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第64回中部日本高等学校演劇大会

各校別講評文

 講評文は、生徒講評委員会と専門家・顧問審査員会のそれぞれで話し合った内容をまとめたものですので、HPでは文章を書いた個人名は省略します。

いなべ総合学園 愛知啓成 華陽フロンティア 七尾東雲 若狭
池田 富山中部 勝山南・奥越明成 豊川
金沢錦丘 岐阜農林 刈谷東 呉羽
刈谷 桑名西



 (三重県)いなべ総合学園高校 
「3ん7かよし3年7組(仮)」 水谷 奈々枝 作


《生徒講評委員会》

 3年7組のクラス委員であるようこは、クラスメイトたちと共に廊下で体育祭の後片付けをしていた。代々優勝を手にしてきた3年7組だったが、今年は準優勝。体育祭を振り返りながら、応援旗やハチマキを「使う」「使わない」「わからない」と書かれたダンボール箱に分別していた。楽しくふざけ合いながら後片付けをしていたようこたちだったが、障害物リレーや練習の話になると、ようこの様子に変化が……。
 階段の手すりが見えたことで、舞台が二階の廊下であることが一目でわかった。消火栓やスピーカー、電気の操作を手元で行える飾り棚など、丁寧につくられた舞台装置だった。学級旗やオブジェなどもしっかりつくられていて、散らかった小道具によって体育祭の後であることがわかった。同じ体操服に少しずつアレンジを加えることで、より一人ひとりの個性を際立たせ、この劇を見やすいものにしていた。
 ところどころに笑いの要素を取り入れながら、女子高生の雰囲気や日常を表現できていた。階段の上り下りや階段下からの声のこもり具合がリアルに表現されていて、あたかもそこに階段があるかのようだった。窓からの日差しを徐々に夕焼けに変えていく照明は、時間経過を上手に表現していた。一度も暗転がなかったことも印象的だった。
 ようこは障害物リレーで転んでしまったことに負い目を感じ、自分に対するいらだちを、なかなか練習に来なかったあさみや室長の自覚の足りないかよに向ける。タオルを強く握り締めるしぐさや応援旗を床にたたきつける動作がようこのいらだちや悔しさをよく表していた。ようこは上手にひとりでいることが多く、ようことクラスメイトの心の距離を印象付けていた。
 タイトルにある(仮)は、うわべだけの「なかよし」の関係を表しているのではないだろうか。また、舞台中央の箱に書かれた「わからない」という言葉に対しては、進路を含め将来のことがわからないということ、自分だけでは解決できず、うわべだけでなく、騎馬戦のように本音をぶつけられる仲間の存在が必要であるということ、中山先生の「そのときに出来る一番のことをやれ」という言葉から、一度に全ての決断を下す必要はなく、自分が今決められることから決めていけばよいということなどを表しているという解釈が挙げられた。いずれにせよ、等身大の高校生の迷いが描かれており、非常に共感や感情移入のしやすい内容だった。


《専門家・顧問審査員会》

 まず学校の2階の廊下という場所と「わからない」箱がまん中にあるという初期設定が実に良く考えられていました。中間的な領域がそれぞれの出演者の心を写し出していました。
 高校生として判断できない未文化なものはまん中の箱に入れられ、結論づけずに終わらせる。終わり方も良く書かれています。只、テンポがもう少しあれば良いと思いました。テンポが出ない為にその間に生まれる空間が埋められず、人物が活きていない場面もありました。自分が何のためにその場で活きているのかを表現し、そのための行動を考えて空いてしまった場をうめていく作業が少し足りなかったかもしれません。この作業こそが一番重要なのです。地域の言葉、自分達が話している言葉をもっと取り入れる事で少し回避できたかもしれません。恋愛を取り入れる自体いいとは思いますが、もう少し他人とかかわる深さがほしかった。
 この作品が何にむかって進んでいるのかを一人一人がもう一度掴み直し、相手との言葉のキャッチボールを深めることができれば一層優れた作品になると思います。その時きっと様々な新しい工夫が生まれるはずです。階段の使い方が非常に良く考えられていたと思います。




 (愛知県)愛知啓成高校 
「オモイデサイクル」 和親 雅章 作


《生徒講評委員会》

 ある小学校の先生タカヒロは中3の時、同級生のヨウヘイとともに同じく同級生のマユと出会う。そして楽しい日々を過ごすが、ある日、彼女が倒れてしまう。実は、彼女は余命3ヶ月だったのだ・・・
 まず演技については、小学生のはじけるような動きが子供らしさを表現していて印象的だった。高い音にもかかわらず聞き取りやすいのが良かった。ヨウヘイのキレのある動きがとても面白く、見ている人間を引き込む要素を持っていた。
 そして演出について、アクティブなヨウヘイを支える実直なタカヒロ、そして気弱なマユというそれぞれの個性のバランスが良くとても見やすいキャラクターだったと思う。印象的なシーンはマユの夢に出てくるタカヒロとヨウヘイのシーンで、花道の上手・下手に別れてその距離感がそのまま心の距離となっているところがとても心を打ち苦しい気持ちになった。題名である『オモイデサイクル』とは、過去の思い出がいつまでも思い起こされるという意味と、一年を通して季節がめぐりながら成長していくという意味が掛かっているのではないだろうか。
 また舞台装置に関して、保健室に飾ってある花を変えることで季節の移り変わりをうまく表現していた。また、保健室ではイスだったものが、病室ではベッドになるというような活用をしていて、面白い作りだなと思ったが、シーツをしっかりかぶせ、同じものだと気づかせないような工夫をすると更に良いというような意見も出た。保健室のセットが細かかったのに対し、病室のセットがベッドのみという点に関しては、「マユが一人ぼっちだ」ということを表しているのではないかと感じた。
 照明に関しては、ホリゾント幕の色が夕焼けの色をきれいに表していて、とても雰囲気が出ていた。ピンでアクティングエリアを作りとても見やすかった反面、手紙を読むシーンでの場所がはっきりしていないので、場面がわかりづらいという意見も出た。音響のフェードインが上手く芝居の雰囲気を壊さずとても見やすい音響だった。ただラストの歌の音量をもう少し上げたほうが、感動を誘えるというような意見もあった。
 全体を通して、高校生である私たちが共感できるところが多くあった。中でもタカヒロのことばや想いに強く打たれ、自分は涙を流してしまった。この劇の世界にぐいぐいと引き込まれた。


《専門家・顧問審査員会》

 舞台下手側、全体の3分の2が保健室で、室内には必要最低限の装置となる机、椅子、棚とベッドが置かれている。劇中、花道へのサス転換でベッドと椅子のみが残され病室へと転換される。バック幕はホリゾントを使用。
 物語は小学校教師になったばかりの新米男性教師が、中学時代に教職を選ぶキッカケとなった8年前の出来事を回想しながら、春夏秋と季節を巡り、それぞれの季節とリンクさせた昔の思い出をメインに進行する。
 冒頭、センターサスのモノローグから始まり、メインの回想劇となり、季節が移るごとに舞台前のサスまたはエリア内でのモノローグを繰り返す構成はシンプルで解りやすい。芝居のテンポは良く、コミカルな場面は非常に良い。
 下手側に舞台美術があるのでアクティングエリアが下手に絞られ過ぎてバランスが悪い。劇中劇を上手にするか、現在の芝居エリアを上手のみにすれば良いだろう。
 花道は舞台上とは異質な空間なので、夢のシーンのみに使用するのが無難である。
 暗転は総じて長く、出来るだけ短くするよう心掛けたい。暗転の構成は、音楽あり、無音、効果音(蝉時雨・雨音)あり、と統一感がないので、全て音楽処理に統一したい。季節感を出すための蝉の声や雨音が転換後早々にフェードアウトすると違和感が強く、効果音が逆効果となってしまう。
 音響操作にMDを使用する時は、必ず編集を施したい。CDからMDへの録音時に、曲頭に1〜2秒の無音部分が挿入されるので、音響効果の立ち上がりが遅れてしまう。音量も小さめなので、必ず全ての音楽と効果音のレベルチェックを試み、台詞が終わった後は音量を上げ、より効果的に音楽を煽りたい。
 照明は思いのほかシーリングのハレーションが激しく、ホリゾントを使用するなら地明かりをベースとし、シーリングは顔当てのフォローくらいに抑えなければ、ホリゾントが白ボケするばかりか、色ムラが出来てしまう。
 この作品では時間経過や季節感を出すのにホリゾントを使用する必要も薄く、暗転を多用するので大黒の使用をお薦めしたい。



 (岐阜県)華陽フロンティア高校
「ぼくらのこえを」 光村 圭祐 作


《生徒講評委員会》

 舞台は定時制高校の保健室。ここにはさまざまな事情を持った生徒たちが訪れる。母親が病気のため退学することを検討している良也と明日香の兄弟、小学生の頃から母親のご飯をまともに食べたことのない輝、輝の一番弟子奈菜美、友達が明日香しかいない杏子…。そんな彼らの事情を知らず、厳しい言葉を掛ける教師の石神、優しく見守っている保健教師丸山、広報の取材で訪れた進。これらのメンバーが輝と明日香の誕生日をきっかけに一人ひとりの道を進みだす。
 この劇で伝えたかったことは、タイトルにもあるように、「僕らの声を聞いてほしい」というものである。見た目の派手さからか、素直になれないからか、保健室に集う彼らの声は大人たちに届かない。それでも聞いてほしい、そんな彼らの目に見えない葛藤が、仲間とのやり取りや教師たちとの対立・告白から伝わってくる。
 劇のキーとなるのは、トランプのジョーカーだ。劇の始めのやりとりで、ジョーカーが無くなっている場面が出てくる。それを劇の終わりに教師の石神が保健室で発見する。この時傍にいた丸山が発した「なんかさ、あいつらみたい」という台詞から、ジョーカーが生徒たちを表していると気づかされる。そこで、ジョーカーの紛失が生徒の声が届いていない状況を表し、それが発見されたことによって、生徒たちの声が届くようになってきたということを暗示していると解釈できる。また、ゲームの状況によって、強くも弱くもなるジョーカーが、強く見せているが弱い部分も隠し持っているという生徒たちを表しているとも考えられる。
 舞台演出ではとにかくリアリティーを追求していると感じられた。舞台となる保健室は、視力検査表、よごし、ポスターといった工夫によって、一目見て保健室とわかるリアルな装置となっている。登場人物のせりふの掛け合いも自然で、実際の高校生活を見ているようだった。特に良也は台詞が客席に届かない場面もあったものの、しぐさや台詞まわしが非常に自然だった。途中あった長い間の取り方については賛否両論であった。また、音響で放課後の学校特有の騒がしさがうまく出ていた。
 「僕らの声を聞いてほしい」という思いは、声を聞いてもらえない、聞こうとしてくれない大人の姿勢に対する強い怒りや反発にもとづいていると感じられる劇だった。私たちはそこに強い共感をおぼえた。


《専門家・顧問審査員会》

 日本の現代演劇には主流になるスタイルの大きな変わり目があった。持論では新劇〜アングラ〜80年代終末感演劇〜現代口語演劇〜ポストドラマ演劇となる。昨今では物語らない演劇(ポストドラマ)が台頭しはじめその地位を獲得しつつある。詳しく解説する余裕はないので省略するが、「ぼくらのこえを」は現代口語演劇のスタイルが貫かれ、成功した作品と云える。現代口語演劇のスタイルのひとつにリアルな対話構成が挙げられる。この作品は、保健室を訪れる人びとの声を丁寧に拾い上げていく。そこに精緻に計算されたドラマが忍ばせてある。幕開きと幕引きの、人物を違えてのほぼ同一の対話で問題提起がなされ、なくなったジョーカーのトランプ札が、ここを訪れる人びとを象徴的に浮かび上がらせ、希望のシンボルと両義性を見せる。誠に見事な作劇術という他はない。
 演技者たちも脚本の要請によく応えて抑制の効いた演技が効果を上げた。
 惜しいのは会場のサイズである。審査員は客席の中段辺りでの観劇であったのでせりふを聞き取るのに問題は感じなかったが、おそらく最後列や二階席では厳しい部分もあっただろう。
 ならば声量をあげればよいだろうとの意見も想像できるが、何しろテーマは「ぼくらのこえ」である。大きくすれば効果が上がるというものではない。シェルターのように設定された保健室ゆえに、小さき声にこそ価値が求められるだろう。正面向きのよく響く声ではこの世界は切り取れない。
 会場の大きさを知りながら、この演技スタイルを選択したとすれば、そのギリギリの選択は静かな抵抗として称賛に値する。と、私は考える。たくさんの矛盾に引き裂かれて尚、きらりと光る輝きが、この舞台の余韻として残った。
 高校演劇の正しいスタイルというものは存在しないので、回を重ねる毎にそのスタイルも試行錯誤を重ね、更新されていくのだろう。



 (石川県)七尾東雲高校
「戦場のピクニック」 フェルナンド・アラバール 作


《生徒講評委員会》

 ザポはひとり、戦場にいた。隊長をはじめとする仲間は全員戦死してしまった。ある日、ザポの両親が戦場に『ピクニック』をしに来る。驚き、帰るように説得するザポに、両親は『これくらいの戦争、遊びみたいなもんだ』と言って相手にしない。そんな両親にザポもあきらめ三人で、レコードをかけて楽しく食事を始めた。しかし、その様子を敵兵のゼポが見ていて、ザポに捕虜にされてしまう。
 舞台は塹壕(ざんごう)。銃弾が飛びかう戦場。いきなりの銃声と爆弾をあらわしたホリゾント幕に映る楕円にはすごく迫力があった。十字架が真っ直ぐ立っているものだけでなく、少し斜めにささっているものもあり、リアリティがあった。また、小道具の黒電話やイス代わりにしていた箱、古い型のカメラやレコードも本物のように細かく作りこんであった。
 ザポの父親、母親の話し方が洋画の吹き替えのようで、外国の雰囲気がうまく表現されていた。また、テンポが良く聞き取りやすく、勢いがあったため、内容が難しかったにもかかわらず、役者の演技力もあいまって観客を劇に引き込んでいた。迫力のある銃声や爆発音で戦争の恐怖を感じたが、一切戦争に恐怖を感じていない登場人物や、味方の負傷兵を多く運べば自分の手柄になる衛生兵などに、奇妙な違和感を覚えた。
 衣装については、衛生兵の軍服には汚しが入っていたが、ザポとゼポの軍服には汚しが入っていなかった。これは戦争に積極的か消極的かという意欲の差でなかったのかという意見があった。
 ザポやゼポは「自分がなぜ戦場にいて戦っているのか」「なぜお互いが敵なのか」何もわからずにただ上司の命令だけを聞いて戦っている。登場人物全員が戦争がどういうものなのか『わかっているつもりでわかっていない』。これはたとえば震災にも通じているのかもしれないという意見があった。私たちは震災のことをわかっているつもりだが、テレビのニュースでやっているほんの一部のことしか知らない。戦争も震災も決して私たちからかけ離れたものではなくて、明日、急に起こる可能性もある。
 ラストシーンではレコードをかけて、楽しそうにダンスを踊る四人の陽気な空間から、電話の音、爆発音、銃声、そして突然ゆっくり倒れる四人。そして、すぐにその遺体を回収にきた味方の衛生兵。この急展開は、本当に衝撃的で、恐怖を強く感じた。
 この劇ではテーマが台詞に一切出てこない。そういう意味では、決してわかりやすい劇ではなかったが、戦争に対する痛烈な風刺などが多く含まれており、非常に考えさせてくれる劇だった。


《専門家・顧問審査員会》

 40年以上も前に世の中に出た不条理劇の名作に取り組もうと思ったのは、3月11日の震災であった。筋道が通らない事、道理に合わない事を不条理というなら、一瞬で全てを失った人々にとってこれ以上の不条理は無い。先の震災に非常に強い衝撃を受け、今の自分たちに出来る事を真剣に考えた皆さんのまじめな想いがそのまま表れた真面目な舞台に仕上がっていた。ただ惜しいのは、皆さんの真面目さが、この不条理劇をやるにあたり少し裏目に出てしまっことであろう。ナンセンスな笑いであればある程に、その後にふっと感じる恐怖が生きてくる。人間の愚かしさへの痛烈な批判を浮き立たせるためには、もっと大胆な演出が必要であったかもしれない。
 舞台は戦場。塹壕で兵士が一人戦闘に怯えている。そこへ兵士の両親がピクニックをしにやって来たのである。ありえないことがおかしくも続いていき、敵の兵士が現れ捕虜にしてしまう。しかし、敵も味方も戦いが無意味であると理解し、戦争を止めるなんて簡単な事だと気付いた時、爆撃により全員死んでしまう。愚かな戦争を止められない人間の姿は、手に負えない原子力を手にしてしまいそれを手放すことができない現代の人間の愚かしさにも通じる普遍的な真実である。
 劇場の床に合わせて作った塹壕や十字架などの装置が幕あきと共に劇の世界へと引きずり込んだ。小道具も手を抜かず細部まで丁寧に作りこまれていて見事であった。ピクニックのセットや蓄音器は出すべきだった。衣装はもう一工夫して欲しいところだ。敵味方の兵士の衣装の違いや、母親の衣装と鬘が中途半端であった。しかし、役者は声量、発声ともに十分で、会話のテンポも良く、練習の跡がうかがえた。親子と同年代の兵士の違い、兵士と衛生兵の雰囲気の違いも良く出されていた。父親役は非常に良く作りこんでいて、舞台を引き締めていた。高校生が中年の役をやるのは難しいが、劇の雰囲気に合った人物像を良く表現していたと思う。他の役者も不条理特有の奇妙な雰囲気を壊すことなく存在し、とくに出ずっぱりの3人と捕虜になる兵士の力量がなければ、最後まで楽しんで観る事は出来なかったであろう。



 (福井県)若狭高校
「アレから、逃げよ」 壽美 雄太 作


《生徒講評委員会》

 圭祐、桃子、ゆりなという、家族とうまくいってないことに対しての不満を持った三人が、怪しげな人物の管理する公民館に避難してくる。それぞれの抱え込んでいる苦しみを暴露しあっていく中で、仮の幸せな家族をつくろうとするが……。
 タイトルは『アレから、逃げよ』。公民館に逃げ込んできた三人は何から逃げてきたのか? 鍵となるのは『アレ』という言葉。これは『現実』、『家族』などいろんな意味を含んでいて、様々な考えをさせられるものだった。
 登場人物が抱える問題が、DVや、家族内での疎外、過保護による束縛と、最近耳にする問題なので共感しやすかった。また、ほかの高校がギャグのようなもので笑わせるのが多かった中、本作ではシュールな笑いを誘うものが多かったので、異彩を放つという意味でも着眼点が素晴らしかったと思う。
 少ない装置の中で、1つのタライでも雨受けやギャグだけでなく、風呂桶やテーブルとして使われるなど、様々なことに使用されていて感心した。逆に、バケツに関しては、使用される場面が見られなかったので少し残念に感じた。しかし、「倒れていたのは、受け止めることを忘れた登場人物たちを比喩しているのではないか?」との意見もあり、さまざまな解釈ができたと思う。
 演技面では、「全体的に間やテンポが重視されており、話運びがとても素晴らしかった」との意見があった。また、音響とも連携し、窓を開けた時や、早送りなど、音とのタイミングが合っていたので、生活音の一部のように感じ取れた。三人が過去を語るシーンでは、語る人物を真ん中に出し、その他はシルエットでその人物の家族を演じるという演出が、照明効果だけでなく、彼らの『逃げ出したい』という気持ちを強調し、家族の気まずさを引き立てており、とても分かり易かったと思った。幸せな家族を演じるシーンでは、ループする日常で三人が回を重ねるごとに、会話や行動が簡易的になっていく過程が面白く、幸せを求めているはずが、むしろ理想から離れていくところに皮肉を感じた。テレビの砂嵐や雨で視界の限られた外の景色が、「死んでしまった後なので、外界から閉鎖された空間をあらわしているのではないか?」「家族の未来が見えないことを表しているのではないか?」など多様な解釈を生み出していた。
 「管理人は何者なのか?」「なぜ公民館なのか?」という疑問は少し残りはしたが、様々なところで伏線が多く張られ、つながりを見ることができ、脚本の完成度をうまく発揮できた劇だった。


《専門家・顧問審査員会》

 まず冒頭から驚かされた。この作品は現役高校生が書いているはずなのに、ストーリーテラーである「管理人」は吉本隆明の著作の紹介を行い、その後「8時だヨ!全員集合」の話をする。この作品において重要な位置を占める「家族」と「金ダライ」を絡めてさらっと語らせるところがにくい。劇中の「圭佑」が脚本を書き、演出をして自らも演じるという三役をこなしていたが、「圭佑」からは家族に大切にされない「おじさんの悲哀」がにじみ出ていたように感じられ、審査員からはよく頑張っていたという評価の声が上がった。
 青いホリゾントに映し出されるシルエットは美しく、うまく表現できていた。舞台上に転がるバケツの新しさが気になったり、役者の台詞が聞き取りにくかったりするところもあったが、全体的に綺麗な舞台だった。音響は雨などの水音とテレビの砂嵐がメインであり、途中に入る早回しの音に唐突な印象を受けたが、もっと笑いにつなげる部分を増やすなどもう少し劇に遊びの部分が入れられれば、早回しの音も違和感なく聞けたのではないだろうか。
 家族の姿を描くにあたり、金ダライを伏せてテーブル代わりに使うのはある程度想定内だったが、風呂釜として使ったのは意表を突かれた。そこに役者がちょこんと入る画も面白かった。擬似家族のシーンは何度も何度も繰り返され、それが説得力を生んでいた。シーンとシーンの間は砂嵐のノイズ音と水音でテンポよく切り替わっており、演出の構成力を感じられた。
 劇中の三人はそれぞれの問題を自覚したにもかかわらず、結局解決させることができず終わってしまったのは残念だが、それが自力ではどうにもならない問題も存在する今の世相を反映しているようにも思えた。この脚本は平成23年1月に噴火した鹿児島の新燃岳のニュースから着想を得たそうだが、逃げるか逃げないかの選択をする前に奪われた命があるなか、生きている自分たちは眼前の問題から逃げてはいけないのだと強く感じさせる作品であった。




 (岐阜県)池田高校
「はつ恋 〜私と焼肉と怪獣と〜」 池田高校演劇部 作


《生徒講評委員会》

 女子空手部のアイドル「安藤ハルカ」。彼女に恋する主人公「櫻井カズキ」は、自分一人の力では告白の決心がつかないと、友人の「森田ユウスケ」に協力を仰ぐ。そこでユウスケは自分の楽しみとカズキの為に合コンを計画するが……。多彩なキャラで繰り広げられるドタバタラブコメディだった。
 まず、プロジェクターを有効に活用していた。幕開けで、いきなり劇中映画「大怪獣イゲラ」のエンドロールをホリゾント幕に映し出したり、合同コンパの人物紹介に使ったりしているところが印象的であった。この劇は、映画をもとにした怪獣との戦いという空想の世界と、合コンなどが行われる現実の世界が同時進行しながらリンクしているところが新鮮で面白い。
 この作品の魅力的な所は、コミカルでテンポが良いところである。空手部が大きく関連してくることもあり、動きにキレがあり練習を重ねてきたのがわかった。そのアクションに合わせる音響効果も絶妙で、役者とスタッフの連携が取れていたこともテンポを良くしていた。
 舞台は抽象的で、上手にある箱を動かすことで、場面が変わったことがわかりやすくて良い。ほかにも役者の服の配色を良く考えていて、並んでいるととても綺麗で見やすかった。ケコミのモスグリーンもホリゾント幕の色とマッチしていて、細かいところまで考えてこだわっているのが伝わってきた。
 ところで、題名にもある「怪獣」は何を表しているのだろうか? 様々なものとして捉えることができるが、自分自身の進む道に出てくる"障害"のことを指していたと考えた。また、カズキの中にある"甘え"や"将来への不安"が怪獣を作り出しているのでは? と言う意見も多かった。劇中映画に登場する牛らしい精霊「カルビちゃん」は、カズキの「障害から逃げてしまいたい」「怪獣に立ち向かえるか」といった不安要素から生まれた存在にみえる。告白できない自分、誰かを守りたい自分を自ら後押しするために、あの空想の世界が生まれたのかもしれない。
 カズキには大切にしているものがある。友情や恋愛、家族への愛などだ。それを「怪獣」から守りたいという気持ちがよく伝わってきた。一方、ヒロインのハルカも、自分を必要とされる存在になりたい と強く願い、最終的にはカズキとともに「怪獣」に立ち向かっていった。怪獣への宣戦布告は、自分の中にいる「怪獣」に対抗するための叫びとなって、カズキとハルカの新しい一歩になったと願いたい。
 なにより役者達が楽しそうに演じていて、非常に目が離せない作品であった。自分たちもやりたいという声があがった。


《専門家・顧問審査員会》

 一見、古風ともとれるタイトル「はつ恋」(私はツルゲーネフを想起しましたが…全然違った!)の後に続く「焼肉」に「怪獣」。幕が上がってみればホリ幕に映し出されるのは映画のエンドロール。いったいこれから何が始まるのかとワクワクさせ、観客を引きつけるオープニングだ。装置を抽象にすることにより、転換のムダを省きスピーディーに展開するストーリー。現実と映画のシーンを交差させていき、最後にはオーバーラップする手法であったが、混乱することなく、テンポ良く二つのエピソードが組み合わさっていった。音響・照明のタイミングも本当によく練習されていると感じた。怪獣が登場するシーンのホリの色は絶妙であったし、60、70年代のロックを効果的に使っていた。上演時間に対してのセリフの量が結構多いのだが、発声・滑舌練習の積み重ねで走りすぎないようにと意識されていたと思う。また、たとえば合コンの場面では役者一人一人の衣装の色にも気を配ってあり、男女分かれて座っているだけでも舞台が楽しく華やいで見えた。
 しかし稽古をしっかりと重ねてゆくことで「慣れ」てしまい、よい意味での意外性や緊張感が薄れていってしまった、という見方もできる。後半になるにつれ、その小気味よいテンポに「慣らされ」てゆき、人々が怪獣に立ち向かい、あるいは逃げまどう場面は、言ってみればクライマックスであるのに、ややもすると傍観しているような感覚に陥ってしまった。
 さて、「怪獣」とは何であったのか?カズキと響子の父親、日本に古来より住まうカミ、映画の中の虚構?自分からは破壊や攻撃をしないのに、人々が勝手におびえる存在という意味では、カズキたち若者の、漠然とした未来への不安という解釈もできなくはないが、劇中のヒントが少なく、その解釈を丸ごと観客に委ねるのは難しかったかもしれない。
 とにかく、スタッフ・キャストともに一丸となって、心の底から芝居作りを楽しんでいると感じられる舞台であった。池田高校の皆さん、お疲れ様でした。




 (富山県)富山中部高校
「我歴」 宇津川 ジン 作


《生徒講評委員会》

 小さいころに父親を亡くし母親が出て行ってしまった一雄。そんな時、朝顔の写真を撮っている一人の女性に出会い、「プロのカメラマンになったらそのカメラをもらう」という約束をする。やがてプロのカメラマンとなりカメラを譲り受けた一雄。カメラは様々な一雄の思い出を、記録していった。一雄のカメラに住む小人のネガとポジは、写真を現像しながら一雄の思い出、つまり『我歴』を振り返っていく。
 このストーリーを通して、「つながる」がキーワードのひとつに感じられた。カメラは女性から一雄へ、そして一雄の孫である瞳へと受け継がれていく。ここから、誰かにとっての宝物は、その人がいなくなっても別の誰かへと受け継がれていくことがシンプルに伝わってきて、「つながり」を見ることが出来た。特に最後のシーンでは成長した瞳がカメラを使っていることや、「あたしの目」という一雄と同じ言葉を言っていることでつながりを感じた。
 題名でもある『我歴』から瓦礫をイメージした人が多かった。瓦礫は大勢の人にとっては邪魔なもので、何とかして片付けてしまいたいものだ。けれど建物であった瓦礫にはそこにいた人々の想いがつまっていて、その人たちにとってはかけがえのない物である。これは一雄にとってのカメラともつながり、3.11によってもたらされた夥しい量の瓦礫ともつながる。また、ポジとネガの白い服は3.11の震災を踏まえて防護服を意識したのではないかという意見も出た。
 一雄がアナログのカメラにこだわっていたのは、その時感じたものを、そのまま写真に残せるからではないだろうか。デジタルカメラは自分の見たままではなく、風景を加工したり、撮り損なったらすぐに消去できてしまう。一雄は忘れたい嫌な過去という自分の歴史も、フィルムに残すことですべて受け入れようとしていたのだろう。だから、一雄はカメラを「自分の目」と表現したと考えられる。
 一雄の演技では白髪のある頭を帽子で隠すことで、老人と若いころとの切り替えがスムーズに出来ていた。また老人のゆっくりとした動きで出来る間をじっくりと使えていることは、練習の多さを感じることができた。海や夜明けのシーンではホリゾントが効果的に使われていて、夜中から明け方への色の変化が自然で綺麗だった。場面転換はネガとポジのかけあいとの接続が大胆に行われていた。
 受け継ぐことの大切さを考えさせられる劇だった。


《専門家・顧問審査員会》

 カメラと共に生きた一人の男の人生を、不思議な登場人物「ネガ」「ポジ」が現像する写真とともになぞる、という物語であった。カメラのフレームを意識したシンプルな舞台セットで、ノスタルジーにあふれた叙情的な美しい舞台であったと思う。ネガ・ポジの掛け合いからひとつのシーンが浮かび上がり、それが終わると再びネガ・ポジの掛け合いがはじまるという構成であった。場面の切り替えは暗転などで明確に分けず、シーンをオーバーラップさせる手法をとり、独特のやわらかくあたたかい雰囲気をかもし出すことに成功していたと思う。ただ、芝居としての約束事もう少し明快にした方が良かった、という意見もあった。オーバーラップでの場面転換にしても、照明の切り替えや役者の出入りをもっときっちり構造化して、「こうなったときはこういうときだ」ということをはっきりさせた方が、見せ方がすっきりしたのではないか。
 また、美しく印象的なシーンが心に残った。しかし、持ち主がいなくなって「ガレキ」になってしまったものも、持ち主にとっては自分の歴史=「我歴」であり、持ち主を憶えている人がいれば、ガレキではなくその人の我歴として受け継がれていく、という全体構造を示す台詞・シーンが少なかったことも気になった。ガレキについて、東日本大震災を想起させる話題が出るのも唐突であった。それよりも家族の絆に焦点を当てて、カメラが主人公から孫の瞳へ受け継がれるのであれば、そのカメラは主人公が母からもらったものだという物語にした方が全体のまとまりが出るのでは、と感じた。最後のシーンに少しだけ登場する瞳の友人についても、必要なのだろうかと感じた。瞳の母や姉、あるいは主人公にカメラを渡した女性が登場した方がよかったのではなかったか。来年度の全国総文でも富山県代表として上演されるとのことなので、更なる飛躍を期待したい。




 (愛知県)緑高校
「太陽のあたる場所」 堤 泰之 作


《生徒講評委員会》

 奥田家の母である照子が急死し、彼女の葬式には夫、2人の子供、弟夫婦やその娘と彼氏、親しかった人々が集まった。見知らぬ弔問客によって夫婦仲の様々な憶測が飛び交う中で、各人の照子への慕う気持ちや後悔の念が浮かび上がってくる。
 舞台装置が家の居間を忠実に再現しており、作りこみの細かさにとても圧倒された。だか、この家の玄関はどこにあるのかなど、この家の間取りが分からなかったという意見もあった。座卓を囲んで座った状態での演技が多かったが、顔の表情や声の調子、細かな演技で飽きずにみることができた。
 人の死が関わってくる内容だったが、野口のおかしなキャラクターやそれに対しての周りの反応によってのギャグ要素も多く、重くなりすぎなかった。ただ、服装や顔つきが似ていて年齢や人物関係や親子関係が分かりにくかった。
 音響は自然な入りで劇の雰囲気を壊さず内容に集中することができてよかった。照明も光の方向や色、量が細かく調節されていて時間をよく表していた。大黒幕によって、照明効果をよりきわだたせていた。
時系列を表したテロップについて、時間を文字にしたことで見逃してしまったり変化がわかりにくいなど、これはいらなかったのではないか、これはいるだろうと意見が分かれた。
 父忠義が葬式での挨拶文を読み上げていると感情が高まり、その後ウェディングドレスを着た照子が庭のひまわりをバックに出てくるところでは、講評委員の感動をさそった。そして、ひまわり=お母さん=太陽を連想させられた。
 タイトルに関しては、奥田家を支えていたあたりまえだったものとして太陽は母の照子のこと、あたる場所というのは奥田家の人々や弔問客たちを表しているのではないか。 太陽のあたる場所はあたたかい。この劇からはじわじわと滲み出てくるような人のあたたかさを感じたので、震災もある中で、失ってから分かるその人の存在の大きさや、家族や人と人の繋がりを考えさせられた。
 全体を通して、私達にとっては家族の大切さを改めて実感し、後悔する前に親孝行をしようと思わせる劇だった。


《専門家・顧問審査員会》

 常連校らしい、安定してしっかりと作られている作品で、安心して観ることができた。特にセットは、前作でもそうだったようだが、文句のつけようのない出来であった。ホームドラマとして最後まで飽かずに見せる力量にも感心した。母そして妻という大切な人の死、そしてその喪失感をいとおしく表現した良作であったと思う。
 ただ、堤氏の新作を今回やるにあたって、本来の上演予定時間が90分のものを60分に圧縮(が元の台本が70ページあったものを45ページに削減)したということもあって、例えば長男の博が母の作った最後の味噌汁を猫まんまにしてかっ込むシーンなど、もっと時間をかけられたならより心が震えたであろうシーンの表現が中途半端になったことは残念だった。また、時間の流れが複雑で観客の混乱を招くのではと、親切にテロップを映し出していたが、それほど複雑な流れではないし、かえって邪魔だったのではないかという意見が審査会であがった。役者の演技に関しては、正座がとても上手で、よく練習されている姿が伺えたが、30歳前後から60代に至るまでの登場人物を演じ切れたとは言えず、年齢的な違和感が最後まで残ってしまった。これはこのような台本を高校生が演じる上でのある意味では試練、いや不可能性でもあるのだが、それでは高校演劇は常にハイティーンの若者を登場人物にすればいいのか、というとそれではあまりにも寂しい。だからあえてこのような難しい舞台設定にチャレンジする気持ちは決して失わないで欲しい。
 もう一つ、もっと日本的情緒にこだわったらさらに良かったのではないか、例えば日本映画の巨匠である小津安二郎監督作品のように、言葉少なに、背中で見せたり、直接的台詞を避けることによりもっと大きな感動が得られたのではないか、という審査委員長の岩崎先生の指摘もここに記しておく。参考にしていただきたい。
 ラストの咲き誇るひまわりとウエディングドレス姿の母親は文句なく美しく、名場面として心に残った。良い劇を創り上げられた緑高校の奮闘に敬意を表したい。




 (福井県)勝山南・奥越明成高校
「今日もこんなに星が降る」 川村 信治 作


《生徒講評委員会》

 宇宙について調べている百合は、友達とオクエツ宇宙研究会を結成し、この会を同好会にしようと署名を集めるなどの努力をするが、結果は出ず、変人扱いをされる。それでもめげずに、美しい星空で有名な地元をPRするための企画を東京の旅行会社に持ち込む。ところが、百合は東京で行方をくらましてしまう。一方、二億年前のこの土地では、恐竜達は環境の変化に苦しみながら、厳しい生存競争を繰り返していた。そんな中、羽の生えた恐竜のククはみんなを救おうと、命をかけて山へ向かった。
 冒頭にも出てくるはやぶさのエピソードは、百合の母親だという意見と、主人公の百合自身だという意見があった。母親だという意見の方は、はやぶさが宇宙から大切なサンプルを持ち帰って消え去ったことと、百合の母親が百合を生んで命を落としたことや、死ぬ際に百合への贈り物を父親にたくしたことが重なっているのではないか。百合だという意見の方は、サンプルを採るために飛ばされたはやぶさが、一時期行方不明になり、サンプルを持って帰るのは不可能だと言われながら、研究者たちの努力によって地球に持って帰ることができ、努力が報われたことと、百合が目的の達成の為に向かった東京で行方不明になるが、後に小惑星が認められ、結果として成果を得ることが出来たという点で重なるのではないか。また、その両方にかかっているのではないかという意見も出た。
 恐竜の存在との関連性については、はやぶさの調査というものが太古の地球を調べるということなので、それは恐竜の生きた時代の地球を調べることに繋がるという意見や、環境の変化に苦しむ恐竜の姿が環境問題で苦しんでいる現在の我々と重なるのではないかという意見も出た。恐竜の存在については様々な見方ができ、作品の広がりを感じることが出来るのではないだろうか。
 これらの内容を効果的に伝えるための手法として、ミュージカルが用いられ、そのため、重要なことが印象的に心に届き、ストレートにメッセージを受け取ることが出来た。しかし、歌詞の内容が聞き取りにくいという意見もあったので、もっと歌詞に合った曲に出来たらよかったのではないか。
 伝わったことは、みんなで協力し、諦めずに努力をすれば、必ずいつかは結果は出るということである。わたしたちは、夢を失わず、努力していく勇気を受け取った。


《専門家・顧問審査員会》

 素朴ですがすがしい、夜空に小さな星たちが瞬いているような澄んだ舞台だった。
 宇宙や衛星に興味がある百合を主人公にしたメインストーリーに、2億年前の恐竜の進化のサブストーリーが、照明の変化と役者の動きだけで切り替えられて進んでいく。切り替えに違和感がないのは全員でよく練習してきたからだろう。一般の女子高生から比べると変わり者の百合と進化しているが故に変わり者扱いされるクク。理解されない何もできないという焦りに苦しむが、やがて仲間たちとのつながりから未来へと歩み始める。ここに「はやぶさ」が効果的に擬人化されて使われている。綾の呼びかけに答えて「はやぶさ」プロジェクトを語る百合のセリフは台本1ページ以上ある説明的文章なのだが、百合が「はやぶさ」に自身を重ねていき、自分がみんなに支えられていることを実感していくのが伝わってきて感動的であった。また、「はやぶさ」がカプセルを地球に放って消えていったのと野乃が最後の力を振り絞るように百合を生んでその姿を確認してから亡くなったというエピソードは、命と夢はつながっていくというメッセージを明確に伝えていた。
 脚本から顧問である作者の生徒たちに対する思いが感じられる。その思いを生徒たちがまっすぐに受け止めて舞台を作り上げている。拙い部分もたくさんある。演技の面では、会話の部分になると動きの堅さが見られた。セットでは木が良い分だけ岩の作り物感が目立ってしまった。照明では恐竜の場面でもっと工夫ができたのではないか。テーマとなる曲「星降る村に」を最初にも入れた方がミュージカルとしてまとまるのではないか。
 しかしそれらを超えて観客の心には大きな感動が生まれた。まっすぐに気持ちを伝えてくる舞台の一体感に観客が引き込まれていく。飾らない歌声が観ている者まで素直にする。商業演劇とは違う、高校演劇の良さを思い出させてくれる作品であった。
 思いはつながる、勝山南高校から奥越明成高校へ。高校再編を超えて演劇部の伝統が引き継がれていくであろうことを、私たちも信じます。




 (愛知県)豊川高校
「ちいさいタネ」 黒瀬 貴之 作


《生徒講評委員会》

 原爆によっては廃墟となった広島に住む4人の子供たち。たくさんの困難が彼らに降りかかるが、施設に入ることを拒み、子供だけで生きていこうとする。その中で百合が作り出す『ちいさいタネ』というお話が正一たちに希望を与える。しかし、3人は人生の意味を知らないまま死んでいき、ただ一人生き残った正一が希望のちいさいタネになって生きていくという話である。
 この劇を観て、私たちが考えさせられたのは、『生き残った人がどう生きていくか』ということである。正一は仲間の中で自分だけが生き残った罪悪感、そして原爆による差別に苦しみ、死にたいと願う。しかし、死んでしまった章たちの『死にたくなかった』『生きたい』という言葉に強く心を打たれ、生きていく決意をする。生き残った人は、復興のため、死んでしまった人の命を伝えていくために一生懸命生きなければいけないということが私たちの心に残った。このことは『勉強して頭のようなったやつがピカ落としたんや。父ちゃんや母ちゃんを殺したんや。』という印象に強く残った言葉とあわせて3.11のことに当てはまっていたと思う。
 舞台装置が見ただけで川の近くだとわかるセットで、被爆して枯れたと思われる木が印象的だった。後のシーンでは木から葉が生えていて、それは『復興』を意味していたのではないかと考えられる。
 衣装の汚しが戦争直後の様子をよく表していた。正一だけに汚しがなかったことから、『正一は夢をみていたのではないか』『正一はしばらくどこかに出かけていたのではないか』などと推測された。
 ホリゾントの色が時間を適切に表現していた。星の電球がだんだん明るくなっていくなどの工夫もなされていた。また、百合のお話の世界から現実世界に戻るときの照明・音響の切り替えがわかりやすく、嵐が来たときはタイミングが合っていてとても良かった。しかし、劇中のところどころに役者の顔がよく見えないシーンがありそれが残念だった。
 役者に演技力があり、少年や少女の純粋さがうまく表現されていた。舞台の使い方もうまく、広々と舞台全体を元気よく使っていた。方言にも違和感がなく、章のつきつけたナイフの震え、章が流されたときの正一の動きなど細かいところまで演技をしていた。観客を劇に引き込みとらえて離さない、完成度の高い劇だった。


《専門家・顧問審査員会》

 ストレートに心に響くいい舞台でした。3・11の悲しい現実という、時代が後押しする作品となりました(もちろん広島の原爆投下は風化してはいけない大事な出来事ですが)。
 純粋にその時代の広島で生きていかなければならなかった子どもたちが、そこに生きていました。「勉強して頭が良くなった人間がピカを落とした。」この言葉は現代の原発事故やオウム事件など様々な問題を思い起こさせ、人の胸に「何をなすべきか」をつきさす言葉となりました。後で聞きましたが、毎日9時間という稽古時間が出演者の動きの無駄を削り、良い意味で力のぬけた中身だけの存在を生み出していました。ここまできたのですから、毛布やナイフなど現代に結びつけるものを極力きらってほしいと思います。
 照明も夕方から夜へとその他共に創りだす呼吸が聞こえるものとなっていましたが、シーリングをやめてSSで処理しているので、両側に明かりがもれてしまったのが残念でした。もう少しSSの頭をあげてみてはいかがでしょうか。音響も心に響く、邪魔にならないものだったので、オルゴール曲をやめてピアノで押し通してみてはどうでしょうか。この大会にむけての皆さんが共に過ごした時間はこれからの人生にかけがいのないものになると思います。




 (石川県)金沢錦丘高校
「東へ・・・」 宮前 旅宇 with 錦丘高校演劇部 作


《生徒講評委員会》

 高校生の松部周と坂東克也は、先生の勧めで東大(ひがしだい)への合格を目指し、昼夜問わず寝る間も惜しんで日々勉強にはげんでいた。受験日が近づくにつれ、先生や母親の期待が、周にとって大きなプレッシャーとなり、次第に大きな不安を感じていく。それにつけこむように、3人の魔女たちが周の心を惑わしていく。
 この劇からは、難関校への受験を描くことを通して、大人のエゴや周りから受けるプレッシャーに負けず、それらと自分自身の中で戦って前に進んでいかなければならないのだという思いが伝えられている。シェイクスピア作の悲劇「マクベス」のストーリーを、学生にとって身近な問題である『受験』に置き換えることにより、高校生が話に入り込みやすい内容となった。
 3人の魔女を先生や母親が重複して演じることによって、魔女が周囲からの期待を表しているということ、また、周が前向きな考えをしたときに魔女が苦しんでいた様子から、周の頭の中を横切る邪念を具現化した存在であると感じた。
 劇中に出てきたいくつかの箱は、周りからの多くの期待であり、箱を積み上げるのは、他人からの期待が膨れ上がっていく様子を表している。積み上げられた箱を自らの手で倒し、再び積み上げることによって、新たな一歩を踏み出すことを暗示しているのではないだろうか。
 冒頭の、受験に向かっていく中で感じる不確かな未来に対する不安を、ドライアイスを使用して舞台全体に色を付けることで、幻想的で不気味な雰囲気を作り出して表現されていた。
 東に向かって手を伸ばしながらゆっくりと進んでいく周と克也以外の生徒数人が、一生懸命目標を掴み取ろうとしている受験生たちの努力の過程を表していると同時に、それを数回繰り返す中で、制服の変化で時間経過を表したり、どんどん追い詰められていく生徒たちの心情をも表していた。
 心情変化を大切にした劇であるため、心情を読み取る上で重要な表情を、より見やすくする照明の明るさにすると、いっそう話の展開がわかりやすくなるのではないだろうか。
 この劇のラストは、克也の妹である綾子が勉強に対して積極的な姿勢で終わっている。綾子が、周のように受験を「蹴落としあい」ではなく、「高めあい」と捉える姿をみて、自分がこれから受験に向かっていく中で、そのような姿勢を大切にしていきたいと感じた。


《専門家・顧問審査員会》

 実に良く書けている。マクベスを現代にアダプトし、王位の争いを受験戦争に見立て、受験中心の教育制度を風刺しつつ、教育のあり方と自分のための勉学とは何かを問う良い脚本に仕上がっている。
 舞台には上手奥に1間四方の白い高台があり、そこへと続く真っ白な階段が正面と下手側に設えられている。その他の空間には机ほどの白い立方体が4つ、椅子も白色の立方体で、キーとなる小道具も白く小さな立方体で表される。
 素晴らしいのは、3人の魔女を2人の教師と母親が演じることで、魔女の役割や目的も明確なものになっている。受験に対する重圧や、周囲の期待を白い箱で具現化し、それが積み重ねられていくことで、高まるプレッシャーを表現し、ついには自ら積み木を崩してしまう主人公が痛々しい。受験に失敗した主人公が、翌年の受験に向かい自分の意志で勉学を志し、自ら立方体を積み始めるラストは秀逸である。また、劇中の受験生たちが、もがきながら頂上を目指して進むパフォーマンスがとても良い。
 照明はエリアを重視し、常に仕切られた空間を作り、閉じ込められた受験生の閉塞感を表している。シーリングをとことん抑え、一見暗く感じるが、表情を捉えるのに支障はない。色遣いは生明かりベースで全編通した方が潔く、魔女の場面のみ色を着ければ良いだろう。ラストに階段の色を変えたのはとても良い。
 音楽は魔女の登場シーンのみに絞った方が効果が際立つので、音楽を使いたい場面は環境音に変更すれば良いだろう。
 役者の動きと、音響の挿入、照明変化の連携が少し悪いので、しっかりキッカケの打ち合わせをしてから劇場入りしたい。




 (愛知県)滝高校
「ざしきわらしのいるところ」 瀧 源作 作


《生徒講評委員会》

 舞台はとある町のざしきわらしを売りにしているホテル。そこには三人のざしきわらしが誰にもみられずに静かに暮らしていた。そこに家族旅行に訪れた一人の少女、ユイ。どうやらユイにはざしきわらしが見えているようだ…。
 このお芝居では、本来「見えない」はずのざしきわらしがユイには「見える」ということがキーポイントになっているが、それはユイがざしきわらしという見えないものを強く信じているからであろう。見えるものだけを信じるのではなく、見えないものを信じることはざしきわらしだけではなく、人の気持ちにも表れるのではないか。そのことは、ユイの母がユイの気持ちを信じていないからユイのことがわからない、信じるようになることでユイのことがわかるようになる、という変化にも感じることができた。
 また、掃除をしているおばあさんであるハルカにはざしきわらしという存在が見えているのだが、なぜ見えるのだろうか。「ハルカが信じるという気持ちを強く持っている」「ハルカは昔ざしきわらしと関係があった」など、多様な解釈が可能であり、想像力がかきたてられた。
 胸を打つ台詞も多数登場し、例えば従業員であるナツミの「見えない、カタチのないものですけど、そこにいると信じて接してあげれば、信じた通りにいてくれると思うんです」という言葉は、強烈に心に刺さった。母とユイが感情をぶつけ合う場面ではどちらの気持ちも分かり、共感できるものだった。
 さらに、登場人物が多いにもかかわらず、個性によって衣装が区別されていて、ホテルのロビーに沢山の人が一気に出てきても、混乱せずに見られた。場面転換の際、ホリゾント幕を青く染めた中で舞台装置を運び出す人の動きがまるで作業している従業員に感じられたり、シルエットが幻想的で劇空間の構築に一役買っていた。装置も非常に丁寧に作られており、吊り物や高低差をつけた段差があることで、空間が無駄なく使われていた。またその装置からこのホテルならではの雰囲気が感じられたという意見があった。
 ホテルのロビーでの従業員の接客からこのホテルの「お客様の笑顔が第一」という雰囲気がよく伝わってきた。その雰囲気そのままに心が温かくなる劇で、見終わった後にほっこりした気持ちになることができた。


《専門家・顧問審査員会》

 幕開きの照明と舞台美術の存在感が圧倒的だった。そこにシルエットで浮かぶ人影も神秘的な導入部として成功していた。吊り物のセットと融合した照明も立体的に空間を埋めており、滝高校の伝統的な総合力に驚かされた。
 この作品は地方都市のホテルが舞台である。座敷わらしが住んでいるらしいことが観光の目玉となっている。このホテルの従業員ナツミの奮闘と、ユイと三人の座敷わらしの触れあいを通して、ユイの家族の再生を予感させる。
 座敷わらしの存在が、ユイの居場所の不確かさと対比される仕掛けだ。人のやさしさを全面に配置した作劇は、受け入れやすい主張であった。しかし受け入れやすいということは、物語の起伏がいささか平坦であったとも云える。たくさんの人物が行き交うホテルのロビーであれば、もうひとつくらい別のエピソードを挿入できたのではないか。映画「グランドホテル」を引き合いに出せば、ホテルを舞台とするドラマは複数の人間模様を並行して描くことが定石となっている。確かに高校演劇には時間的制約があるので複数といっても限界があろうが、もうひとつエピソードを配置することで味わいが増したのではないか。
 もうひとつ気になる点は座敷わらしの来歴と活躍である。柳田國男や松谷みよ子の集めた民間伝承によれば、座敷わらし伝説の成立過程には飢饉で死んだ子ども説があるようだ。物で飽和する現代と、飢饉のあった過去を結ぶ線は、ユイと座敷わらしの出逢いに説得力をもたらさなかっただろうか。
 座敷わらしの居る家は栄え、いなくなれば衰えるという。そこに座敷わらしたちの逡巡が垣間見える。ホテル火災を寸前で食い止めるなどあれば、座敷わらしの来歴と相まって、物語が膨らんだのではないかと想像できる。
 いずれにせよ、このような点は、スタッフワークにおいても演技面においても、高い水準に達している滝高校だからできる注文である。質の高い舞台であったことは確かである。




 (岐阜県)岐阜農林高校
「掌 〜あした卒業式〜」 岐阜農林高校演劇部 作


《生徒講評委員会》

 あした卒業式のとある農業高校。きゅうり専攻の川上たち4人は『一緒に卒業する』と約束した明日香を夜の講堂で待つ。そこに川上たちや明日香の手のひらの心、『掌(たなごころ)』にお礼を言いに来たうしの精、ぶどうの精、きゅうりの精が現れる。けれどもその場には明日香がいない……。
 人の手は、生きているものを育てていくものであり、そして人と人とがつながれる部分でもある。こうした手というものを取り上げることで、命の大切さや、人とのつながりの大切さを強く訴えかけていた。動物や植物の命を自らの手で育てている農林高校だからこそ切実な思いを持って演じられた劇であったと思う。
 圧倒的な迫力で舞台に引き込まれ、感動したという意見が多かった。話の流れとしても明日香に対する友達の思いが多く描かれており、観ている人が明日香の行動の理由や一緒に卒業式を迎えたいという気持ちに共感しやすくなっているのではないかという意見があった。最後の明日香の生死は意見が分かれた。生きていると思う意見は「咲かない桜が咲いたことで約束が果たされたと連想させる」というもので、死んでしまっていると思う意見は「震災についてとても丁寧に描かれており、それが死を連想させる」というものであった。いずれにしろ明日香が戻ってきたという救いのある終わり方だったと考えられる。また、震災というタイムリーな話題が違和感無く描かれている脚本であったと思う。
 舞台装置、照明、音響のスタッフワークが非常に効果的だった。特に、ラストシーンにホリゾント幕で青空、雲、桜が表現されており、さらに桜の花びらが舞っていたところから、卒業式独特の春の幻想的な雰囲気を上手く表現できていた。また、明日香のメールの着信音として使用されていた『春よ、来い』という曲も明日香の心情を推測させるよい選曲だった。
 演技面では、きゅうりやうしの精をキャストが指先まで使って繊細に演じていたため、非現実的な存在であっても違和感がなかった。さらに、劇中劇で東北の祭りである「ねぶた」を扱うと同時に合戦の様子を表現していた殺陣も、迫力とまとまりがあり練習量の多さがうかがえた。
 演出などで繊細に表現されていた中に、伝えたい思いがストレートに胸に響く劇であった。


《専門家・顧問審査員会》

 人はその手で命を育てる。人は生きるために物を食べる。食物を育てる農業という営みはとても尊い営みであるはずだ。手をかけて物を作る事、手によって命を育てる事の大切さを失いかけている現代日本社会に対して、日々その手で命を紡ぎだしている農業高校の生徒だからこそ訴える事ができる真実がある。今の彼らにしか伝えられない想いが、ストレートに胸を打つ。このストレートさが実に心地よい。これは彼らの現実の手の記憶から作られた作品であり、3月11日の震災後に自分たちの手は一体何ができるのかを考え抜いた末生まれた作品である。
 舞台は卒業を明日に控えた体育館。同じキュウリ専攻生の仲間がともに卒業することを約束しながら果たせなかった友人と卒業式をするために忍び込む。だが友人は現れず、代わりに珍客が現れる。育ててもらった彼らの手にお礼を言いに現れたブドウと牛であった。そして、ついにキュウリが現れ、ぶつかりあいともに涙した日々が甦ってくる。農業高校に通う生徒たちの屈折した現実、しかし、育ててもらった生き物たちはその手のひらの温かさを知っていた。皆の心が一つになった文化祭の演舞は見事であった。だがこれが友人との最後の思い出になる。彼女は母親と生きて行くため生まれ故郷の東北の地に帰って行った。そして懸命に母親とキュウリ栽培に励んでいた。あの日の波は、彼女をキュウリの巻きひげでさえつかむ事ができない場所へつれ去ってしまったのだ。津波を予感させた一瞬のプロローグ。銀河鉄道が死者の魂を連れ帰ってくれるのではと予感させる効果音。挿入曲や劇中の歌、命の響きを聴かせる太鼓の音など無駄がない。そして桜の精が教えてくれたもう一つの手の使い方。桜は散り命をつなぐ。卒業して地に足をつけて歩むことこそが今の彼らに出来る唯一の事であり、それを祝福するラストの桜吹雪。予感させつつも前面に押し出さず絶妙なタイミングでラストへとつなげて行った脚本は非常に良く出来ていた。
 しかし、何よりも素晴らしかったのは舞台で演じている生徒たちのパワーであった。講評をするために舞台を観ることになると、どうしてもメモを取らなければならない。ふっと現実に引き戻され、頭で考えながら舞台を観ることになってしまうのであるが、後で講評文を書く破目になるにもかかわらずメモを取るのも忘れて見入ってしまった舞台に出会えた奇跡に感謝せずにはいられない。観終わった後何も言葉はいらなかった。舞台で演じている生徒のパワーがこれほどまでに伝わってくるのかと胸が熱くなった。そのパワーはあの瞬間にのみ爆発したものであったのかもしれない。この最後の舞台を見事にやりきった3年生の皆さん、本当にありがとう。そして1・2年生の皆さん、是非新たな感動を8月の全国大会で客席に届けて下さい。きっと皆さんならやりきってくれる。そう信じています。




 (愛知県)刈谷東高校
「手紙」 刈谷東高校演劇部 作


《生徒講評委員会》

 演劇部員の新美は、部屋に2通の手紙が届けられていることに気づく。差出人は学校に行けない2人の中学3年生。手紙のやり取りを繰り返すうちに、2人の葛藤が浮かび上がってくる。新美は2人を後押ししようと文字をつづっていくが……。
 台本構成は、手紙の文面だけで物語が進んでいく高校演劇ではあまり見られない特殊な芝居である。人と人との会話がないのも特徴的であった。また、刈谷東高生の体験している『不登校』という題材を中心に台本が構成されている。とてもメッセージ性の強い台本であり、見ていて胸が熱くなるものがあった。
 中央、上手、下手に黒いパネルが1枚ずつおかれ、刈谷東高校演劇部の部室、引きこもりの中学3年生岩田の部屋、人目が怖くて不登校生の萩原の部屋の3部屋が表現されている。岩田と萩原が高校へ通おうとするとき、部屋を表すパネルをそれぞれが自らの手で舞台上から片付けることで、2人が自分たちの障壁を破り、新たな一歩を踏み出したことが視覚的にも効果的に伝わってきた。
 岩田と萩原が葛藤する場面では、音響効果で椎名林檎さんの『ギプス』『罪と罰』がとても印象的に頭の中に残っている。あの曲は心の傷つきを強く表しているように思えた。音量をあえて大きくすることで二人が不登校から脱出したい、変わりたい、でも、変われないという葛藤の大きさを表せるという意見が出たが、一方で、音響が大きすぎるのではないかという意見も出た。役者の表情に表れていた大きな心の叫びを表現するのには音が割れるくらいがちょうどよいと個人的には考えた。
 手紙では、自分のことを他人のことのように書くことで自分を守っているかのように感じた。自分のことを友達のことのように偽って書くが、それを新美が受け止めて、新しい自分を促してくれるところがこの劇で手紙を使った理由ではないだろうか。
 ドラえもんの歌は、希望にあふれる前向きな歌だと思っていたが、この劇では重く、閉塞感の中で聴こえてくるので、驚かされた。だからこそ、ドラえもんはいない、人は変わらなければいけない、生きていかなければならないのだという言葉に心を打たれたのだと思う。
 この劇には現実にある問題に基づいたリアリティがあると感じた。たしかに、わたしたちは不登校生や引きこもりをしている人の気持ちをそのまま感じることはできない。しかし、この芝居を通して少しでも彼らの気持ちに近づけたのではないだろうか。そう思わせる、心を深くえぐるような劇だった。


《専門家・顧問審査員会》

 ゲームにはまってひきこもりになっている少年と、人目を気にして外に出られない少女。この2人の中学生と、たった一人になってしまった演劇部員の高校生との書簡のやり取りのみで劇が展開する。最初は互いに探り合いをしていたが、自分の置かれた状況を先輩や友人という他者に仮託しやりとりをする中で、2人が手紙を送っていた相手は自分よりはるかに大きな傷を抱えていたことを知り、2人は決断を下す。
 学校紹介では部員にも不登校経験がある旨が書かれていたこともあり、「これは実話なのだろうか?」と思わずにはいられないほど、リアリティのある芝居だった。生徒講評委員からも同じ質問があがっていたが、学校別講評の際に伺ったところ作品中に描かれた話は全て虚構ということであり、そういう点においては上演校の狙いどおりになったといえよう。
 BGMとして使用された曲は2曲のみで、どちらも同じアーティストの曲であった。無言劇による心理描写によく合っていた。曲が流れている間はパントマイムのみで劇が進み、手紙を受け取り動揺する心理を、照明などを一切触らずに表現できていたことは称賛の声が上がった。登場人物は最後まで直接会話をすることはなかったが、2人を演劇部に迎える高校生が最後に笑顔を浮かべることで、明るい気持ちで劇を見終えることができた。
 舞台構成はシンプルであったが、役者自身が劇中に行うセットはけが二人の葛藤を乗り越える過程と重なり、分かりやすく描き出されていたように感じた。
 当事者性の強い劇だが、だからこそ7分にも及ぶ長台詞が言葉に重みが生まれ、訴えかけるものがあったのではないだろうか。傷ついた者同士のやりとりで進むこの劇は、ときに鑑賞する側の心もヒリヒリさせられた。登場人物が語る内容も決して明るくはない。しかし、どの登場人物も前を向いて歩き出したことで、観客は希望を見出せたのではないだろうか。



 (富山県)呉羽高校
「モノ、申す」 呉羽高校放送・演劇部 作


《生徒講評委員会》

 「頑張れない」という欠点を持つ「真下ハジメ」は、テスト当日が訪れても、やる気が出ないままであった。しかし、彼の放り出したモノたち、「サッカーボール」「参考書」「ギター」「ポエム」は、彼にやる気を出させるため、試行錯誤する。
 ハジメは、シェイクスピアの言葉を、自分に都合よく解釈して、「頑張れないこと」という欠点は、神様から授かった以上、克服しようと思っても不可能だと言って、頑張らないことの言い訳にしている。こういうハジメの姿を情けないと思ったモノたちが、人間の姿をとって現れて、「モノ、申す!」という劇である。
 擬人化されたモノたちが、次々と連発するボケにハジメがツッコミを入れる。それはまるでコントのように面白く、場内の笑いを誘っていただけでなく、なにより、彼ら自身が楽しめて演技できていたように見えた。特にハジメは、リアクション等に、大袈裟で、無駄と思える動きが面白かった。しかし、「ドラマがシリアスな方向に持っていかれるぐらいなら、もっと笑いの方向へ持っていけばよかったのではないか」「もっとバカに演じればよかったのではないか」という意見も出た。擬人化されたモノたちについては、もっと、物は物らしく、語尾や特徴を出して演じればよかったのではないだろうか。衣装の点でも、4人のモノたちの区別や個性を、もっとわかりやすく、派手な衣装で出しても良かったのではないかと感じた。
 最終的にハジメは、モノたちによって励まされ、やる気を出して、自分で頑張ろうと決意する。やれば出来るということ、また、自分にしか自分の壁を越えることはできないということを、伝えようとしたことが、よくわかった。ただ、主人公が、あんなに簡単に変わるものだろうかといった意見や、主人公が頑張ろうとするキッカケが弱いのでは、という意見も出された。最後の場面にある、ハジメの頑張りも、いっときのもので終わるのではないか、という意見も一部では出た。
 この劇を通して、勉強を頑張れない、部活を続けられない点などが、まるで自分を見ているようだと感じ、頑張ることの大切さを、改めて知ることが出来た。


《専門家・顧問審査員会》

 主人公真下ハジメに「神の与え給うた欠点」は頑張れないこと。勉強も、部活も中途半端。好きだったギターも、詩を書くことも、とっくにあきらめてしまった。でも、ハジメの部屋の中にうち捨てられた「モノ」達は、あきらめていなくて、ハジメにもう一度頑張ってほしくて、ある日突然口々に「もの申す」のだった!頑張れないのは、実は「欠点」などではなく、頑張ってみたけれどそれに見合う結果が得られないことに失望して、「どうせ頑張っても無駄だ」「最初から頑張らなければいい」と思い込んでいるだけ。そんなハジメは、まさに等身大の高校生であり、観客は彼に感情移入することができたのではないだろうか。一方で、生き生きと好き勝手に喋り、ハジメを翻弄し、ハッパをかけ、所狭しと暴れまくる「モノ」達には思わず笑わされてしまった。この「モノ」達の衣装がもっとそれぞれの特徴を捉えたものであったら、より観客にも分かりやすかったのではないだろうか。たとえばギターはよりロックに、ポエムはよりロマンチックに。また、口調や仕草にももっと個性をつけることが可能であったろう。
 とにかくパワフルな舞台で、勢いのあまりかスタッフワークには粗い部分も散見された。音響については、ガヤを生録してあるところはさすが放送・演劇部だなぁと感心したが、ところどころF.OかC.Oかがはっきりしない場面があり、中途半端になってしまっていた。またせっかく黒パネルで舞台を狭めているにもかかわらず、照明がエリアをはみ出して当たっていた。ホリの色がきれいに出ず、生かされていないと感じる部分もあったので、いっそ大黒を使い、サスの方に色をつけてはどうか。
 ハジメと「モノ」たちやケースケとの軽快なやりとり、アニメのキャラクタのような身体表現、最後には生演奏、と一つ一つの場面は本当に面白かったが、全体で見るとパーツごとの結びつきが少し弱く、ともするとコントやネタの寄せ集めのような形になってしまっていたので、一本のコメディとなるように、たとえばハジメのモノローグで繋いでゆくようにするなどの工夫があるとなお良かった。
 ともあれ、終始笑いの絶えない一本でした。呉羽高校の皆さん、本当にお疲れ様でした!




 (愛知県)刈谷高校
「あとひとつ、花があったら」 刈谷高校演劇部 作


《生徒講評委員会》

 舞台は、バスの中。バスの発車を待つ一人の男子高校生の前に、遅刻してきた運転手、駆け込み乗車してきた「佐々木公平」と名乗る愉快な少年が現れる。その後女子中学生2人、病院へ向かうおばあちゃん、元気な妊婦2人、荒っぽい男子高校生を乗せ順調に走るバス。平凡なバスの風景が繰り広げられていくのかと思いきや、乗客同士のやり取りから、このバスの本当の意味が浮かび上がる――。
 謎が多く、観客に考えさせる劇だった。特にバスの意味と「影」の存在について活発な議論となった。このバスは公平の記憶を表し、「影」は公平の背中を押す存在だと考えられる。乗客が全員公平と関係があったり、病院に2回着く・妊婦が2回乗り込んでくる、といった同じことを何度も繰り返していて現実的でないことが描かれていたからだ。公平はいじめにあい、家族を亡くした経験があるので、特にモヤモヤや忘れたい過去や後悔の記憶だろう。「影」はこのような暗い過去をぐるぐる回り、その中でがんじがらめになっている公平にそのままでいいのかと問いかけていたので、公平の内面を客観的にみつめる存在なのだろう。
 この劇を通して、「自分から目を背けてはいけない」「逃げるな」という強いメッセージが伝わってきた。最後のシーンで現実逃避している公平に対して「影」が、「僕にはできない、君がやらなけりゃ」「大丈夫、できるよ」と声をかけていることと、逃げているだけでは公平のようになってしまうという両方の意味が感じられた。
 前半のコミカルな展開も楽しめたが、素晴らしかったのは後半の不気味さの演出である。ダンスの動きで公平の苦しみや葛藤がうまく表現されていたことや、ラストシーンで乗客たちの苦しみがホリゾントの色と合っていて、効果的だった。
 ダンスシーンで吊られていたオブジェについては、様々な解釈が生まれた。壊れた時計であるとか、歯車、知恵の輪のように絡まりあった公平の感情、動かないバスの車輪などの意見があった。想像力がかきたてられる面白いオブジェだった。
 劇の内容とタイトルの関係については、タイトルにある「花」は「影」が差し伸べた救いの手を意味していたのではないか。
 非常に不気味で怖い劇だった。引き込まれるというよりも飲み込まれる劇で、強く印象に残った。


《専門家・顧問審査員会》

 少年が乗る不思議なバスが舞台である。はじめはにぎやかでコミカルなシーンが続くが、次第にこのバスは少年の心象・記憶の象徴であることがわかってきて、少年の隔絶感・絶望が浮かび上がってくる、という物語であった。
 効果的に作り込まれた舞台や、ダンスのスキルの高さなど、よく考え、よく練習されていることがわかる作品であった。コミカルな前半部に織り込まれた、後半を予期させる不気味なストップモーションも、あえて照明の切り替えを行わずに見せるという心憎い演出がなされていた。シリアスな後半のシーンもダンス・演技・舞台など全てに心配りがされており、まさに総合芸術と呼べるものであったと思う。
 しかし一方で、観客に迫って来るものがなかったことも事実である。舞台上ではいくら主人公の内面の闇に食い込んでいっても、それを観客が自分の感覚として感じとることができなかった(少なくとも私はそう感じた)。これは、抽象的で思わせ振りな設定・演出が多いことに原因があると思われる。その人物・その演技が何を意味するかを、観客が直截的に感得できないため、観客が「考えて」しまう。「考える」ことは観客の内面で行われるから、結果として観客が舞台の流れから置き去りになり、距離が生まれてしまうのではないだろうか。よく考えられ、大変巧妙に構築されていた作品であっただけに、その点は残念であった。タイトルにある花のモチーフが作品内に全く登場しないことも気になった。観客に考えてもらう作品、という視点も必要で、その点については完全に成功していたと思う。しかし、舞台を自己満足で終わらせないためにも、観客と同じ目線で作品をつくり、観客を巻き込む姿勢も必要だったのではないだろうか。




 (三重県)桑名西高校
「明日に咲く花」 石垣 摩耶 作


《生徒講評委員会》

 隔離病棟に入院中の広幸、涼介、里奈の三人は担当医兼先生の美帆とともに過ごす日々が続いていた。三人は、美帆の提案で三月にある病院祭で人形劇を発表する準備を始める。自分たちの病気について不安を感じながらも準備をしていた矢先、広幸が死んでしまう。それを受けて残された二人は自分たちのこれからについて考える。
 病に冒されている三人が頑張ることを見つけていこうとする姿勢から、健康体である私たちはなおさらその姿勢を忘れてはならないと感じた。また、広幸の死後になってその存在の大切さに気づいたという二人の気持ちから、大切な存在であると常に意識していくことの重要性を感じた。
 三人が病院祭で行うことに決めた『象の背中』は、離れ行く運命にある三人の状況の辛さをより悲痛に伝えるのに効果的であるように思われる。引用された詩からも、死者のことをを悲しむ気持ちだけではなく、明日を見つめてほしいという願いを増幅させている。
 装置については、周りの黒いパネルが病室を取り囲むように配置されていたことから、隔離病棟の閉塞感が表されていて良かった。また、スライド式ドアの動きの滑らかさやが良かったという意見もある一方で、ベッドの置き方にリアリティが無かったり、紗幕を使用したことに対しては顔の様子や花が見づらかったことで違和感を感じるという意見も出た。
 照明については全体的に明るさがコロコロと変わって安定せず見づらいという印象を受けたが、夜の病室のシーンでぼんやりとした照明を使用することにより、夜の持つ静粛とした雰囲気を感じるのに効果的だった。
 音響については、冒頭でナースコールに関しての描写があったので、実際にナースコールを押した際にその音が無かったことに対して違和感を感じたり、ナースコールの音を入れていれば、より死が迫ってくるような緊迫感を増幅させられたのではないかという意見もあった。
 ラストシーンについては、詩を読むことが死へ向かう前ぶれを表す行為であるように感じてそれを読んだ里奈も命を落としてしまったと感じたという意見や、タイトルにもある『明日に咲く花』を明日頑張ることと理解し前向きに生きていくことができたという意見があり、多様な解釈が可能となっていた。
 三人の苦しい状況でも頑張ることを求め続ける気持ちから、未来に向かう気持ちを新たに出来た。


《専門家・顧問審査員会》

 新型ウィルスに感染した二人の少年と一人の少女。隔離病棟で彼らの治療にあたる医師と看護師も含めた人間模様。命の終わりが予想される中、彼らはどう生きてゆこうとするのか・・・。ウィルスを道具立てとし、命の問題を扱い、非常に期待を持たせる要素が多かった演劇であった。しかし「言いたかったこと」がたくさんあったのに、作者の視点が定まりきらずに、台本上終わりきれていない、言い切ることが出来なかったと感じられた点が残念であった。
 設定としては二人の男子の病室に女子が共に生活する、という点に疑問が感じられた。もちろん女子が登場してもいいのだが、それならば女子が病室を訪れ、またある時は自分の部屋に戻ってゆく、という形でもドラマが進行するし、女子の不在の時の男子二人のやりとりや、居る時の空気感の違いなど、より演劇的に深みのある表現が出来たのではないか。そういう点も含めると、この極限状態の三人の関係性こそ、この演劇の主題にしっかりと据えて欲しかったと思われた。医師・美帆という「魅力的な」キャラクターが関わりすぎたため、三人の関係性が薄まった、というのもあったかも知れない。それから、『象の背中』の引用に頼りすぎている点や、『徒然草』『方丈記』といった古典に、あまり意味を感じなかったという意見も審査会で出された。せっかく要所要所で活けかえられる花も、当然この物語の象徴と意識していたとは思うが、もっとこれをメタファ−として効果的に使って欲しかった。
 一方で淡い印象の舞台や登場人物には高校演劇としてのさわやかさ、好感が持てたことも言っておきたい。演劇をみんなが愛し、日々活動している姿が垣間見られたからであろう。舞台をしっかりと使い切った装置は高く評価されるし、音響・照明も素晴らしかった。まだまだ手を加えてゆけばどんどん良くなる可能性を秘めている劇だと思うので、是非桑名西高校の財産として大切に育てていって欲しいと感じられた。