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第63回中部日本高等学校演劇大会

各校別講評文

 講評文は、生徒講評委員会と専門家・顧問審査員会のそれぞれで話し合った内容をまとめたものですので、
HPでは文章を書いた個人名は省略します。

富山第一 横須賀 池田 金沢桜丘 福井商業
恵那 愛知 勝山南 新城東
金沢商業 旭丘 岐阜農林 刈谷東 神戸
富山中部 全体講評



 (富山県)富山第一高校 
「ここほれ ONE ONE」 富山第一高校放送演劇部 作


《生徒講評委員会》

 愛(めぐ)が友人のえりかに対して本音を言えないという、誰にでもある普遍的で切実な悩みを取り上げていた。
 生物部と放送部の縄張り争いから幕を開け、そこにさらに3人の老人が入ってくるので、話は込み入っていくかに見えたのだが……  生物部が化石を掘る同じ場所で、3人の老人もゆっくりと流れる時間の中で何かを掘り出そうとしている。かつて埋めた石を宝物(ワカスギタカシサウルス)と思い込んでいるのである。他方、締め切りに追われながら取材する放送部の姿を織り込み、取材の上手で加納と仲のよいえりかと、それに劣等感を持ち嫉妬する愛が徐々にクローズアップされていく。傷つけることを恐れて「リアル」にしか本音を書けない愛、その愛の「リアル」を別の友人から見せられ傷つくえりか
 人数が多く、複数の物語が交錯するにもかかわらず、私たちが引き込まれるのは、さまざまな工夫が凝らされていたからだ。まず、ベストの色の違いなど、個々の衣装に細かい配慮がなされていた。また、観客に聞かせたい台詞を舞台前に出てきて喋り、そのときは脇役が声を出さなくし、愛が「リアル」に書き込みをするときは、照明によって愛だけが浮かび上がるなど、話の主筋が強調される工夫があった。さらに、暗転のあいだに時間の流れがわかる音響が入っていたのも効果的だった。しかも、余分三兄弟や老人達が笑いを誘うことにより、愛とえりかのぶつかり合いで劇全体が重くなるのを和らげていた。そして、舞台の奥行きがしっかり生かされ、多くの役者が出てくる場面でも舞台を意識的に広く使い、巧みに人数を振り分けていた。ただ、掘っていて何か異物を見つけたといったさらに小さな挿話を仕掛けたり、スコップの刃の部分を舞台装置で見えなくして力を込めたりして、動きをより自然に見せる余地はあったかもしれない。
 題名の「ここ」には「個々」が、「ONE ONE」には一人ひとりの大切なものを掘っていくという意味があっただろう。ONEを繰り返すことから、2人で1つという意味の"ニコイチ"という台詞とも当然関係がある。あるいは、犬の助けが必要な花咲爺さん同様、助け合いの精神がある等々、見終わってからも考えさせられて面白かった。
 宝探しを始めてから元気になった老人達。実はその宝物が以前生物部の先生によって掘り出されてしまい、無くなってしまったことを知る愛とえりか。真実を伝えないと相手を傷つけてしまうと思いながらも、老人達にとって知ってしまうのと知らないのとどちらがいいのか悩み、知らせない方が老人達にとって幸せだと判断する。ここでは「リアル」によって自分たちが陥った、友人と直に本音で話すかどうかという悩みの経験が生きている。
 相手の目を見て本音で話すことが大事だと頭では解っていてもできない高校生が、本音で楽しそうに話している老人達にふれて、ゆっくりでも本音で伝えようとし始める。少しずつ成長していく高校生の姿は共感を呼んだ。


《専門家・顧問審査員会》

 はっきりと自分の気持ちを言うえりかに対して、本音が言えなくて「リアル」によって自分の気持ちを伝えようとする愛と夏美。戦時中に埋めた"ワカスギタカシサウルス"の爪の化石を掘り起こすために、老人ホームから痴呆症の仲間を連れ出して、昔の記憶を頼りに地面を掘り起こす3人の老人たち。現代の高校生たちと老人たちがそれぞれに気持ちを通わせるさわやかなイメージの作品でした。
 考え抜かれたタイトルである「ここほれ ONE ONE」は一人一人(ONE ONE)がそれぞれ(ここ)の自分を探すために、地面をそして心の中を掘り起こしてゆくという内容につながり、本当のことを他の人にどのように伝えればいいのかということを考えさせられる作品でした。
 多くの部員を擁し、29名のキャストを舞台に登場させ、それぞれが自分の役を演じようと意識して動いている、まさに富山第一高校演劇部員が全員で作り上げた作品であることを感じました。
 「リアル」に書き込むことによって友人の心を傷つけてしまい、本当の自分の気持ちを直に言葉で伝える大切さをしった愛。老人たちの探していた化石が本当はただの石だったという事実を伝えるかどうか迷う夏美とえりか。真実を伝えることは大切なこと、でも知って傷つくなら知らないほうがいいのではと考えさせられるテーマでした。
 すぐには変われなくても少しずつ自分の本心を打ち明けて、親友のえりかとの中を修復して行こうとする愛。化石を見つけることではなく掘ること自体が生き甲斐となってきた老人たち。真実はすでに見えて来ていたようです。そこに到着するまでゆっくりと地面を、そして心を掘り続ける、その過程に意義を見いだす必要があるのだろうなと思えました。
 若さに満ちた高校生が老人を演じるとき、いかにして違和感を持たせないようにするかが役者の力量だと思いますが、その点老人役の3人はうまく演じていたと思います。これからも部員一丸となって良い作品を創って行ってください。




 (愛知県)横須賀高校 
「恋ナビ!~ver.2010~」 品川浩幸×小島敬子 作


《生徒講評委員会》

 勢いや華やかさがあり、遊び心も満載で、初めから終わりまで息つく暇もなく引き込まれ、とてつもなく楽しく抱腹絶倒、しかも勇気までもらえる爽快な〈エンターテイメント劇〉だった。
 この話の主人公であるみなこは同級生のサイトーに長い間恋心を抱いていた。そんなみなこにある日、恋の行方を占い、その傾向と対策を探るバーチャル・3D・恋愛ナビゲーション「恋ナビ!」から1通のメールが届くところから舞台は始まる。
 幕が上がると同時に目に飛び込んでくるのは、明るくポップなみなこの部屋。この生活感のない部屋の作りには、生活感をもたせたほうがサイトの世界とのギャップができてチアリーダーたちの存在感が際だつという意見もあったが、逆に今のままの方が舞台を広く使えて、非現実的なサイトの世界がよく表現できるという意見も出た。実際、現実の方は蝉の効果音が夏を感じさせ、「恋ナビ!」サイトの場面では押し入れに縁どられた電飾、ドラムロールの音響、強烈なナビゲーターのキャラ等々から、充分クイズ番組のようなshowを思い浮かべることができるので、これはこれでありだと思った。ライバル4人やチアリーダーたちの動きもビシッと揃っていて迫力があった。
 みなこの恋の成功確立は当初、わずか2%しかなかった。恋のライバルが4人もいたからだ。この恋のライバルたちは強烈な個性に溢れ、それぞれ積極的に行動を起こす。ところが、当のみなこは恋愛に対してとても消極的で、努力をしない。恋ナビでやがて努力をするようになるが、うまく行かない。ところが、自分に恋するケビンと握手をし、その手のぬくもりを直に感じることをきっかけに、実体のないサイトーとの違いに気づいていく。そして、恋ナビに頼るのではなく、自分で考え自分から行動するように成長していく。朝が苦手で不器用でも、恋愛に対して真剣になっていくみなこの成長の過程は、照明やBGMの変化、小道具、幕の使い方でも効果的に表されていた。
 ケビンとみなこの会話は、微妙に噛み合わないのだが、なぜか心は通い合っていく様子は、不思議と観客の心を掴んだ。ケビンだけではないが、個性的な人物の登場が劇の重要なアクセントになっていたと思う。
 後半にサッカーや野球の応援を取り入れたことも、空間を最大限に押し広げてよかった。舞台はみなこの個室のはずなのに、最初に押し入れからチアガールが出てくるし、最後は競技場の様子が難なく想像できるという自由な演出に舌を巻いた。サッカーと野球で微妙に応援の雰囲気を変えるなど、芸も非常に細かかった。
 この劇を通して、自分から発信することなく相手まかせにして文句を言っていてもスタートラインにさえ立てないということに改めて気づかされた。ナビというマニュアルには頼らず、主体的に行動に移そうという気持ちにさせてくれるエンディング  ハート型のボンボンに囲まれたみなこの笑顔  を見る頃には、単なるエンターテイメント劇ではなく、観客の私たちまで元気になれるよう"ナビゲート"してくれる〈応援劇〉に変化していた。


《専門家・顧問審査員会》

 恋に対して一歩が踏み出せない普通の女の子が、恋ナビ!を通じ、自分から一歩を踏み出すことができるようになる成長物語――と、私は捉えました。そう捉えると、演出もスピーディーであるし、普通の女の子が異化作用を受けて成長していく、というところに力点が置かれていて、非常に見易い、観客を楽しませるつくりになっていたと思います。また、セットも、背景の電飾など、シンプルながら非常に練られており、恋ナビ!の世界観を盛り上げるのに一役買っていました。ただ、特にマイクを使用するシーンは、せっかく観客が劇空間に入り込んでいるのに、すっと、その熱が醒めるような心持ちになりました。マイクを使用すること自体は悪いことではありませんが、それを継続することによりどういう効果を生むか、というところまでケアできるとなおよいお芝居になったと思います。
 役者陣も、セリフが聞き取りやすく、非常に鍛えられているという印象を受けました。特にケビン君は、自分が外国人である特性を活かし、「腰が抜けた?」「いや、ついてますけど」「男にはそういう瞬間がある」などという名セリフも残し、観客を沸かせていたと思います。他の役者も、それぞれに持ち味を出していて、キャラクターの差を浮き立たせることで、観客を引き込んでいました。
 ただ惜しいのは、恋ナビ!から卒業したはずの主人公が、また恋ナビ!に戻ってきたような描写が見られることです。セリフで「恋ナビに頼らない」と説明はあるのですが、チアガールが出てくることで、恋ナビ!から卒業していない、と観客が錯覚してしまった面もあろうかと思います。例えば、主人公とケビン君のシーンで終えたとしても、十分豊かな芝居として成立したのではないか、と感じます。
 とはいえ、一時間ノンストップ、笑いっぱなしで芳醇な時間を過ごすことができました。私も、一度、恋ナビ! に登録してみたいです。



 (岐阜県)池田高校
「珈琲とナポリタン」 川村モコ+池田高校演劇部 作


《生徒講評委員会》

 アユミは大人の階段を思わせる螺旋階段をのぼっている。そこには喫茶店があった。店長とアルバイトの上田がいる。店長の珈琲に癒されつつ、上田の過去やアユミの過去の話を展開しながら話は進んでいく。
 最初に思ったのは、舞台セットの色塗りがきれいに施されているということだ。幕が開けたときから圧倒された。装置の模様は目の錯覚を利用していて、上向きにも下向きにも見える矢印になっていた。店長が出てきて話が進むにつれ、ますます喫茶店らしさを増していく。
 最初の螺旋階段をイメージした照明は、菱形を回転させる特殊なものだったが、劇全体の世界観を表し、引き込まれた。たしかにこの劇には回想が多いが、照明の切り替えは秀逸で、暗転を暗くしすぎず、テンポよく切り替えていた。矢部が落ちてきたところは溶暗になっており、一瞬の暗転であるべきだったという意見が挙がったものの、最初から最後まで感心させられっぱなしだった。音響もレコードの針を落とすところが懐かしさを醸しだし、一気に場の雰囲気を喫茶店に近づけた。選曲もビートルズのナンバーが多用され、喫茶店の時代やテイストがよく出ていてよかった。
 観客のことも考えられていた。コミカルな動きが多く、最初に手品を出し、私たちの心をつかむ。店長が上田を殴るところ、ミュージカル風の演技などでは、笑いも起きていた。上からリュックが落ちてくるのも意表を衝き、高さや上下の動きをたえず意識させ、飽きさせない工夫が随所にみられた。
 結局、この劇は上下の動きに特徴があったと思う。皆は階段をのぼっていくのだが、すぐには高みにたどり着けない。落ちてきたり、戻ってきたりもする。が、行きつ戻りつするところにかえってリアリティがあったのではないか。〈「経験は多いほうがいいのさ。」「失敗するとわかってても?」「自分が決めたことならね」〉という対話からもわかるように、自分で決断し、試行錯誤することが大切なのだ。その意味で、過去への回想や現実も浸入してくる心象風景という世界の持つ、いい意味での不安定さが生きてくる。
 この劇のメッセージは「逃げないでつらいことや悲しいことを乗り越えていく」という意見がある一方、「とどまることは悪いことではなく、とどまることにも意味はある」という意見も出たが、おそらく両方とも正しいのだと思う。とどまることで珈琲の味だけでなく、香りにも気づけるほど成長していくのだから矛盾はしない。また、とどまっていても、上には待ってくれている人がいる。
 冒頭の螺旋階段の照明の菱形と、上下の矢印を描くパネルに挟まれた真ん中のパネルにある菱形は、螺旋階段の踊り場、休憩所を表していたのかもしれない。時間はかかっても、心の地図は自分で描くことが大切なのだ。店長の香りのよい珈琲、そして時間はかかるが手間のかかった上田さんのナポリタンのあったかさに心がしみた。


《専門家・顧問審査員会》

 「珈琲とナポリタン」というタイトルからは内容が想像しにくいが、成長していくことを階段を登っていくことにあてはめたよく使われる題材の作品であった。しかし、観終えるとタイトルの2つの単語がちゃんと印象づけられていた。だが、珈琲の入れ方が雑であったり、ナポリタンが出来上がった時に何ものってない皿を持ってくるなどは印象が弱くなる上に冷めてしまった。
 セットは丁寧に造られ、センターにダイヤ、左右には上にも下にも見える矢印の壁紙は印象的であった。照明、音効も工夫されていたと思う。しかし、出ハケでの階段の使い方、照明の現実世界と空想世界の使い方、BGMの切る場所等あいまいな部分があり空間(どこにつながっているのか、現実なのか空想世界なのか)がわからなくなる場面があり残念であった。
 声はよくとおり聴きとりやすかったが、言葉の切るところが不自然だったり、会話にならず台詞を言ってるだけに聞こえてしまうところもあり、また、動作も相手の話を聞いた後にしか動けないとこを台詞の途中で行動している場面もあり不自然さがみられた。
 ラストはパネルが開き上へと上がっていく階段が現れ上がっていく絵は印象的であった。もう少し早く暗転をしてもっと足踏みの絵をみせず、もっと、先まで続いているという印象を与えられればもっと、良かったと思う。
 全体的、細かいところを丁寧に造ることが出来たらもっと、いい作品になったと思う。



 (石川県)金沢桜丘高校
「エレベーター」 黒羽英二 作


《生徒講評委員会》

 こんな未来が待っていたら、どうしよう。背筋が凍りつく恐ろしい劇だった。
 エレベーターには、エレベーターガールと男の死体。その死体を移動すべく死体運搬人が楽しそうに死体を運んでいく。そんなとき、また一人の男がエレベーターに乗り込んでくる。3階は高速道路、3024階は青空など、この世にあるもの全てがビルの中に閉じこめられている。
 装置は舞台上手側にエレベーターがあるのみ。だが、薄暗くエレベーターだけに照明が当たっていて不気味な空気を漂わせている。扉の作りがやや軽いのが惜しく、もうすこし重厚にした方がよかったが、無機質な感じは出ていた。エレベーターの広さも議論になったが、エレベーターという空間特有の狭さを上手く活用していたと思う。また、エレベーターの外でも、死体運搬人が死体を運ぶときにS字のように舞台全体を広く歩いていることで、長い台詞に合わせて動く工夫があった。舞台袖からの白い光も死体運搬の通路らしくよかった。海や空など地球の自然までビル内にあるという設定も、だんだんと人間が生活しやすいように管理されていくという閉塞感を感じた。
 数え切れない階数をもつこのビルでは、エレベーターガールや死体運搬人は常に同じ仕事を単調に繰り返している。そこに存在する全ての人が機械的であるが、男だけは例外で、規則的な仕事への嫌気や反逆心から出口を求めて地下333階の次の階に行こうとする。機械的な人間とは真逆の人間の登場が、逆に恐怖を引き立てた。男と女のエレベーター内での束の間の交感、泣き笑いも恐怖を増幅する。
 しかし、出口などなかった。男は地下333階の次の階に行って撃たれて死ぬ。その際の過剰な銃声や金属音は、普通なら音量が大きくてうるさいだろうが、尋常ならざる迫力や恐怖を倍増させる演出でリアルな戦場が想像させ、観客を恐怖でおののかせた。
 エレベーターガールが男の死に直面して取り乱した後、感情を切り替えて「上へ参ります」と言うところは、見ていて込みあげるものがあった。
 最初に男が死んでいるときと最後に男が死んでいるときの位置や体勢が統一されており、死体運搬人がトランプの意味を覚えようとしているがなかなか覚えられないところなど、機械的な言動や姿勢まで繰り返されるため、同じ悲劇が嘆きを伴わずに繰り返されることを暗示していて、恐ろしい。
 全体的に恐怖感が強く迫り、生死について考えされる劇だった。暗い死体と明るい死体運搬人の落差など、あらゆることが恐怖に結びつき、生死というテーマに向かわせる。女や死体運搬人は、何者なのか。このビルに出口はないのか。死ねば脱出できるのか等々、考えなければならない問いは、あまりに多い。


《専門家・顧問審査員会》

 全編を通して、ほとんどが閉鎖的なエレベーター内での男女のやり取りで物語は進行するという役者の演技力が要求される作品でしたが、観るものを惹きつける熱演でした。
 まず、エレベーターの上昇音とともに緞帳が上がり、劇中の世界へといざなわれました。そこには一つのエレベーター。エレベーターに観客の視線が集まるだけに、扉の軽薄さには気持ちがそがれてしまい残念でした。扉の開閉やエレベーターの昇降、空間の閉塞感ももっとリアリティーを追究できるのではないかと思います。
 人間の進歩によって心が失われた世界で機械のようにボタンを押し続ける女と、人間らしく生きたいと願い出口を見つけようともがく男。男の感情表現や動きには人間の持つ揺らぎがよく表現されていました。男は出口を求め続けた挙げ句地下333階の次の階に行って犠牲となります。その場面の音響と照明はその世界の争い渦巻く恐ろしいイメージを感じさせました。しかし欲を言えば、もっと観客を恐怖に陥れ、心をかき乱してほしいと思います。男の人間らしく生きたいという思い、外に出られるのではないかという期待を完膚なきまでにズタズタにし、それを突きつけられた観客が何を思うかがそれぞれの「エレベーター」という作品になるのだと思います。結果的に男は死に、物語は何事もなかったかのようにもとの世界に収斂していきますが、男の死によって女が人間らしい心を取り戻しかけたところに、人が人とつながろうとする力、一筋の光を感じました。
 この作品はかなり前の作品ということで、資本主義による高度経済成長の時代が背景にあるようですが、人が人間らしい生き方を求めるというテーマは普遍的です。私は「機械的にボタンを押してばかりいる」女が、現代人が携帯電話のボタンばかり押している姿に見え、同じ空間にいても人と人との関係が断絶しているような状況が重なって見えました。作品を作る上で、演じる側もきっと自らが日常感じている閉塞感などの思いもこの脚本に重ねて表現していると思います。その思いがより伝わるようにするために、脚本を現代風にアレンジしてもよかったと思います。
 最後に、人数、時間、予算などさまざまな制約の中で演劇を作るのは大変ですが、その制約の中でいかにいい劇を作るかを演劇の醍醐味と思い、むしろそれを楽しむほどの意気込みでぜひ頑張ってください。



 (福井県)福井商業高校
「(仮)あなたのための物語」 玉村 徹 作


《生徒講評委員会》

 「人生はマラソンに似ている。」ひとつの物語を通し、葛藤し苦しみながらも、人生というマラソンを走り続ける人々を描く。
 切り絵の人型パネルでたくさんの人々を表現し、青色の明かりに浮かぶシルエットの一体の中に紛れていた生身の主人公が動き出すことによって物語が始まった。
 音響に細かな配慮がされており、全体の雰囲気を盛り上げていた。母が料理をするところでは役者のパントマイムと息がぴったり合っていたし、最後の盛り上がりを上手に助けていた。
 そして照明は、青で浮かび上がるシルエットに尽きるだろう。もちろん、他でもよい仕事をしていたが、すべてのスタッフ、キャストと協力して作り上げた冒頭のシルエットは観客の心を一気につかんだ。咲恵が立ったときの表情が少し見えづらかったのは残念だったが、照明は全体的にもよい仕事をしていた。
 しかし、この劇の魅力は感覚的なものだけではない。期待されず親の愛情に飢えた妹・咲恵の深層心理をえぐり、期待されている兄への愛情と葛藤がよく表現されており、強く共感した。兄妹がそろって泣くところはリアリティがあったし、母が兄に期待をかけ、妹には期待していないというところ、兄が引きこもってしまうところなど、いたるところで家族の問題が問いかけられていて、内面の問題にも深さがあった。
 登場人物が「あなた」、すなわち私たち観客を指しているという仕掛けも、この劇に広がりと共感をもたらしていた。舞台の上の人物は自分とは関係のない人物ではなく、まさに自分自身なのだと同一化して見ることによって、自分の家族関係や家族との対立や葛藤、愛情に思いをはせてしまうのだ。「(仮)あなたの物語」というタイトルも、「(仮)」という部分を含め、そのことを意味していたのだと理解できた。事実、講評委員の中には、自分の親や兄弟姉妹との関係、葛藤、愛情と通じるものがあると告白する人もいた。
 最後の「がんばれ」という応援の息を合わせることで、ラストを盛り上げることができたのではないかと感じた。誰もが知っている「走れメロス」の朗読を取り入れることにより、走るのは、そして生きるのは何の為なのかを、より観客に考えさせることができていた。また朗読という形式を劇中に取り入れたり、一人で何役もこなしたりする斬新な試みが、見た目以上の人数や重量を感じさせ、ラストを盛り上げた一因になったのではないかと考えた。
 今の自分が孤独を感じていたとしても、必ずどこかで応援してくれる人がいるのだと、温かい気持ちになった。観客にも「がんばれ」というメッセージを、プレッシャーや気負いを与えることなく、エールとして届かせることのできたというのは驚きだった。青い明かりのシルエットに浮かぶ人型たちのさまざまな動きや表情は、自分の生き方をも含めた多様な生き方の象徴であったのかもしれないとラストで気づかされた。


《専門家・顧問審査員会》

 一人の少女の母親や兄、友人たちとの関わりを通して人生が語られる。それが縦軸とすれば、太宰治の『走れメロス』の一部分やマラソン等に関する蘊蓄が横軸として物語に織り込まれている。多様な内容によって物語を厚みのあるものにしている点では、試みは成功していると言えよう。
 物語は、濃い青色の背景の中のたくさんの黒いシルエットの一つから主人公が飛び出してきて始まる。印象的な冒頭のシーンにより、物語への期待感が高まる。そして、二人の語り手によって物語が進行する。「走ることは人生とよく似ている。」ありふれたフレーズで、興が削がれかけたが、主人公の咲恵と兄との蝉を通してのやりとりで、また物語に引き込まれた。飛べなくなった蝉の世話をする心優しい兄が引きこもりになる。母は、兄が心のより所であり、妹・咲恵は兄の代わりにはなれない。母親から愛されない咲恵の精神的な飢餓感、兄への愛情との葛藤。家族間の愛情の問題が中心になっているのは分かるのだが、なぜ母親は兄にだけ期待し、愛情を注ぐのか。妹はなぜ母親から愛されないのか。なぜ兄は引きこもりになったのか。妹が怪談を語る場面、余計な蘊蓄などはカットして、もっと主要人物の内面を掘り下げ、テーマに繋がる説明を加えてほしかった。
 照明は暗さを基調にし、シルエットは美しかった。効果音も登場人物の動作とよく合っていた。ただし、スポットが主人公の咲恵より、脇役の二人中心に当たっていた点が気になった。主人公はあなただと言いながら、実はあなた中心に世の中は回っていないという皮肉が込められているのだろうか。そういう面から見てみると、母親は人には表裏があると言っているし、『走れメロス』の王は、人が信頼できなかった。「頑張れ」と励ますのが表面上だけであるのならば、人の言動によって否応なく走らされるのが人生だという意味にも解釈できる。最後の場面のシルエットが観客それぞれの人生に呼応すれば…、人間の生について改めて考えさせられる含蓄のある作品であった。




 (岐阜県)恵那高校
「シックス・センス・シンドローム」 堀 敦貴 作


《生徒講評委員会》

 バイト先の剛田さんに恋をした少年、和之の恋の悩みに引き寄せられ、和之の家を離れられなくなった幽霊の真太郎は和之の悩みを解決するために協力する。さらに女の幽霊が2人増えるが、恋の相談は的外れ。また、友人の山本も相談に乗ってくれるが、やっぱり先に進めない。幽霊と山本が組んで恋愛の相談はさらにヒートアップ・・・。
 本棚に乱雑に入れられた漫画やシーツのよれたベット、机の上に広げられたお菓子や飲み物の数々によって、幕開けと同時に生活感のある男の子の部屋だとわかった。また、壁に貼ってあるポスターや写真、和之のズボンの裾がまくってあったりすることで、普段から和之がスポーツ好きで活発な性格であることを感じ取れた。
 1つ1つの動きが考えられていて速い動きも随所にあり、とても練習したのだろうということがうかがえた。特に役者のアクロバティックな動きは目を引くものがあった。全身を使っての大きな動きで、恋に対するとまどいや喜びなどの感情も表現されていた。
 和之を幽霊仲間に引き込もうとするシーンでは、白い布をかぶった幽霊が一斉に多く出てきただけでなく、壁から手が出てきたりスモークを使ったりと演出が工夫されていて、音響・照明の効果と相まって恐怖を増幅していた。ここまで幽霊達が恋愛に協力したのはこのためだったのかと思わせた脚本にも拍手を送りたい。
 恋愛に対して動き出せない和之に、友人の山本と幽霊たちが恋愛を指南してくれるが、山本は過激でストレート、幽霊達はどこかずれていてなおさら混乱してしまう和之。でも、まじめに向き合ってくれる山本、告白に成功したら見えなくなってしまう運命にある幽霊達に背中を押され、剛田さんに告白、見事に成功。本当に自分のことを思ってくれる彼らの友情に共感し、自分にもこんなに思ってくれる友人がいたらいいなあと思った。
 全体的にテンポがよく、霊界ワードなどセリフによる笑い、コントのような笑い、そして体全体を使った不思議な動きによる笑いなど至る所に笑いのエッセンスがちりばめられており、最初から最後まで笑えて素直に楽しめる劇だった。笑っているうちに日頃の生活の中での悩みやストレスが徐々になくなっていき、さわやかな気持ちになれた。


《専門家・顧問審査員会》

 まず、「シックス・センス・シンドローム」というタイトルがいい。演劇好きの心をつかんでしまうタイトルだ。ホラータッチでコメディー!目眩く60分が始まる。
 この劇が成功したのは、第一に和之の憎めないキャラ設定。シャイでうぶでちょっとおバカな和之が、恋心に揺れる様を、彼自身の卓越した独特の身体表現で観客に伝えた。第二に和之と山本と幽霊たちの軽妙なトーク。次々と飛び出すオカルト・ジョークの数々に、ホール内は笑いの渦とため息で満たされた。第三に『和之の恋を成就』させようとする幽霊たちの熱意と山本の友情が、最後には奇跡とも思える『和之の愛の告白と交際の始まり』を実現するというハッピーエンド。幽霊たちのナンセンスな会話やアクション、意表を突く大人数の幽霊の登場がスパイスとなり、最後まで観客を飽きさせなかった。
 この劇では、最初は和之にしか幽霊が見えない。劇中の説明では『(悩みなど)心の隙に幽霊はとりつく』とある。後半、突然、山本に幽霊が見えるようになる件があるが、この流れでは『幽霊が見えるようになった理由』が釈然としない。審査委員長も言われたように、はっきりした『幽霊の取り決め』があれば、観客に『その理由』がはっきりと伝わったはずだし、『劇の深いテーマ』を浮かび上がらせる大きなチャンスにもなったのではないかと思う。
 舞台は和之の部屋。感心したのはキャストがこれだけ激しいアクションをしているのに、周囲の物にもぶつからないし、大道具が揺れたりもしなかったことだ。余程の工夫と練習の成果だと感じられ頭の下がる思いがした。難を言えば、大道具の隙間から後ろで人影が動くのが見えたこと。黒布で簡単に対処できることなので、『これだけの舞台を作っただけに残念だった』との評があった。
 最後に、高校演劇は『エンターテイメント性』だけでは評価されず『テーマ性』がなければダメなのかという点。審査会でも話題になったが、テーマうんぬんよりも話の整合性が大切とのこと。その劇を通して何らかの一貫したものがあればいいということなのだろう。実はこの点については、生徒講評委員から大きなヒントを受け取った。『この劇を見て笑っているうちになぜだかすっきりした気分になれた』というのである。とすれば、高校演劇でも『笑うこと』それ自体に大きな意味があるのではないかと感じた。




 (三重県)暁高校
「朝がきた」 井出英次 作


《生徒講評委員会》

 母を失った悲しみから抜けられず、無口になってしまった小学生の健二。夏休みのミステリーキャンプで、亡くなった母の幽霊と出会い、動物を殺して食べねばならないという、体験学習を通して、母の死を乗り越えていく。
 舞台中央の大きなロケットは、存在感があった。健二の回想シーンではロケットになり、現実では公園の遊具として見えるような舞台装置で、効果的に使われていた。小さいテントに子どもたちが這って次々と入っていくというアイデアが輝いている。
 照明は、ホリゾントの色が効果的に使われていた。母との別れのシーンでは、オレンジ色の暖かいイメージからブルーに変わって、別れの寂しさが感じられた。また、鶏の首を切る時の真っ赤な色は恐怖と残酷さを感じた。朝の到来がわかりやすく、ラストの星空もきれいだった。
 健二と裕子が、ウスバカゲロウの命の短さについて話しているときに、効果音で蝉の声が聞こえて、精一杯生きる生き物の力強さも同時に感じた。鶏が鳴くところは迫力があった。
 個性的な登場人物を、それぞれ演技や衣装で分かりやすく表現していた。とくに先生は、奇妙な話のしかたや仕草が印象に残った。討論の時にも生徒に答えを与えようとはしないし、体験学習で当然のように鶏の首をはねてしまう。一風変わった先生を演じていた。
 健二は他の子どもたちにも心を開こうとしない。いつも小さくしゃがみこんでいる。大助はラジオ体操もせず、マイペースでキャラクターのぬいぐるみで遊んでいる。集団になじめない者同士のふたりだが、目立たない健二と、目立つ大助の対比の仕方もおもしろかった。
 「生き物を食べるということは、こういうことなのよ」と言って先生が鶏をさばき、生きているものを殺して食べることの意味を子どもたちに伝えようとする。残酷な話だが、子どもたちは自分たちなりに命について考え、健二も虫の命と母の命を重ね合わせ、自分の生きる意味を考える。私たちが、普段は忘れていることを、改めて考えるきっかけになる場面だった。
 亡くなった母は健二に、命は宇宙の中で循環していると語りかける。健二は、自分の中にも母の命があるとわかった。「宇宙船地球号」からの健二のメッセージは、オープニングでは、母を失って生きる気力を失い、誰かに助けを求めるものだった。しかし、キャンプを通して、健二は生きる力を取り戻し、「地球」にもどってくる。素直な気持ちで観ることができるお芝居だった。


《専門家・顧問審査員会》

 朝のラジオ体操からの幕開きで場所を位置づけるのにいい効果が現れていました。
 母との別れを経て一歩を踏み出す少年や生物は何のために生きているのか…このテーマに小学生が一番近かったのでしょうが、小学生を意識しすぎたのか、後半が少し単調になってしまいました。しかし公園の遊具であるロケットが、健二にとっては心を運ぶロケットになったり、袖とテントのつなぎ方等随所に様々な工夫がみられました。それゆえに上手の引っ込みの見切れが残念でした。舞台に空間をつくらない。芝居のリズムをつくるという意味で、袖からの声かけ等、考えてみると面白くなりそうです。オカマ先生の形象はとてもうまく創られていましたが、子どもたちに何故彼が必要だったのかが薄い。現実の体験の再構築だけでなく、それぞれの役が生きあえるとプロセミから飛び出すことが出来るのではないでしょうか。
 背丈の違いの面白さがあったので、もう少し互いに遊べると豊かなものになったと思います。自分たちが体験したものは、幼く感じるものですが、今の思考で全身でぶっつけてみると様々な発見が生まれます。発想やアイディアがいい作品でしたので、もう一つ練り上げられるととてもいいものになったと思います。ですが、皆さんがここまでかけてきた時間は、一人一人の心に刻まれ、かけがえのないものになったことと思います。みんなの力が集まってはじめて、お芝居は出来上がります。この経験がこれからの皆さんの人生の糧になることと思います。




 (愛知県)愛知高校
「紺屋高尾」 古典落語「紺屋高尾」より


《生徒講評委員会》

 オープニングから一気に引き込まれ、最後まで飽きさせない演出で、江戸の世界を十二分に堪能できた劇であった。高校生にとっては馴染みの薄い古典落語を題材にしていたが、役者の演技力はもちろんのこと、精巧に作り込まれた装置や効果的によく練り上げられた音響、妥協の無い衣装など、すべてのレベルが高く、高校生でここまでできるのかという驚きと衝撃を持って今回の劇を見終えた。
 紺屋職人の久蔵が吉原で一番と評判の高尾太夫に一目惚れし、所帯を持とうと考える。彼女に会いたい一心で「十五両あれば高尾に会える」との親方の言葉を鵜呑みにし、仕事に励む久蔵だが…。
 最初の場面では、二人の目があうときにBGMを一瞬の間消して、照明を二人に当てることで、久蔵が恋に落ちたことが美しく効果的に描かれていた。ダンスは紺屋の人々の絆の強さや、紺屋の仕事内容を分かりやすく表していた。洋楽を使っていることで、この話が単なる古典ではなく、現代に通じるものがあると感じさせる。古典落語にあまり関心がない人達との距離を縮める効果があった。暗転幕で場面を転換することでなめらかに転換ができて、日本舞踊を入れるなど工夫があり、見ることにも集中できた。
 花魁特有の歩き方や口調、紺屋の仕事内容や親方夫婦の江戸っ子訛りなど、よく研究されていて、それぞれの役者の造形に説得力を与えていた。登場人物が出てきただけで、衣装やメイク、所作からその人の年齢や職業がひと目で分かったのがよかった。舞台全体に日本の美を感じた。空間の使い方にセンスが感じられる。
 努力すれば願いは叶い、愛は身分の差を超えて二人を結びつけるという展開は、見終わった後に幸せな気持ちになれた。
 久蔵が高尾にあうためだけに、三年間働き続けたことから彼の必死の努力がうかがえるが、劇中ではその時間の長さが感じられず、もっと強調したほうがテーマを伝えるのに有効だと感じた。
 よくあるシンデレラストーリーとは少しちがい、大名か豪商の元に身請けされてもよいはずの高尾が、富や名声を捨ててまで、久蔵との純粋な愛を貫きたいという気持ちは、見ている私たちの心を打つ。
 高尾を迎えた久蔵が、仕事場の奥から駆けてきて、高尾と無言で見つめ合い、手を取るシーンは、ほれぼれとするほど美しい場面だった。


《専門家・顧問審査員会》

 「え?・・古典落語?」「ああそう、愛知高校は毎年やってるんですね」「しかし、何?吉原?・・・」完成された古典落語の物語、しかも江戸の吉原の花魁を登場させる。そんなこと、高校の演劇部ができるのだろうか。もし中途半端な舞台装置や役を演じきれないようであったら無謀としか言いようがないな。
 というのが台本を受け取ったときの私の最初の印象でした。そして、緞帳が下りた後の感想は「お見事!」としか言いようがありません。シンプルではあるが華やかな舞台装置、選び抜かれた曲の効果的な使い方、動きに無駄がなくぐっと引きつける演技等、どれをとってもすばらしかったと思います。
 これは、演出をされた顧問の先生それに生徒の皆さんが、原作、そして台本を完全に読み込み、しっかりとした演出がなされている為であることがわかりました。
 笑いあり、涙ありの内容でストーリーも一貫しており、見ているうちに自分も江戸の町中にいるような雰囲気を感じることができました。そして、何よりも高尾太夫への久蔵の一途な想いが観ている現代の高校生には純愛物語として感動を与えたのだろうと思います。
 出だしの高尾太夫の花魁道中で客席に向けられた太夫の視線は久蔵へ向けられたものであると共に観客一人一人に向けられたものとなり、一転してテンポの速い現代風の音楽を用いて江戸の紺屋の職人たちの労働風景に移る仕方は、観ている観客を一気に話に引き込むみごとな演出でした。
 花魁に心をうばわれ、仕事も手につかない久蔵を心配する親方や女将さん、そして仲間の奉公人たちの優しさは、観ているこちら側にも共感できる暖かさを感じました。
 劇の内容も印象的でしたが、何よりも緞帳が下りた後の「ふ~っ」とも「ほ~っ」とも聞こえた会場全体の反響は、愛知高校演劇部に向けて、この上演を讃えるどんな言葉よりもそのすばらしさを物語るものとして感じられました。




 (福井県)勝山南高校
「ひかるみち」 川村信治 作


《生徒講評委員会》

 老人施設の裏手の庭をあるく中村知代を、介護士山本の先輩、黒田が追いかけている。舞台には中央に道があり、左右がシンメトリーになっているが、そこに石や木、切り株などが適度に配されており、ホリゾント幕にも緑が映し出され、幕開きとともにそこが自然の残る庭だということがわかった。
 黒田につかまえられた「認知症」の知代は、実は認知症ではなく、認知症のふりをして、新米の介護士の山本の仕事ぶりをよく観察していた。知代は山本にリンゴを差し出し、それを山本がかじることで二人の距離が一気に縮まり、話が始まる。
 知代は自らの身の上を回想する。ここで描かれる知代という女性は、戦争や政治、世界情勢に翻弄され、しかしその中をたくましく生き抜いてきた芯のある女性でもある。引き離された夫や息子に会いたい一心で生き抜いたからこそ強くなったことが伝わってきて、観客にこうした女性になりたいと憧れをいだかせる魅力的な人物像になっていった。彼女の一生は、そのまま世界史とも重なる。
 ホリゾントの照明は青空と草を表す緑を基調にして変わらない。しかし、唯一34歳である知代とその我が子との別れのシーンでは、暮色を思わせる赤やオレンジが使われ、別れの辛さや寂しい雰囲気がよく出されていて切なくなった。音響もヘリコプターが近づいて去っていくという距離感の違いを音の変化でとてもリアルに表現し、鳥の鳴き声などの効果音がさりげなく入っており、細部までこだわっていた。また二人で歌う子守歌に心を打たれたし、知代が中央から奥へ退場するラストでは賛美歌のような音楽をいれ、音量をだんだん上げていくことで、女性の荘厳な人生である「ひかるみち」を照らし出していたことも非常に効果的だったと思う。
 演技や演出では、拳銃を構えたバーバラから知代が逃げるシーンに迫力があった。舞台の土手ギリギリまで追い詰められることで、観客自身にも追い詰められているという錯覚を起こさせ、場の緊迫感を引き立てていた。声が震え、とまどいを入れながらの役者の息づかいから、クライマックスである山本が孫だと判明した時の衝撃がよく伝わってきた。できれば、その余韻をさらに間をとることでもっと味わいたいと思ったが、時間の制約によるものだろう。
 この作品は人一人の人生の様々な物語がぎっしりと詰め込まれていたことで、テンポが速くなっていたと感じた。もっと長い時間、たとえば2時間でしっかり構成されているものをじっくり見たいと感じたが、それだけ見応えがあった。孫の山本も、介護士になったばかりだが、心優しく魅力的な女性である。彼女の今後の成長も見守っていきたいと思わないではいられなかった。


《専門家・顧問審査員会》

 92歳の老人中村知代、新人の介護士山本奈留、二人の交流の劇である。山本は過去の時代でさまざまな役を演じる。冒頭いきなり、中村のユーモアなのか、不思議な腕の動かし方をしている。「ひょうきんに」と戯曲の指定があるが、その目的がわからない。ウインクで追っ手の二人が崩れるのも意味不明である。そういう世代の人がやりそうにないことをするという意外性じたいが目的なのだろうか。しかし、一瞬の受けのためのユーモアは、作り手の自己満足に陥りやすい。先輩介護士黒田は中村の持っている袋を「開けますよ」というが、まずは逃げた人を戻すということが必要なはずで、なぜ開けなければならないのか、どうして早く戻ることより袋の中身に関心があるのか、よくわからない。黒田は説明のための台詞が多すぎるし、脱走した老婆を探しに来たのに、後輩に託して先に帰るのもヘンだ。山田は、独白なのか相手に言っているのかわからない台詞回しである。中村は整然と喋りすぎであり、老人であることを意識できていないし、時々ものすごく大げさになる。
 セットはテイストの統一感があっていい。樹が二本、不均衡なのがいいし、まわりに幹だけで省略されている樹々があるのもいい。非対称デザインの机もセンスがある。ホリゾントの染め方もきれいだ。美術が良いだけに、袖幕への出はけが雑だと興ざめする。また、劇中に登場する林檎は、ただ林檎として出てくるだけで何かを象徴しているわけでもなさそうだ。そうした、「何かありそうで実体が伴っていないもの」が多すぎる気がする。
 一瞬のうちにタイムトラベルし役が変化するのはいい。もっと丁寧に考えれば劇的効果が増しただろう。
 皇后がいう「天皇が情勢を知りたがっている」というのは、中村の素性を聞き出すためらしいが、なぜこの立場の人がこんなことをするのだろう。なぜ一介の通訳が、こんな会話をするのかも謎である。海軍にいたとはいえ、山本五十六の奇襲作戦を具体的に知っているのかも、納得できない。チャーチルのポーズと作り声は、批評しているのかも知れないが、ただの悪ふざけに見えてしまう。「陛下の意志」という台詞があるが、それは歴史上のこととして推定しているのだろうか。フィクションだから構わない、ということではないような気がする。「地獄がやってきますよ」というよくわからない断定の仕方にもリアリティがない。うわずった発声であるためでもある。二人の抱擁からも何も感じられない。総じて、歴史を安直に「絵解き」する無責任さを感じる。
 現代に戻る時、かすかに頷きあいしてタイミングを取っているのがばれている。もっと想像力で芝居をしてほしい。この年齢の人たちの会話に「ヒューヒュー」「はや」みたいな今どきの言語感覚が出てくるのが理解できない。ピストルの持ち方とかはあんなに中途半端でいいのだろうか、「ごっこ」にもなっていない。音楽も大仰すぎる。
 劇中の歌も適当すぎるし、ユニゾンから二重唱になる必要もよくわからない。もともと下手なのと感情が溢れて歌えなくなるのはまったく別なことだ。
 こうした「因果話」は、よほど「表現したいこと」がない限り、作り物めいてしまう。役の気持ちがわからないし、演技も感情が入っていないから、どこまでわかっていて話をしているのか、と興ざめしてしまう。
 最後のその場歩きも美しくはない。それがどこに向かっているかが、まったくわからないからだ。野心的な作品だけに、焦点を絞らなかったこと、リアルさを求めていない中途半端さが、惜しまれる。




 (愛知県)新城東高校
「親の顔が見たい」 畑澤聖悟 作


《生徒講評委員会》

 いじめを苦に自殺した女子中学生の死をきっかけに、次々と明らかになる大人たちの醜いエゴ。
 遺書に名を挙げられた女子生徒の親たちが会議室に集められる場面から始まる。保護者たちの身勝手な主張に、校長、担任、バイト先の店長、被害者の母親の意見などそれぞれの立場や思いが交錯していき、いじめは本当にあったのか、誰の意見が正しいのか、罪は誰にあるのかという問いが容赦なく提示され続ける。
 この劇を解く鍵は、壁に掛けられた「最後の晩餐」である。キリストが裏切り者を告発した場面を描いた絵はさまざまな解釈の余地を残すが、「犯人捜し」の様相を呈するこの劇の行方を端的に暗示している。
 演技面では、役者がそれぞれの役を深く理解した上で、しっかり役作りをしていた。自殺した少女の母親の長時間泣き嗄らした後の声、怒りを顕わにする場面の迫力、誇り高い加害者の母親の憎々しい口調など、例は多いが、各人の力量の高さが説得力につながった。照明もあえて少し暗めにし、この劇の重厚なテーマを引き立てた。
 大人しか出ない劇の保護者の役を、いじめの現場にいる高校生が演じること。最初はうまくいくか心配したが、大人の上演とはまた違った生々しい空気感が生まれていて発見だった。「高校生が大人の視点に立ち上演することにも意味があると知った」「多くの中高生に見せたい」という意見も多数出た。
 証拠隠滅や責任転嫁を図る「立場」ある親たち、少女が死んでも死を深刻に捉えない「普通」にしている加害者である5人の女子生徒たちからは自己保身と身勝手さが感じられ、強い憤りを覚えた。
 他方、被害者の自殺した女子、そして新任の女性教師も少し弱すぎるというかナイーブな気がした。しかし、加害者側の人々にはそれぞれに守りたい立場や世間体といったものがあり、被害者側の弱さを許さない。そのような周囲や社会に対する強い怒りがこの劇全般に感じられた。
 ところが、さまざまなことが暴露された後、それぞれの保護者が子どものもとに向かっていく姿から、子に対する親の愛情も感じられたので厄介である。もちろん、だからといって、いじめを隠蔽してよいというわけではないし、自殺した被害者や家族の気持ちを踏みにじってよいというものでもないが、親には子を守る必要もあり、加害者側にだってその後の人生はあるのである。今後やってくる更生という難題や逆風とも向き合いながら生きていかなければならないのである。
 最後にステンドグラスに浮かび上がった十字架は、人を殺した罪を、親子がこの先も背負っていかなければならないということ、そして簡単には解決されることが許されないということを意味しているだろう。遺された者たちの今後は、いっそう険しくシビアな展開が予想されるが、そこにさえ微かな一条の光を見いだすこともできる。この劇が私たちに訴えかけてくることはあまりに多いし、あまりに深い。


《専門家・顧問審査員会》

 文句なしに素晴らしい舞台だった。審査員が全員一致した意見。
 作品は全国大会でおなじみの青森中央高校『とも子とサマーキャンプ』の畑澤聖悟氏のもの。昨年全国大会優秀校としてBS放送を観て、内容と、そして高校生が生徒と親を演じ分けるその演技に強い衝撃を受けた作品の、親の側を描いたもの。プロの劇団が上演している作品だが、重い台本を高校生がよく演じきった。丁寧に創られたセット、壁の最後の晩餐の絵、ラストに照明で浮かび上がるステンドグラスの十字架。なにより全員が舞台上でそれぞれの役としてしっかり生きていた。作品に登場してこない別室に集められている生徒たちの存在すら感じさせることに成功している。
 作者の畑澤氏からは、カットする苦労を考えて1時間バージョンの『ともこ~』を薦められたが、あえてこちらに挑んだと各校別講評の際に顧問から伺った。一般に2時間作品を1時間にカットすると、どうしても無理が生じ、芝居として破綻する場合が多い。しかし、そのようなことを少しも感じさせず、かえって余分の部分が削り落され主筋が明確になり、60分間の緊迫した空気を作り出していた。原作を超えたものになっていると審査委員長坂手先生も高く評価されていた。芝居をよくわかった顧問の指導のもと、同じベクトルで、部員全員が価値観を共有し、表現しようという思いが伝わってきた。チームとしてまとまっていた。細かい点でいくつかの指摘はあったが、そのようなものが気にならず一時間引惹きこまれていた。
 プロの劇団が上演するのとは違って、高校生が親の立場を演ずることで、かえって伝わってくるものがあったのではなかろうか。演ずるに当たり、親の自己保身や子供を守ろうとするエゴについて、自分の親の姿も投影し、醜い、嫌だと思う反面、親の子供への思いも感じ、そのゆれがかえって観る者の心に響く作品になったと思われる。
 作者の畑澤氏も教師であり、テキストレジした顧問も教師、いじめられる子もいじめる子もそれぞれが出しているSOSのサイン。最後に教師夫婦を残した処理といい、十字架といい、さまざまなことをこれから考えていかねばならない。
 新城東高校の皆さんが、全国大会でこの作品を演じ、多くの観客の心を揺さぶることを期待し心から応援しています。




 (石川県)金沢商業高校
「夏芙蓉」 越智 優 作


《生徒講評委員会》

 卒業式の夜、千鶴の呼び出しによって教室に集まった同級生の舞子、由利、サエはお菓子を広げながら思い出話に華を咲かせていた。しかし、その会話の中で生じ始める違和感。この違和感はどこから来るのだろうか。そもそも、何故千鶴は他の三人を呼び出したのだろうか。
 表情が髪の毛で隠れ、よく見えないこともあったが、全体的に寂しげで切ない雰囲気が良くできていた。音響では、オルゴールの音が切なさを際立たせていた。照明では移り変わりがとても自然であり、ホリゾントの赤・青の色が効果的で、きれいな情景を表現していた。特に、舞子の「ちー、アタシたち、死んでる。」という台詞と共にホリゾントが赤色になった場面では、四人のシルエットが悲しさ、死への恐怖をとてもよく表現出来ており、素晴らしかった。この場面は、演技においても息づかいやすすり泣くといった演技が光っていた。
 話が進むにつれ、普段通りに話をしていた四人のうち舞子、由利、サエの三人が交通事故で亡くなっていたことに気がつくのだが、そこに至るまでの伏線をしっかり押さえていた。話している際に、キャストが横や後ろを向くことにより、客席に台詞が届きにくかったが、友達同士のわきあいあいとした雰囲気が出ていた。死に気づくまでのはしゃいだ会話が、より事故の悲惨さを際立たせていた。
 今回の劇では四人が昔の思い出話をしていくことで、それぞれのことを忘れないようにしている様子であった。千鶴は初め、三人の死を受け入れられないあまり無意識のうちに三人を夢の中で呼び出してしまい、ラストでは夢から覚めると同時に、三人の死を受け入れたのではという意見が出た。千鶴の、この世にいない舞子に対する「別々の大学に行くのに、会ったりするのかな」という実現できない台詞により、会いたくても本当は会うことは出来ないという悲しい事実がより強く感じられる。
 今回の劇では、残された人が死んでしまった人に対して「死んだ後も忘れないでほしい」と思っていることによって、残された人自身にも「本当に死んでしまった人を忘れないことができるか」ということを逆に自分に問いかけているのではないかという意見がでた。
 夏芙蓉というのは、この劇では卒業式を表す重要な花である。最後の場面で千鶴は、夏芙蓉の花と卒業証書を渡すことによって友達の死を受け入れようとしていた。舞子の千鶴に対しての「一緒に卒業した!」という台詞により、二人にとって死についてのけじめがついた。卒業を間際に控えた夢多き高校生の人生が、唐突に奪われてしまうという命のはかなさを感じ、今生きているというこの時間、そして友達と過ごす時間を大事にしたいと思った。


《専門家・顧問審査員会》

 「夏芙蓉」高校演劇でよく上演される作品である。その為かいろいろ工夫しようとしているのはよくわかったし、丁寧に造ろうとする意識も感じられた。しかし、それが裏目に出ている所が目立った気がする。
 主人公は死んでいて友達3人が生きていると思わせて実は逆で友達が死んでいる構造になっているが、伏線を丁寧にみせすぎてネタバラシの前に3人が死んでいると確信してしまった。
 音響、照明ではいろいろと工夫を凝らし、少し情景が変わっただけで曲が入ったり、照明が変わったりしていた。それが説明しすぎとなり、ネタばれの原因の一つと言えると思う。また、多すぎて、きっかけがあやふやで気持ち悪いタイミングで音が入ったり、ライトチェンジしたりしてどこが、大事なところかもわからなくなってしまうこともある。しかし、選曲、場面の雰囲気のみせ方はよかったと思う。それだけにもっとうまく絞って造ることが出来たら印象的にみせることが出来たと思うのが残念である。
 演技面は台詞が聞き取りにくい場面が多かったように思う。とくに泣きのシーンでは全然わからない部分もあった。
 伏線のみせ方をもっと考えてちゃんとみせるもの、後から気付かせるものを選別してみせることが出来たらもっとドキドキ観ることが出来たと思う。




 (愛知県)旭丘高校
「記、一仔誕生」 名無し/旭丘演劇部 作


《生徒講評委員会》

 気がつくと、血のように赤い部屋に、床に渦巻く太い縄。そこに裸で繋がれた二人の男女。性欲を原動力とする芸術家英嗣(25)と、ゲーム好きなオタクみどり(22)。そして赤と白の謎の球体。徐々に縮まり、二人を追いこむ壁。ここは果たしてどこなのか?生きて出ることができるのか?
 段ボールが半円状に並んで積まれ、それが赤黒く塗装されている。その空間の中の赤と白の柔らかい素材の敷物が動くことによって、子宮とその内壁の粘着性を表現し、体の中の空間を表現していた。また、垂れさがっている赤い帯の吊りものが血管をイメージさせていた。
 英嗣とみどりの衣装が、細長い布を体中に巻き付けるだけというもので、露出が多いだけに見ていてヒヤヒヤしたが、そうすることで最低限の部分を隠しつつ全裸を表現することができていた。運動会の球転がしの球のような赤と白の優しい素材で作られた大きな球体から、頭と手足だけを出した赤血球と白血球は斬新であった。動きが常に機械的に繰り返されて、それが生命の営みを思わせた。
 「もちーん」「もてーん」や「ブクブクッ」といった母体の中を想像させる擬音を肉声で出すことが、生々しさを引き立てていた。特に肉声の中でも、袖から聞こえてくる笑い声が、これから生まれてくる子供への期待感を出していた。スポットライトで親や医者のいる外界の空間を表現しており、胎内との違いを強調していた。最後の赤ん坊が誕生するシーンで、ホリゾントの色を赤くし、シルエットを浮立たせ、生命の誕生を感じさせていた。
 なまなましい劇だが、途中にギャグではなく「性」を象徴としたウイットや笑いを挿入することにより、本題から離れ過ぎることもなく、劇を重苦しくしない工夫がされ、芝居にも自然にもりこめていた。
 白・赤血球の動きを徐々に早くし、装置の赤い壁が中央に迫ってゆき、出産へのクライマックスに近づく緊迫感をつくる。生と死は表裏一体で、そのサイクルを新しい切り口で描き、独自の世界を作っていた。
 次第に記憶を失い、自我も失うかもしれないことに怯える男と、生まれ変わり別の人生を生き直そうとする女。一方で、そんな子供の苦悩を知らず、誕生を心待ちにしてはしゃぐ若い夫婦。対照的な胎内と外の世界は、生きてこの世にいることの不思議を、あらためて考えさせた。生まれ直したいと思っていたはずの女(みどり)は、胎内で死んでしまい、胎内でみどりの双子の兄弟となった男(英嗣)が一人だけ生まれることになる。
 男は、女に「お前を生んでくれた奴は悲しんでくれることだろう」といい、すべての「挫折と苦悩と孤独」を忘れないと絶叫する。その絶叫が、しだいに赤子の産声になっていくのだった。叫びは私たちに「なにがなんでも生きろ!」と叫んでいるようだった。
 生は、性の問題から離れることが出来ない。この作品は、高校演劇でも見たことがない問題に挑戦した。驚きにとまどいつつも、劇を見た後も話題としてつきなかった作品だった。


《専門家・顧問審査員会》

 不可解で不可思議な閉塞された空間の中で、二人の男女が、不可解な言動を繰り返す。壁の役割をする赤黒い段ボールが積み重なった外側には、赤と白の球体が変な声を発しながら、段ボールの壁を徐々に狭め始める…。いったい何が始まるのだろうかと、舞台に見入ってしまった。そのうち、二人は母親の胎内にいる双子であり、男は英嗣、女はみどり(両者とも嬰児を掛けている)という名であることが分かってくる。赤と白の球体は、赤血球と白血球であり、子宮の壁を縮めて胎児の成長を促している。最後に双子のうち、みどりは胎内で死に、英嗣だけが誕生する。
 舞台装置や衣装は奇抜でユニークな発想があり、音楽も「カルメン」や「剣の舞」など場面に合わせ音楽の内容まで考えて使用されていた。照明も美しく、効果音にも趣向を凝らした工夫の跡が見られた。登場人物の二人も、台詞のやりとりがうまくできており、空間の広さを考えて動きも練られていた。また、赤血球と白血球は、脚の上げ下げまで合わせるという念の入れようであった。 高校生でよくぞここまでと思わせられる意欲的な作品なのに、なぜか伝わってくるものがあまり感じられなかった。審査会でも話が出ていたが、頭の中で作ったという知的な面が強調されすぎていて、生命が生まれるという現実・自然に負けている所がある。また、全体を貫くテーマが絞り込まれていない印象を受けた。なぜ双子で25歳と22歳の社会人の男女なのか。なぜ生まれたい方が死に、生まれたくなかった方が生まれるのか(教科書の吉野弘の詩の影響?)。例えば、男は精子で女は卵子であるとか、魂の一時休息所から胎内に移動するとか、英嗣が描いているのは遺伝子情報であるとか、もう一工夫があればよいと思った。更に一点難を言えば、全体のトーンが暗いことが気になった。最後の出産シーンなどは出色の出来栄えなのに、生まれることは「苦」でしかないと暗い視点で誕生を捉えているのはどうしてなのだろうか。独自の世界を追求した意欲作であるだけに、是非手直しした改訂版を見せてほしいものである。




 (岐阜県)岐阜農林高校
「呆 ~それでもここで~」 豊田梨奈+岐阜農林高校演劇部 作


《生徒講評委員会》

 主人公の本田優希は、認知症になってしまった祖母や不況に苦しむ家族のため、友達のため、そして自分のために自ら田んぼを耕し、米粉パンを作る。
 舞台が傾斜になっており、たくさんの人が出てくるが空間が重ならず、立体感が出ていた。傾斜の舞台(八百屋型)での演技は大変つらいものだったと思うが、よく練習されていて安定した演技ができていた。また場面展開がスムーズで、この劇にスピード感を与えていた。
 本田家を見守り続けたカカシは言葉が足りないからこそ、シンプルな言葉で登場人物の心情を表し物語を進め、場面転換が速くても、観客が状況をつかみやすくするという役割を持っていた。
 雪を表す照明や、カカシのシルエット、劇中劇の色鮮やかな照明がとても美しく、劇を引き立てた。音響では水田の足音やチョークの音など細かい動作の音がちょうどよいタイミングで入ってきて、日常感をうまく表していた。
 生活のために田んぼを売らざるをえない状況になってしまった。祖母がカカシを持って暴れ、ちゃぶ台をひっくり返すシーンはとても迫力があり、祖母の田んぼに対する熱い思いが伝わってきた。
 またこの劇では不況や就職難といった現在の社会問題には無力な高校生の気持ち、それでも優希の「今しかできないことをやらなきゃ」という力強い台詞に勇気づけられた。
 タイトルの「呆」は、①祖母の「痴呆」(認知症)②稲穂のホ③カカシの形を表しているということ④田んぼや帰る場所がなくなって呆然としてしまうという4つの意味があり、この話の大筋自体を見事に表していたという感想も出た。
 10年経ち、優希の思い出の場所は駐車場に変わり果ててしまった。優希の祖母に自分が作ったパンを食べさせてあげられなかった後悔の念が涙が出るほど伝わってきた。
 金色の稲穂畑が出現したと同時に、絶妙なタイミングで二重唱のサビが入り、より感動を引き立てた。二重唱になっていたのは、優希と祖母の気持ちが重なっていることを表していた。今まで辛い思いをしていた家族が稲穂に囲まれ楽しそうにしていて、彼らの望んだ未来が現されていた。それは叶わなかった未来でもあり、観客に感動と共に切なさも思わせるシーンになっていた。
 「それでもここで」 一所懸命に生きていきたかったという気持ちが、キャストやスタッフに乗り移り、脚本の行間を徹底的に読み込むことにもつながっていき、その結果、脚本を超えた舞台の上でしか表現し得ない感動的な熱演となり、そうした熱意は観客にも確実に届いた。


《専門家・顧問審査員会》

 自分たちの直面している問題を取り上げ、それに真摯に取り組んでいる様子が目に浮かぶような、いいお芝居でした。演出的にも、ストーリーテラーとして案山子を配置し、主人公である優希を見つめている、そして最後には優希も案山子を見つめるという構造が、ズバリはまっていました。優希をとりまくさまざまな人間が登場するのですが、それが個人・集団で非常に上手く処理されていました。非常にスピーディーな展開であり、観客を飽きさせず、また置いていくことなく、グイグイと物語に引き込んでいました。日ごろの練習量の豊富さを感じました。舞台美術も、幕が開いた瞬間に圧倒されました。傾斜をつけて、その中からかかしが出てくるというアイディアには唸りました。また、これだけでは終わらないだろうと期待していると、ラストシーンで鮮やかに実った稲穂が登場するところなども、迫力満点で、楽しめました。
 このようによく出来ているだけに、細部に見られた粗が、よりもったいなく感じます。たとえば、ストーリーテラーである案山子が、田んぼが潰されて駐車場になった後にも残っているのはなぜなのでしょうか。残っていること自体に問題はないのですが、今のままだと疑問が残りますので、案山子が残っていた理由を、明示する必要があるのではないでしょうか。また、目まぐるしく変わるシーンの中で、シーンごとに統一感をもった照明も考えられると、なおよいお芝居になったのではないかと思います。
 全体的には、1時間、飽きることなく楽しめるお芝居に仕上がっていたと思います。最後、優希が、おばあちゃんに見立てられた案山子に対して、自分の思いを吐露する場面なども、思わずもらい泣きしてしまいそうになりました。
 岐阜農林高校さんの、濃密な思いの詰まった1時間でした。




 (愛知県)刈谷東高校
痛快大活劇 断絶 ~便所くん最後の日~ 兵藤友彦+刈谷東高校演劇部 作


《生徒講評委員会》

 観客の意表をついたオープニング。BGMのサビと同時に幕が上がり、ダンボールをかぶった人と、妙にリアルな巨大便器が観客の注目を集め、ダンボールをかぶった人と主人公が、観客の中にまぎれこみ立ち回りを繰り広げた。激しいアクションシーンが常に観客の注目と心を釘付けにする劇であった。
 20XX年、世界は便所くんに征服されようとしていた。便所くんは新美をねらい、〈ダンボール人間〉たちをけしかける。新美は彼らの内の一人、"むらさきの雀"(以下、雀)を捕まえ、便所くんの情報を聞き出そうとした。初めは頑なだった雀も、新美の"ごっこ遊び"によって、しだいに心を開いていく。手下の雀が新美に心を開いてしまったことが許せない便所くんは、無理矢理ダンボールを脱がせ、雀を殺してしまった。新美は雀の復讐を誓い、便所くんに立ち向かっていく。
 雀は、オカマと言われる自分に向けられた世間の好奇の目が怖くて、自分を偽って生きてきた。「君は君のままで、そのままでいい」その便所くんの言葉で、彼の真理を信じることを決めた。新美の暴力にも、心を閉ざしたまま耐え続けることができた。しかし、新美のパントマイムで行う"ごっこ遊び"に、ついに反応してしまった。新美の武器による攻撃には屈しなかったが、"ごっこ遊び"に反応したところに、心を発信する演劇の本質に近いものを感じさせられた。
 怒りに震える新美のしゃがれ声や、炎をイメージさせる照明の使い方は、新美の怒りを十二分に表現していた。常に舞台上を動き回るダンボール人間や、激しいアクションシーンに、観客の集中を途切れさせないスピード感あふれる動き、殺陣シーンの生音は、タイミングも合っていて本当に殴られているように思える迫力がある。パントマイムの多い劇でもあったが、そこに本物があるように錯覚するほど正確に表現できていて感嘆の声が上がっていた。
 劇中に流れる「世界に一つだけの花」や「真っ赤な太陽」など、シーンに合った選曲の妙で、シーンの意味合いや深まりを感じさせた。
 たしかに、他人と関わらないほうが楽だ。ダンボールをかぶることで、暗くて孤独な自分だけの世界にこもることができる。しかし、「それでも、生き生きと動き続ける新美から目が離せない」という台詞のとおり、心を開くことの大切さを再認識させられた。


《専門家・顧問審査員会》

 心を閉ざしたことにより、男子便器に擬人化するというユニークな発想と、客席からのスタート、面白く拝見しました。誰もが知っている「便器」というものをいやみなくキャラクター化し、舞台の進行を助けました。
 一つ一つの音楽の使い方もとても考えられたものでした。心を閉ざした人間に向かいあう事は、本当にエネルギーを必要とするものです。また、閉ざした人には真っすぐに生きている人が疎ましかったり、怖かったりするものです。それを段ボールを使い、囲われたひとつの世界を表現し、目の前のものと必死に互いに戦うことで笑いも生まれ、嘘のない芝居が表現されていたと思います。
 ただ、動きや声が制約された中、気持ちを伝えるには難しいところもあったと思います。もう少し自由になるといいですね。
 効果ですが、便所君の声と生声との掛け合いが、バランスが取れず少し残念でした。効果を担当した方も大変な中、本当に稽古を積まれたことと思いますが、部分的に便所君の生声があるとどんな風になるかと考えさせられました。いくつか埋まらない間が生まれたことが惜しまれます。
 チャンバラのシーンはとても訓練されたものでしたが、あの一本の棒の意味が一箇所しか生かされていないのがもったいない気がしました。
 しかしカーテンコールから次回公演案内まで、みなさんの、やり遂げた、すがすがしい顔が心良い舞台でした。



 (三重県)神戸高校
「桜井家の掟」 阿部 順 作


《生徒講評委員会》

 桜井家四人姉妹の次女・蘭が、初めて家に彼氏・光一を連れてくる日。一見チグハグな印象を与える蘭と光一を巡る騒動が繰り広げられる本作品は、随所にギャグをちりばめたコメディー色の強い劇に仕上がった。がそれだけでなく両親の離婚や親子の葛藤という現代社会が抱える問題をも明確に提示している。
 幕開き。家族の団らんの象徴である居間が細かなところまで配慮され精巧に作り込まれていたため、観客は桜井家の日常に自然に入り込むことができた。
 窓から見えるホリゾントの色が非常に美しく印象的であったほか、バイク音が近づいたり遠ざかったりする箇所など、照明・音響が巧みに用いられていた。堅物に思える光一の父の携帯電話の着信音にもギャップがあり面白みが感じられた。ただ、蘭の携帯電話の着信音については、光一の父と同じようにした方がよかったが、携帯電話にこだわらない蘭の大雑把な性格を上手く表現しているというものもあり、講評委員の中で意見が分かれた。
 会場全体が笑いに包まれていたことが印象的であった。人を笑わせることは難しい。脚本の読み込みが深く、自分たちの伝えたいポイントが明確であるからこそ、このような笑いを生み出すことができたのではないか。
 この劇では異性愛・親子愛・姉妹愛、そして家族愛とさまざまな愛のかたちが描かれていた。蘭と光一は互いに刺激し合って成長していき、四姉妹は両親を深く思うが故に離婚を容認した。夫婦という形は解消されても「掟」を介在した姉妹のつながりは続いていく。そもそもこの「掟」は桜井家の両親が残したものなのである。若かりし頃の両親のラブレターを読む場面では親子のつながりを再確認することができ、とてもあたたかい気持ちになった。
 「悩んで悩んでどうしようもなくなったら、最後は家族に相談する。そのために家族はある」という最も大切な掟は破られる結果となったが、自分たち四姉妹をこの世に生み出してくれた両親を一人の人間として認める中で、彼女たち自身も成長していく様子がうかがえた。
 桜井家解散パーティは一つの関係の終結と新しい関係の始まりを予感させるものであり、そこに悲壮感はない。今後の四姉妹がどのように「掟」と向きあっていくのか、また自分自身の家族のあり方や人のつながりについても考えさせる秀逸な作品に仕上がっていた。


《専門家・顧問審査員会》

 幕が上がり、すみずみまできちんと作り込まれた桜井家の居間が現れ、観客はすぐに桜井家の日常に入り込むことができました。居間の窓の外には庭木が見え、庭木への照明やホリゾントによって外の様子までよく表現されていました。音響のバイク音なども巧みに工夫がされていました。
 登場する四姉妹はとても個性が出ていて、姉妹間の関係性がよく表現されていました。出だしからの姉妹のユーモア溢れるやり取りに小道具が巧みに使われ、会場を笑いに包みました。そこから光一君の両親が登場し、おとなしく見える母親が実は強いという場面は、最も意外で面白いところですが、そこが思ったよりもさらっと流れてしまったのが惜しいと思いました。それは、始めから父親が愚かに描かれすぎて、夫に従う貞淑な妻という説得力に欠け、意外性が弱くなってしまったからではないでしょうか。しかし、両親の残した桜井家の掟、ラブレターを通して姉妹が親子・姉妹のつながりを感じていく過程はとてもよく伝わってきました。また、最後のシーンはもとの脚本では両親が窓の外から見守っているという設定だったのを、あえて両親の姿を見せず四姉妹の絆の深さを表そうとした演出は好評でした。たとえ両親は離婚をしても、桜井家の掟に、そして自分に、姉妹に両親の思いは受け継がれている、その絆を胸に姉妹が前向きにこれからの人生を歩んでいくこれからが心に浮かびました。観終わった後、温かい気持ちになった、すがすがしい気持ちになったという声がどこからも聞かれました。
 最後に、完成度が高いゆえに、さらに要求するならば「説得力」だと審査会では意見が出ました。今回の劇に登場する意外性のある人物を、いかに観客に違和感を持たせず納得させ、ストーリーに引き込むか。演劇はいうならば「ウソ」ですが、ウソっぽさで面白がらせるのではなく、「ウソ」っぽいを「ホント」と感じさせるところから生まれるおかしみ、感動に迫れるとよいと思います。
 本当に自分が親や姉妹をはじめ、いろいろな人の存在に包まれていることを感じられた素敵な作品でした。この劇に関わったすべての部員の力の結集あってこそ生み出されたものだと確信します。




 (愛知県)緑高校
「りんごの木の下で」 カメオカマミ 作


《生徒講評委員会》

 夏のある日、長女マホの彼氏が挨拶にやってくる。それを聞かされていない父は次女と自分の母親にからかわれ、長女の彼氏が妻の不倫相手だと勘違いしてしまう。
 まさに日本の伝統的な家屋を思わせる趣ある舞台は雰囲気をよく表していた。また扇風機等の小道具はどこにでもありそうな夏の日常を感じさせた。のれんの向こうに透けて見える樹木の存在が、奥行きのある空間をつくりだしていた。ただ、朝の場面でやや薄暗かったため月明かりに照らされているように見えたことが少し不自然であったという意見も出た。しかし、サスで時間経過と夕方のシーンを表現したのは秀逸であった。
 劇中で流れる音楽が全て"りんごの木の下で"という題名のもので、劇にも合っていたのはにくい演出だと思われた。またラジオのDJのアクセントの置き方や語尾の調子、流れていた音楽が実際のもののようで親しみを感じた。
 家族の言動に振り回される父の様子は彼の素直で思いこみの激しい性格をわかりやすく表していた。また全体を通して憎まれ役がおらず、家族から家族への愛を感じ、ほほえまいしいという印象を受けた。ただ、次女が父を騙そうと意図して会話しているのかが途中曖昧になる場面が少しあったので、混乱したという意見もあった。
 情報の伝え方が上手く、例えば、長女と彼氏が寄り添って座っているにも関わらず、父は彼を妻の不倫相手だと勘違いしている点などはよくできている。タイミングの食い違いや言葉足らずが原因で、父親が情報を取り違え誤解を増長させていく過程が、絶妙な間の取り方で表現されていた。ただやや間延びした部分もあったので、もう少しテンポよく展開させた方が全体として引き締まった作品に仕上がったのではないかという意見もあった。とはいうものの、全体として間で観客を笑わせていたのは豊富な練習量と役者の力量をうかがわせた。
 父と母が口にした「大事なものは胸の奥にしまっておく」という同じ台詞は二人が通じ合っていることを表現しており、このような二人が離婚するわけないという安心感を観客に与えた。初めは結婚に不安を抱いていた長女が、縁側でごく自然に寄り添う両親の姿を見てその不安を解消していく過程からも夫婦の深い愛の絆を感じた。
 決して消えてしまったわけではないが日常に埋没してしまった感情を、娘の彼氏の訪問を通して取り戻し愛を深めるという展開は夫婦の理想のかたちを提示しているとも思われた。見終わった後、ほんわかとしたあたたかさの残る作品であった。


《専門家・顧問審査員会》

 幕が上がり、まず大がかりなセットに圧倒される。昭和のノスタルジーを感じさせる純和風の家。手前に縁側と踏み石、中央の和室を囲むように三方に廊下があり、奥には紗の布を通して窓越しに庭木が見える。下手廊下手前には階段が見え、廊下脇にある明かりとりの障子に玄関へ出入りする人影が映るという凝った舞台だ。しかし、セットがていねいに作られているだけに、細かい不自然さが気になるという意見もあった。徹底するなら隅々までということだろう。
 時間の流れとともに移り変わる照明も見どころだった。夕日が部屋に差し込む場面では布の影がふすまに映って美しく感じられたが、特にそうする必要はなかったのではとの指摘もあった。
 この劇では、長女の恋人を妻の不倫相手と勘違いした父親の姿が、コメディータッチで描かれる。ところが、全体に受ける印象は決して明るくなく、日本人特有の間のあく台詞が多いせいか、コメディーの割にはテンポがゆっくり過ぎるとの意見もあった。また、次女が父親にけがをさせても誰も本気で叱らない、恋人が長女のケータイでなく家の電話に何度もかけてきた、家族の中での父親の地位が分かりにくい、次女と祖母が結託して父親をからかう理由など、それに至る背景の説明があればもっと納得できる芝居になったと思う。また、全体を通して、男性よりも女性優位に描かれていることも気にかかった。
 父親が妻に「愛しています」と告げる場面は女性ならやはり感動する。台詞もしっかり届き、笑いもしっかり取れていて、見終わったあとにはほのぼのとした温かい気持ちになれた。




 (富山県)富山中部高校
「保健室戦争 -コレハ誰ノ戦イナノカ-」 宇津川ジン 作


《生徒講評委員会》

 ある学校の夏の保健室。そこには絶対に入ってはいけないというついたてが置かれている。そのついたての中には教室には入れない風香がいた。その保健室に保健委員や生徒達、先生、はたまた校長先生までもが入れ替わり立ち替わり入ってくることによって話が展開していく。
 まずこの芝居はアドリブが多いというのが魅力の一つだ。すべてのギャグをアドリブにすることで二回目・三回目に見る人も楽しませる新鮮さがあった。
 舞台装置は見事に保健室を表していた。ついたてもそうだが、体重計や視力検査表・廊下のポスターなど、とても忠実に再現されていて、小道具の遮眼器やバットなどを上手に使用することでよりよい場の空気を作っていた。
 音響・照明に関しては、校長先生のアドリブ「ダバダ~ 」などの観客のわかりやすい表現をすることによって観客を引き込んだ。雷が鳴るシーンでは迫力のある音響と横からピカピカと光る照明によって、ついたての中にいる風香が浮き彫りになり何か出たのではないかと言う恐怖感を漂わせた。それぞれのことをふまえて、各役者の頭の柔軟性が輝く劇だと思い感動した。
 この劇では、保健室の先生が方言を使い、独特の雰囲気や役の感情の高ぶりを表現していた。他の役者も、感情が高ぶったときに方言を効果的に使っていたが、バランスに違和感があると言う意見もあった。
台本自体に伏線があり、例えばカサブタを、「心の傷も薬ではなく自分で治すしかない」ということを伝えるために使っていた。また、保健の先生が保健室を『戦争』と表したのにも、保健室にけがでばたばたと担ぎ込まれる患者や、風香のように心のキズなど様々な目に見えないキズをおった人たちが集まることから『戦争』と言ったのが分かる。
 保健委員は短冊を作り笹に飾り付けるという作業をしていた、そこに風香の手首に巻かれていた包帯をギャルの森川が笹にくくり「身代わり」と言った台詞がとても印象的で、その意味とは実はSOSを意味する白旗を表していたのではないかと言う意見に、高校生として共感できる。また、「誰が敵で誰が味方かがわからない」という台詞にあったように、風香の担任が彼女の味方として行動した事が逆に彼女をキズつけ、結果的に敵となってしまい、日頃の言動について考えさせられた。
 結局、目に見えない心の傷をおった風香が、手首の包帯を自らとることがきっかけとなって、登場人物が次々と自分のキズを見せる。劇の題名にもあるように「これは誰の戦争なのか?」については風香や先生などそれぞれが自分との戦いをしているというのを伝えたかったのではないかと思った。そして最後に保健の先生が笹に『世界平和』と言う短冊をかける場面では、「世界 = 一人の人間」で、心にキズをおった子達を見て、どうか心が健康で平和な自分を取り戻してほしいという願いを伝えたかったのだと思った。


《専門家・顧問審査員会》

 方言(富山弁)をつかって自分たちの日常を表現したのは良かった。保健室らしい装置、壁の掲示物、コミカルな校長先生、客席にむけるギャグ、つかみは良かった。
 芝居が好きで、自分たちの学校生活の中を描いていこう、でも、そんなに正面切って問題提起というのでもなく、今いるメンバーと顧問とが一緒になって、大好きな芝居に取り組んで、自分たちを表現していこうという雰囲気が感じられて好感が持てる。顧問の書いた作品を部員のみんなが一生懸命、そして楽しみながら演じる。この学校の普段の部活動の雰囲気が伝わってくるようだ。
 しかし、今年の作品で言うなら、もう一つ練り込みが足りなかったのではないだろうか。演出の視点というか…。創作は、脚本として書き上がった時点で終わりではなく、稽古の過程で、演出と演じる役者とによって整理され肉付けされ深められていく点で、既成より生き生きとしたものになるものだと考える。作者が産み出したホンであるが、それを演出と役者が育て、装置・音響・照明で装わせ、晴れの舞台に嫁にだす、創作脚本の素晴らしさだと思う。
 たとえば、登場人物それぞれの背景がもっと書き込まれたらドラマが生きてくる。特に衝立の陰にいる少女、重要なウエイトを占める彼女だが、なぜなのか、何をいいたいのかが見えてこない。また、サボりに来ているチャラい子と心が通じているのはなぜか、狂言のリストカット、その中のドラマが描かれていない。先生の描き方も、「保健の先生はわかっているいい先生、他の先生はわかっていない…」いい人と悪い人を図式化し並べているが、わかっていないとされる人にもその人の守るべきものがあるその厚みが欲しかった。審査員の教員の中からは、「保健室にいる子は病んでいる、教室にいる子はよい子」という型表現に引っかかる、保健室に来ることができる子はまだいいと言う声もあった。全体に、間口を広げすぎて焦点の絞り込みがぼけてしまっていた。あと、舞台上の位地取りの整合性が欲しかった。登退場で、花道から出て反対から入っていくと、保健室の出入り口は?と違和感があった。
 一つの芝居をチームで作るには、演出の視点と、全員が一つのベクトルを向いて創っていくことが大切だと改めて考え自戒した次第。
 開催県事務局本部として大変だった中、本当にお疲れ様でした。これからも、生徒と先生が一緒に創る作品を楽しみにしています。





全体講評


《生徒講評委員一同》

 どの劇も非常に力のこもった熱演で心が動かされ、感動のあまり泣き出してしまう委員や怒りをむき出しにする委員もいた。今大会全体を通して言えるのは、昔から変わらない「愛」や「命」といった普遍的なテーマに真正面から取り組んでいたことである。そして、それだけこうした普遍的なテーマが今なお、いや今日だからこそいっそう切実な問題であるということを再認識させられた。もちろん、だからといって、陳腐になったり、紋切り型になったりするわけではない。むしろ各校の個性や独創性が出ていたのが今大会の特徴であった。普遍的なテーマに新しい問題を盛り込み、観客を考えさせる優れた劇が揃っていたと感じた。今大会の傾向は、強いていえば、複雑な感情表現、元気と笑い、社会問題、セットへのこだわりなどが挙げられる。
◆複雑な感情表現
 表面に現れていた欲望と内に秘められた欲望、理想と現実に起こったこととのギャップ、上下や二者に引き裂かれるアンビバレントな感情を表現したもの、死を拒む気持ちと受け入れる気持ちの葛藤、なかなか素直になれない気持ちなど
◆元気と笑い
 頑張れという熱く前向きなエールが心底まで届いたもの、工夫されたユーモラスな動きでとにかく笑いを誘ったもの、恋をした人が持つエネルギーが感じられたもの、笑いの中に愛を表現していたものなど
◆社会問題
 いじめ、差別、不登校、携帯電話、リアル、自殺、親子関係、離婚、モンスターペアレント、ドメスティック・バイオレンス、認知症、就職難、農業、食糧問題、戦争など
◆セットへのこだわり
 大がかりなもの、生活感の溢れるもの、美しさが際立ったもの、エンターテイメントに徹したもの、巨大な便器、細部までリアルに作り込んだもの、仕掛けを仕込んだもの、象徴的なもの、色鮮やかなもの、生気に溢れたもの、自然を感じさせるもの、時代を感じさせるものなど
 どこの学校もすばらしく感動させられっぱなしの四日間だった。上演校に対する注文もいくつか出た。台本の読み込みや部員同士での話し合いの徹底、お客さんをもっと意識すること、セットや衣装へのこだわり、本筋を壊さないように配慮すること、滑舌や発声、間の取り方の問題など基本的な問題だった。これからの演劇にもこうした基礎というものが非常に大切であると感じた。しかし、最後には、演劇とは演技をすること自体が目的ではなく、その世界を皆で創り上げ、共有することが大切であるということが非常によく伝わってきた。有意義な大会であったという意見で一致した。上演校の皆様、お疲れ様でした。