回見るだけでは理解しにくいという点が指摘された。伝えたいテーマはなんなのだろう?と考えると、ひとりひとり感じるものをひとりひとりの感性で受け取ってほしいという思いがあるのかとも感じることができた。ただ、見る側としては、しっかりしたテーマがあって、劇を見終わった後に「これを一番伝えたかったのだ」と分かるように、コメディのシーンを少し削って、京香の事故こついての時間に使えばいいという意見も出た。
 舞台美術の点では、女子高生という設定に合う可愛らしいセットだった。あえて「片付ける」という作業を加えて時間の流れや、夕子の部屋ということがよくわかった。しかし、舞台の床にある「ライン」の存在には席の位置等々の関係で私も気付かなかった。題名にあるので、ラインの存在をみんなに見せてほしいと思った。
 照明・音響は、一回目と二回目の劇中劇の変化や、心情の変化が見えてよかった。
 この劇は人間の一番奥深いところにいい意味でつきささる劇だと思う。
 どこにでもいる、女子高生。いつもそばにいる、友達。いまここにいる、自分。このすべてが交わり、けれどそれは「絶対的」という共通点はない。「絶対」の言葉の意味は、「同等に並ぶものがないこと。どんな制約もうけつけないこと。必ず。」
 「わたしはここにいる」それは絶対。だから人間は孤独だけどそれは絶対的なのだろうか。絶対的なものは、本当なのか。その疑問にぶつかってきた言葉が、夕子の言った言葉だった。
 「たまには、どうしようもないこと、してみない?」
 人間の、醜いところ。目を向けたくない部分。「信じられない」「解らない」「怖い」……いつの間にかひかれているライン。それを超えようとして、それを突き抜けようとして、はじめて人は自分が何かと繋がっていることを知る。見る人それぞれにとって答えも、得るものも違うけれど、とても沢山のことを教えてくれる作品だったと思う。
 おつかれさまでした。


《専門家・顧問審査員会》

作成中


 (岐阜県)華陽フロンティア高校
                「宮川駅物語」 菱田愛子 作

《生徒講評委員会》

この劇は現代の若者に欠けている人との繋がりを感じられるものであった。見ていて心の温まる優しいものだったと思う。
 役者が力を合わせて全員が劇全体で訴えてきた劇だと思った。それに、ゆったりとした雰囲気から町の温かさや地域の繋がりがじんわりと感じられた。強い言葉がなくとも、赤ん坊を置いて行く時のためらいなど、動きだけで思いが伝わってきたので大変良かったと思う。また、赤ん坊を置いていくシーンでの照明は薄暗くて、置いていくことの迷いや苦しみなどがよく表現されていたと思う。
 舞台装置は見ただけで駅とわかる。壁やベンチが汚れているのでその駅に年代が感じられた。全てが手作りだったので、機械的なものがなく人間味の溢れた装置だと思った。また、公衆電話のお金を入れた時の音など細部にまで気を配って作られていて良かった。そして、事務室の中が見えることによって外で一人になっていても、孤独だけが伝わるのではなく、事務室にいる人間に見守られているような優しい気持ちも伝わってきた。
 音響については、蝉の声が大変多く入れ込んであり、ほのぼのとした気持ちになった。赤ん坊の声もほどよい音量で本当に泣いているのかと思えた。しかし、駅長が赤ん坊を抱いて移動してしまったので声の出ている場所が変わってしまい違和感を覚えた。
 この劇を見ていて、繊細に扱ってほしい不妊症や高校生の妊娠という問題が流れていた様に感じた。人の命という重い問題があまり重く感じられず、リアリティを感じることができなかった。それは高校生の置かれている状況が観客にうまく伝わらなかったからではないだろうか。そして言葉足らずなところがあったのではないだろうか。設定が曖昧であったから、高校生が妊娠したことを受け流してしまい、捨てたということが印象に残ってしまったのだと感じた。高校生の妊娠はすごく難しい問題だと思う。もう少し、丁寧に扱うことによって役者一人一人の気持ちも変わってくるのではないかと思う。
 私たちはまだ高校生でもちろん赤ん坊を産んだことも堕ろすことも経験していない。経験していないことについて考えてもそれは想像でしかなく本当ではない。しかし、本当でなくても考えることが大切なんだと思う。高校生の妊娠、捨てられた子供、不妊症の夫婦。そのようなことを「もし、私が、」と想像することが重要だと思う。
 劇の中で「幸せは場所がくれるものじゃない」と言っている。それは、人との繋がりがあればどんな場所でも幸せになることができるということだと思う。今自分が幸せなのは、親が私を産んでくれたからであり、私の周りの人がみんな良い人だからだとこの劇は数えてくれた。


《専門家・顧問審査員会》

作成中


 (愛知県)春日井高校
                「贋作マクベス」 中屋敷法仁 作

《生徒講評委員会》

 人間の深淵や、「満足できない」人間の悲劇を鮮やかな切り口で しかも笑いも交えて見せてくれた作品だった。コメディー、笑いの要素が「マクベス」の持つシリアスな要素を中和しており、また緊迫感のある殺陣のシーンもあり、観客を飽きさせない工夫が随所に施されていて、とても見応えがあった。
 この「贋作マクベス」は、部長マナブ率いる演劇部員たちのど−ンと、劇中劇「マクベス」のシーンで成り立っている。この両方のシーンの中では、モノマネとともに携帯電話が重要なアイテムとして登場する。しかし、この脚本が書かれた4年前と現在とでは、携帯電話を取り巻く状況は多少異なっている。また、2004年当時の時事ネタ的な要素も含まれている。そのため、この上演では、違和感のあるセリフに若干の修正が施されており、観客に配慮した作品となっていた。
 魔女の予言に翻弄され、主君を殺して王位を手にしても満足できない。逆に、心の平穏を奪われ友人も妻も失う。それでも自らの暴走をとめられぬまま最後には命を落とす。
 このようにしてマクベスは、より一層の幸福を求めるがあまりに、逆に不幸になっていく。魔女の「キレイはキタナイ」という言葉にも表わされているが、彼の陥った「永久に幸せになれない罠」は、どんなに時代を経ても存在する、普遍のものであるように感じられる。
 ラストシーンで「こんな物は演劇じゃない、観客の鑑賞に堪えうるものでなければ意味がない」と語るマナプに対し、ヨリコが「それは自己満足。芸術は最終的に(〜がしたい)という自己満足に帰ってくるんだ。」と投げかける。このセリフには、講評委員の中で「共感できる」という意見が多く出た。一つの解釈を、あえて劇中で提示することで、観客の心により深く訴えかける、投げかける効果もあったのではないだろうか。
 マクベスは運命に翻弄されているわけではなく、自己満足・自己肯定できない自らの存在に追い詰められる。どんなに成功を収めても、自分自身で納得できなければ「幸せ」ではなく「不幸」になってしまう。
 部員たちの無茶苦茶な芝居に翻弄されるマナプの存在は、どこかマクベスと重なる。しかし、無茶苦茶な芝居を受け入れ始めた姿は、マクベスと対称的にも見える。頑なさがほぐれていくマナプの姿に、明るい余韻を残す終わり方だった。
 また、脚本中に散りばめられたナンセンスなギャグをテンポよくこなす表現力、派手なアクションに耐えられる身体能力や、聞き取りやすい声など、全体において役者の能力の高さが際立っていた。弱気なマクベスが豹変するシーンは、観客を釘付けにしていた。劇中劇と、部員同士の語らいの間の日常と非日常の描き方のギャップも印象に残った。照明の使われ方も上手く、観ていて情景の変化が良く分った。「音響の音量が若干大きい」という意見もあったが、これは演出側の意図もあったのではないかと思えた。
 役者と脚本の生かし合いが見事で 講評委員をふくめ観客全員を虜にした舞台だった。

愛知県立春日井高等学校の皆さん、お疲れ様でした。


《専門家・顧問審査員会》

作成中



 (富山県)富山中部高校
           「食べ終わるまで残ってなさい」 中山みるく 作

《生徒講評委員会》

 本当に、心温まる舞台だった。この作品をみて、純粋に学校とはいい場所だなと感じた。
 校長先生はなぜ給食を導入しようとしたのか。そこには高校で自分勝手に振る舞う生徒の姿があった。偏食や好き嫌い・コンビニエンスストアや出前などの安易な食事‥といった食生活に根本的原因があるのではないか。この作品は、食べることの本当の意味を教えてくれるように思う。食べ物への感謝の気持ち、バランスよく食べることの大切さ、そして、みんなで食べることの喜びを描く一方で、外国からの食料の輸入・石油高騰による漁業の影響など現在の日本が抱える食の問題が上手に盛り込まれており、わかりやすく親しみやすい舞台だった。
 また、生徒に食べることの重要性を考えてもらおうと奮闘する担任の先生の姿があり感動した。生徒が言うことを聞かず空回りばかりで、そのうち学校に来られなくなってしまった。一時はどうなる事かと思ったけれど、生徒の心情が変化していき、先生の家に給食を届けるシーンは本当に温かい気持ちになったしかし、最初は給食を届けることに乗り気でなかった生徒達の心情が急に変わったようにも見えたので、もっと丁寧に心情の変化を措いてもよかったと思う。また、「俺を食ってけ。」と言う先生のセリフによって、給食の栄養を摂ることと、先生の持っている知識・優しさを糧としていくこととのリンクを感じさせられた。
 ダンスにも切れがあり、生徒のみんなが給食を楽しみに盛り上がる姿がよく表現されていたと思う。
 生徒たちが日誌を読む形で進んでいったのは、生徒1人1人の個性や考えがよく出ていたし、時間の経過が分かりやすかったので、非常によかったと想う。
 給食のメニューが忠実に再現されており、パワーポインターを有効に利用しており、わかりやすい舞台だった。しかし、コッペパンやソフト麺を捨てた白い箱に、白衣も片付けてもいたため、結局白い箱がなんであったのかが分かりづらかった。だから、コッペパンやソフト麺を捨てた場所をゴミ箱にしてしまった方が良かったのではないかと思った。『食べる』という日常の行為を改めて見直すことができた。それと同時に学校の在り方にも目を向けることができた。先生や生徒の思いを共感できる舞台だった。
 富山中部高校の皆さんお疲れ様でした。


《専門家・顧問審査員会》

作成中



 (岐阜県)大垣北高校
                 「ことの・は・づき」 大垣北高校演劇部 作

《生徒講評委員会》

 温かい、でも重たい、だけど大切な事がたくさん盛り込まれている、そんなお話だった。
 一番初めに思ったのは、小道具の工夫だ。セットに関しては、田舎の家というのが一目でわかった。古びた壁や屋根の骨組みがあり、背景の青い空こ見立てたスクリーンがいつもよりも広く感じた。平屋の大きな家ということがすぐにわかり、そこは都会ではなく田舎だということが分かることによって、話に入りやすかったと思う。
 小道具で特に工夫が凝らされていると思ったのは、スイカと線香花火だ。スイカは、いつの間にか赤い実の部分がなくなり、皮だけになっていて、驚いた。お客さんの目線をしっかり意識しているんだなと思った。線香花火では、火をつけた時の消えそうな線香花火独特の光が出ていて、ステージ上で本当に火をつけているように見えて,リアルさを強く感じた。
 お話として、恋愛・戦争・親子というのが取り上げられていた。1つひとつが、すべて「好き」「ありがとう」「ただいま」といった言葉でつながっていた。行動ではなく口で相手に向かって直接的に伝える言葉の大切さ、そんなことが伝わってきた。
 例えば、戦争の回想の場面ではおばあさんと、おばあさんが戦場で出会った雪子が端と端にいたことで、雪子の身長や、目線がよくわかった。さらに生きているおばあさんと、死んでしまった雪子、この2人がもう決して出会うことができないこと、交わることができないことが間接的に伝わってきた。
 告白の場面では、もじもじしてなかなか言えない、勇気が出ない、でもこの思いを伝えたいという女子高校生の感情が伝わってきた。告白するときに少し離れているところからも、女子高生の心の揺らぎを表しているようだった。
 惜しかった点が2点あった。1つ目は、年齢がわかりにくかったところだ。誰と誰が姉妹で、誰が年上で年下なのか年齢はどのくらいなのかがわかりづらかった。一番わかりづらかったのは、小学生だった。大きいので小学生と理解するまでどうしても時間がかかってしまった。例えば、いちばん上の歳の人は、もっとおとなしくしたり、逆に子供は、もっとはしゃいだりするとわかりやすかったと思う。
 2つ目は、雪子の扱いについてだ。雪子は4人にしか見えない、思いが行動にしか表わすことができないという特徴を持っていたのに、お話のなかで、それほどそれが生かされていなくて、もったいないと思ろた。薄暗い舞台に対して、映える赤い着物が雪子の存在感を大きくし、あの子は何だろう何を起こすのだろう、どんなことに関わってくるのだろうと期待させられたのに、大きなドラマになることなく、そのまま終わってしまった事が残念だった。
 でも劇全体で見ていて、とても心が温まった。そばにいるだけでいいというのもあるけれど、やっぱり相手を見てその人に直接自分の素直な気持ちを素直な言葉で表すことの大切さを改めて感じられた、そんなお話だった。私自身このお話を見て、携帯電話のメールよりも直接その人に会って、ロで何かを言うことが大切なことだと思った。


《専門家・顧問審査員会》

作成中



 (愛知県)金城学院高校
                「アリであり得たアリ」 人間 作

《生徒講評委員会》

幕が開くと色が綺麗な積木が目に飛び込んできた。それは今から何が起こるのかワクワクさせるものだった。
 なんといっても、舞台が“虫の世界”だということに新鮮さを感じた。だからこそ、この先どうなっていくのか展開が楽しみになった。見ていくうちに「あまりにも言葉がストレートではないか?」と思った。しかし、それらは私たちに“虫の世界はこんなにも大変なんだ”と強く訴えかけ、心の叫びとして胸に深く突き刺さった。
 ダンスでは、虫達の表情も楽しそうではなく、機械的に動かされているという印象を受けた。これは虫たちが辛い人生を歩んでいる“圧迫感”を表現しているのだと感じた。
 私たち講評委員の中で最も話題に上ったのは“タンポポ”の存在である。虫の世界にいるたった1輪の花。これは一体何なのかと考えたとき思うことは「誰もタンポポのことは理解していない」ということである。だから蟻坂さんが問いかけても答えることができない蟻野。劇中に“虫は1人だ”ということが出てきたが1人なのは虫だけでないということだったのかなと思った。他にも虫達がタンポポを特別視してここでも花は孤独なのだと窺える。また、タンポポはみんなの話を聞いてくれて分かってくれる存在だとみんなは言う。しかし裏を返せば「口答えしないから」だということだと思う。その点でもタンポポは誰にも理解されない存在だったのだと思う。
 この劇は「生きることの大変さ」を私たちに今一度教えてくれたような気がした。そして虫だけでなく私たち人間社会にも置きかえて考えられると思った。特に疲れてヨロヨロのサラリーマンの蟻野、仕事をただもくもくとやりこなすOLの蟻坂など登場人物の置かれている状況はまさに今の世の中を映し出していると思った。虫連は誰か死んでいる虫を食べて生きる。私たちは誰かの心を傷つけて生きている。気づくにしろ、気付かないにしろ私たちは誰かを犠牲にして生きている。この劇は“虫”という小さな生き物たちを通して「生きていることの生々しさ」という大きなものを教えてくれた。
 最後の“もっと、楽しそうにしてよ”というセリフでは照明の雰囲気も変わり「あれはどういう効果なのだろう」と議論された。その結果、蟻野自身がタンポポのことを何1つ理解してなかったことに気付き、胸に刺さるという効果なのだろうと解釈した。
 しかし、とても奥深く考えさせられる劇であり一言で説明するのはとてももったいないものであった。そしてこれは「性・聖」、全てひっくるめて「生」というように沢山の「生」を考えさせられる幅の広い演劇であった。


《専門家・顧問審査員会》

作成中



 (福井県)勝山南高校
                「化石 -あなたが思うよりも はるかに-」 川村信治 作

《生徒講評委員会》

 舞台の中での出来事に対し、こちらまで一緒に悩んだり、うれしい気持ちになったり変化を楽しめる劇だった。
 キャストは、バラバラになった5人の心が、時間がたつにつれつながっていく過程での心情表現が声、表情で良く表わされていて演技力の高さが感じられた。楽しそうな時は本当に楽しそうで、突然の展開で急にシリアスになる部分でも違和感なく表現されていた事で自然な演技を楽しめた。
 キャストで特に印象深かった人物は留学生だ。バラバラになった5人が同じ時間を共に過ごすなかでおこる様々な出来事をきっかけに、どんどん心情が変化していき良い方向に進んでいった。その展開のきっかけとして5人の過去を知らず、どの人に対しても平等な立場で接することができる留学生の存在を上手く活用できていたのが良かった。留学生のセリフの中にはストレートに心に入ってくるセリフが多く、そのセリフによって5人の心が揺れ動いていた。
 装置は、細かいところまで丁寧に作りこんであり、リアルであたたかみのある自然を表現できていて、観客の目をひきつけた。装置の配置や大きさなどにもこだわり、キャストが演技のしやすい環境で、劇の中で装置を活用することができていた。そこに音響で鳥の鳴き声を加えたり、照明でホリゾントに緑を加えたりすることで自然環境を再現し、より一層あたたかみを感じた。
 この劇の内容から「時がすすんだとしても、築き上げた友情は化石のように変わらずに残っていく」ということが一番伝わってきた。時がすすむことで変わっていくものもあるが、変わらない友情というものもその人たちの思いによって実現できるのだとわかり、私たちに友情の大切さをあらためて考えさせる強い思いを感じた。
 全体的に話の展開にすごくまとまりがあり、ほとんどの流れがスムーズだったのが良かった。しかし、最後の場面で少し、出し物をする際に輝子が何事もなくいたのが話の流れとして矛盾して感じられた。これまでの話の展開から輝子が海外に行く問題がどうなったのかについて考えられたらこの作品はもっと良いものになっただろう。
 一つの劇の中に観客が共感して楽しめる部分を多く取り入れたことで、飽きることなく最後まで楽しめた劇だった。
 勝山南高校の皆さんお疲れ様でした。


《専門家・顧問審査員会》

作成中



(三重県)飯野高校
 
「部活戦グラデーション -Can you help me?-」
                          中根正俊 原案/荒木智子 作

《生徒講評委員会》

 人の気持ちを考えて行動、気持ちを大切に扱わなければならないということが、身近に感じられる作品であった。
 「人のために何かをする。」それは簡単そうに見えても実際は難しい問題である。人のためと思ってやったことが、良い結果で必ずしも終わるとは限らない。人を助けるのが好きなボランティア部の城崎を巻き込んだ、登場人物たちの心の変化「グラデーション」が描かれた作品であった。
 まず、幕が開いて目についたのが舞台装置だ。保健室と教室の2つに舞台が分かれていて、場面転換もスムーズに行えていた。壁の汚れた感じなど細かいところにも気を使っており、状況が一目で理解できた。しかし、エリアが限られており、照明の加減で端の方は役者の表情が見にくかったので、改善出来たら良かったと思う。
 ボランティア部という今までに類をみない題材が最初に登場し、この先の展開がまず気になった。生徒会長の「中野」から不登校の生徒の「心」を教室に連れ戻すために友達になろうとする「城崎」。説得しようとするが、頼まれてやったことだとばれて、その「中野」が「城崎」に提案した事情を知ることが出来た。友達同士のいざこざはよくあることで、険悪なムードには迫力があった。人に頼られやすく一人で抱え込んでしまう「心」の心情のグラデーションは物語の重要な部分と受け取ったが、友達との関わり合いの中で和解していく様子をもっと丁寧に描けていたらよかったと思う。
 「城崎」と関わっていく中で、「心」は最初「善意なら私みたいになる」、「つぶれたらいい」と過去の自分と同じ道を歩むだろうと言っていて、それがひっかかった。人のためにいじめを助けた「心」が逆にいじめられ不登校になってしまう。なんとか「心」のために何かしてあげたいと「中野」は試みようとするが、結局「城崎」に任せてしまい、そうした状況が人間の弱い部分を表しているように思われた。
 全体をとおして、「心」の友達の「千尋」を合わせた4人のグラデーションが素直にまとまり過ぎてしまい、話自体はストレートであったが、観ている側としてはすんなり受け取ることが出来にくかった。言葉で全ての心情を言ってしまっており、観客に考える時間を与えて欲しかった。
 人のために動くには、自分の思った以上に相手の気持ちを考えて行動しなければならないと考えさせられる1時間であった。


《専門家・顧問審査員会》

作成中



(愛知県)大同工業大学大同高校
    「ACT!-クレタ島の謎-」 中村強 作

《生徒講評委員会》

 「観客を騙す演劇」
 この演劇にはこの言葉がぴったりだと私は思った。
 エチュードの世界と現実の世界が混ざっており、後半に行くにつれて本当の世界はどっちなんだろう、本当のことはなんなのだろう、と考えさせられるうちに深みへはまっていった。最後には一体どこからがェチュードだったのか、本当は最初から最後までエチュードだったのだろうかと少しの恐怖と共に快感を与えられた。
 役者の演技がパワフルであり、観客に強く訴えかけ、この台本の魅力を最大限に引き出していた。
 テーマとしては演劇の根本、演劇とはストーリーを演じているうちに役者自身が、舞台の中が真実となり、見ている観客にもその真実が伝わること、つまり観客にとって舞台が真実の世界になるものだということが伝わってきた。演劇をしている私たちは強い衝撃を受け、また演劇をしているからこそストーリーにのめり込めた。魅せる演劇を感じた。
 松本さんの「本当の自分ではない、自分には本当がない」という言葉は私たちが生きる世界でもふとした瞬間に感じる不安であり、もし台本があったなら…と誰でも一度は感じるものではないかと思う。自己を肯定できない、理想の自分が本当なんだと思いたい気持ちにとても共感できた。
 私たちが生きている世界でも何が真実で何が嘘なのか分からない、すべてが嘘なのかもしれない。でも虚像の中だからこそ本当の思いが吐き出せるんだというメッセージも伝わった。
 幕が下りる時の最後の合図は、観客が信じた世界が本当はエチュードであったと同時にこれから私たち観客のエチュード、私たちが演じる「私たちの人生」の始まりの合図だったのではないだろう。
 この演劇は観客をも舞台に乗せてしまったと思った私も、気付かないうちにこの舞台に乗せられていたんだろう。


《専門家・顧問審査員会》

作成中




(愛知県)横須賀高校
       
「ウルトラQ!」 横須賀高校演劇部 作

《生徒講評委員会》

 小さなことで悩んでいる私を勇気づけてくれる、キラキラ眩しい爽やかな劇だった。
 お客さんを飽きさせない工夫が多く見られたように思われた。まず第一にテンポがいい。耳に心地いい流れが伝わってきた。また、止まらない会話がリアルな高校生をよく表していたと思う。場面転換も、音楽に合わせてまるでダンスのように行われた。セットもお客さんを待たせないように、様々なものに利用できるように考えて作られていた。照明も色々な色が使われていた。いつも私たちに新しい刺激を与えてくれた。そして驚いたのは電球だ。ホリゾントをあえて一切使わずに、電光を多様に使うことによってお客さんをひきつけ、より本物のテレビ番組っぽさを近くで感じることができた。思考くんは、ただ悩んでいる時の間を笑いに変えることによってお客さんに舞台から目を離す時間を与えなかった。
 また、私たちに想像する素材を与えてくれた。姫野は空港に行ってマリオに何と言ったのか。マキ、ハルミの二人は追試に受かったのか。本編には描かれていないが、容易に想像することができるし、そしてその先の想像は人によって違わないのではないだろうか。肯定している姫野が、追試こ受かっている二人がちゃんと想像できる。あえて描かなかったことで、お客さんの心に余韻が残ることだろう。
 そして、大半の高校生はこの劇に親近感を覚えたことだろう。くだらないことで笑いあったり、三角関数の存在意義を否定したりと、「あるある!」と思えるところがたくさんあった。昔想像していた高校生活と今の生活に違いがあるのもリアルなのではないだろうか。表情も豊かで、リアルで、私たちを惹きつけた。
 勉強なんて怖くない。この世界には、答えのない「謎」が溢れている。そしてそれらの「謎」は私たちに近くて、遠くて、そしてとても難しい。先生にだって答えられない。答えのある数学なんて、三角関数なんて、さっさと片付けてしまおう!そしてその後、女子アナがなぜモテるのか、じっくり考えようではないか。この劇を通して励まされた学生は私以外にもたくさんいることだろう。私たちの背中を強く優しく、しっかりと押してくれる、そんな劇だった。今しかないこの高校生の時分。今しか持ちえないパワーで世界の謎を解き明かそうではないか。

 横須賀高等学校の皆さん、ありがとうございました。


《専門家・顧問審査員会》

作成中



(三重県)川越高校
       
「ハナミズキ」 川越高校演劇部 作

《生徒講評委員会》

 高校生にとって身近な受験を通して、互いに支え合う等身大の高校生活が描かれた作品だった。
 まず幕が上がった瞬間に、装置がリアルで、舞台が学校であることが一目でわかった。受験の中で学校行事をこなしつつも恋をするという、まさに私たち高校生そのものが描かれていた。ただ、リアルを追求しすぎたためだろうか。中心に高校生の受験を持ってくることでその後の展開が読めてしまい、あまり観客が話に入り込めなかったのではないかという意見が出た。
 センター試験までの残り日数が記された紙が順にめくられていくことで、時の流れがとてもわかりやすくなっていた。しかし日数の間隔が長く、受験までの一日の重みが軽かったようにも感じたという意見も出た。受験生にとっては
一日とて非常に貴重な時間であるので、50日と0日の間を細かく分けるとより身近に感じられるだろう。
 劇中で「受験は団体戦」と青われていたが、「団体戦」と「ハナミズキ」がリンクしているのではないかと感じた。ハナミズキの萼が互いに支え合って花になっているように、受験も団体で協力して、合格の花を咲かせることを表して
いるのではないだろうか。集団で受験に臨むことで、辛いときに諦めずにいられたり、受験のプレッシャーに負けても互いに慰めたりもできる。
 タイトルが「ハナミズキ」であったり、ハナミズキを劇に使用したりしたのだが、一青窃さんの「ハナミズキ」はこの作品のイメージに合わなかったのでは、という意見が多く出た。邦楽は歌詞が観客た与えるイメージが大きいので、
インストゥルメンタルを使用するなどすると、より良くなるのではないだろうか。
 私たちはみな、互いに支え合いながら生きている。それが友人だったり、家族だったりする。受験を通して、友達の大切さや支え合いを感じさせてくれた、温かい作品だった。


《専門家・顧問審査員会》

作成中




 (富山県)砺波高校
         「メモリーズ-思い出はそばに-」 砺波高校演劇部 作

《生徒講評委員会》

 幕が上がって舞台大道具を見た瞬間、圧倒させられた。
 後ろにあるボックスが階段のようになっていて、時代の移り変わりや大人になってゆく階段を表していたように見え、いくつか置かれていたクッションは思い出が詰まった袋だったのではないかという意見があった。パネルについても、さくらがこれまで歩んできた道を表しているようで、とても細かく作られていた。白と黒のネコが出てきて場面転換をするというとても面白い工夫があり、飽きることなく楽しく見ることができた。照明も、光の当たる範囲で「楽しい」「楽しくない」、「一人」「一人じゃない」というのを表現されている風にも見えて、とても工夫されていたと思う。また、過去も現在も役者全員の喋りかたや格好が工夫されていて、きちんと歳相応に見えていた。
 テーマについては、「明日への希望」ということだったのだが、過去の回想場面のおばさんたちの印象が強く、「子どもの時間を大切こしなさい」「今の時間を大切にしなさい」ということがより強く伝わってきた。最後の方でさくらが前向きになったように感じたのだが、何故前向きになれたのかが少しわかり辛かった。過去の回想場面で気持ちを前向きに変えさせるような要素が含まれていると、さくらの心情の変化がよりわかりやすくなったのではないかと思う。
 また、お父さんとの関係が未消化のまま終わってしまったように感じたが、父親が娘を心配し
ている気持は伝わってきた。伝えたいことが最後に一気に出てきてしまって、少し無理やり詰め込んだような感じがしたが、父親に対するさくらの気持ちの変化と、「明日への希望」を繋げて描いてもよかったのではないだろうか。
 カレーパンとさくらが言葉を交わしているという非現実的な点に関しては、現実にはあり得ないことだけれど、飼い猫を擬人化してしまうほどさくらが孤独感を感じていたからなのではないかという意見があった。
 一人暮らしで孤独だけれど大人になったさくらと、パラサイトシングルになってしまったモモの対比がとても面白かったと思う。

 富山県立砺波高校の皆さん、お疲れ様でした。


《専門家・顧問審査員会》

作成中


 (愛知県)刈谷東高校
             「便所くん-男だけの世界-」    兵藤友彦 作

《生徒講評委員会》

 幕が開いた瞬間、男子トイレにいる便所くんの存在感が異常な雰囲気をかもしだしていた、強い印象を受けた。
 役者の表情はもちろん、文吾が不思議な力に引きずり込まれる動き、便所くんの舐める様な動きなど、いろんなものがとてもリアルだった。便所くんは変わりたいけど変われない人の象徴だと感じた。
 舞台の袖にはけずに階段を使うことで、4階を表現すると同時に、最初から最後まで自分の役を演じきることの重みを感じた。
 暴力の場面は客席を使うことで生々しくなっていたし、それで観ている観客も「助けたいけど助けられない」といういじめの傍観者のような心理になったのではないかと思う。また、会場の空気にも舞台の緊迫感が伝わり、ホール全体が一つの教室のように感じられ、引き込まれた舞台となった。観客の反応までもとりこもうとする意欲的な舞台だった。
 便所くんのセリフもマイクを使うことで、直接頭の中に響く声を表現しているかのようで、便所くんが私たち生きているものとは違う、オカルト的なもののように感じられ、無機物の冷たさ、生々しさがよく観客に伝わった。
 便所くんの文吾へ執着する姿には、恐怖と共に切なさを感じ、誰にでもある「一人は嫌だ」という孤独への恐怖、人の心の見えない部分が見え、共感するところがあった。また、便所くんの「君は一人じゃないよ」という言葉は文吾に対して言ったものだが、便所くんがずっと前から誰かに言って欲しかった言葉ではないかと思った。それと同時に、男子トイレから出られない孤独な便所くんの寂しさが伝わった。
 ストーリー全体から、人間は自由だからこそ、他人と接することができ、そこから成長できること、便所くんの孤独の中に「人と繋がりたい」という心の叫びを強く感じた。また、文吾が最後に男子トイレを封鎖しなかったことから「いっかは外の世界へ出てきてほしい」という希望を感じた。
 終盤、便所くんにしがみ付かれた文吾が杏奈の差し出した手をとったことで解放されるところから、本当の繋がりとは依存とは違うものだと感じられた。
 杏奈もまた文吾に言った「思ったことを言わないところがイライラする」という言葉から、ただいじめていたのではなく、彼女もまた誰かと繋がりたかったのではないかと思った。
 最初は笑えるところがあった舞台だったが、終盤につれ、見ているのが辛くなるほどリアルで心が鷲掴みにされる素晴らしい舞台だった。


《専門家・顧問審査員会》

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 (岐阜県)中津商業高校
                   「メゾン・ド・ババァ」   演劇部 原案 / 若森明 作

《生徒講評委員会》

コメディータッチな舞台を通して、身近に転がっている人の温かさや愛おしさに触れた気がした。
 薄汚れた落書きの跡やテープ跡が目立つ壁が、下宿馬場荘の生活感を表しており、また時代を経てきた建物の雰囲気もよく表していた。貼ってあるヒロシの絵の、父親の部分だけ破り取られているという細かい演出にもハッとさせられた。
 舞台の中心は住民たちの共用スペースで、その両側にある部屋の様子は見ることが出来ない。しかし登場人物たちの動きやセリフで、台所と各住人達の部屋があることが分かる。見せないことによって、それぞれの人物たちのリアルな日常を想像させる効果があったのではないだろうか。他にも、平坦なセットの中で、テーブルや椅子などの道具を使って高低を出す工夫が見られた。
 馬場荘の住人たちは皆、お節介な面や変わり者な面が誇張されてはいるが、人間関係に詰まったり社会に疲れきったりして皆それぞれ事情を抱えている。「乾ききった現代社会のオアシス」と形容されているように、馬場荘は住人達の避難所であり、巣立つまで羽を休める場所として措かれている。血縁関係がなくても家族のようにつながり、支えあって生きていける場は、今はもう無くなりかけているが、人が知らず知らずのうちに求める存在なのかもしれない。
 ただ、住人たちの過去がかねの口か全て語られてしまったのは、そこに至るまでの事件が簡単に片付いてしまった印象を受けた。この作品の核となる存在は、主人公であるしのと、馬場荘の管理人である「馬場かね」だと考えられるが、「かねや、その過去にスポットが当たるシーンが少なく、迷える人たちを惹きつけるようなカリスマ性をうかがい知ることができない」という意見も出た。住人の過去を知る存在、馬場荘の長であるという立場をもっと生かすことが出来れば、作品の中で起きるドラマが深くなったのではないだろうか。
 また、作品の中でのヒロシの存在感がとても大きかった。「子どもの動きが研究されていてすごい」「次は何をするんだろうとワクワクしながら観ることができた」など、講評委員の間でも多くの意見が出た。その他にも、OLや予備校生、イラストレーター、バツイチの母など、個性的なキャラクターが魅力的だった。
 照明では、場面が切り替わるシーンで、(ストップモーションがかかり、シルエットが現れ、暗転ののちスポットライトの中で役者がストーリー説明)という一連の動きが分かりやすく、きれいなまとまり感があった。しのの夢の中で、役者が覆面を被って、録音したセリフの上に動作を重ねるという新しい発想が生かされており、とても面白く観ることができた。音響選びも適切で作品の世界観と調和していたと思う。
 しのと佐藤先生が両思いだということが判明する過程はすんなり済んでしまったが、「先輩がアラブに油田を掘りに行く」という結末には安易なハッピーエンドにしないという作品の意志が読み取れた。成長して、馬場荘から巣立っていくしのの姿に勇気をもらえるラストだった。

中津商業高校の皆さん、お疲れ様でした。


《専門家・顧問審査員会》

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 (石川県)鶴来高校
                「らぶはーつ」 北沢佳菜 作

《生徒講評委員会》

 幸せ。その幸せの中の恋という部分。彼といることができたら幸せ。その人が幸せならば幸せ。両想いなら幸せ。片思いでも幸せ。幸せという大きな概念にはたくさんの種類がある。でも、みんな違って、みんないい。そんなことをまっすぐ、私達に臆することなく、伝えてくれた。恋したい、と頬が緩む、そんな劇だった。
 講評委員で議論があったのは、ケーキとおせんべいのことである。修が最初に言った「ケーキの後におせんべいを食べたくなる奴もいるぞ」というセリフは心変わりするやつもいるぞということを示唆しているのではないのだろうか。それを受けて、ゆきのは奏也の言った「ケーキの後はケーキがいい」というセリフに喜んだ。しかし、奏也はケーキ好きであるだけでモンブランだけが一番という意味ではなかった。ケーキは何を意味していて、おせんべいは何を意味していたのれ気になるところである。
 そしてやはり、高校生の恋愛ということで、共感できることがたくさんあった。聞かないほうが幸せだった、とか、恋に恋する様子など、自分に通じるところが少なからずあったと思う。しかし、これは共感できる人間が限定されているのでは、という意見もでた。男の子は? 女の子は? 恋をしたことがない子は? 恋愛とは曖昧で大きなテーマであるので注意が必要であると感じた。
 また、改善点として、衣装や、セットのことがあげられる。男の子四人の恰好がどれも似たようなものだったので、個性が感じられないという意見がでた。特に恵と修はTシャツの色まで同じだったので、遠くから見ていた人にとっては分かりにくかったのではないだろうか。セットとしては、奥にあった平台の場所設定が分かりにくかったという意見がでた。奏也が電話をして通っていったり、修が飛び降りたりしている。あそこは一体どこだったのか、もう少し説明が欲しかった。テンポもよく、さくさくとお客さんを惹きつけ、高校生らしい高校生をみせてくれた良い舞台だっただけにもったいないと感じた。
 恵のように、恋をすること、傷つくことを恐れているひとはたくさんいることだろう。でも恵は告白する勇気を私たちに見せつけてくれた。綿川も、好きな人を心の奥から思う優しさを教えてくれた。恋っていいな、素敵だなと改めて感じさせてくれるさわやかな劇だった。また、人それぞれの幸せの形があるからこそ、大きな幸せが生まれるのではないかと考えさせてくれる作品でもあったと思う。
 三次元に真のラブ、永遠のラブはあるのか。そんな答えのない誰もが悩む大きな問題をコミカルにポジティブに伝えてくれた。二次元にはない、三次元のラブを謳歌していこうではないか!
 石川県立鶴来高校の皆さん、ありがとうございました。


《専門家・顧問審査員会》

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