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第66回中部日本高等学校演劇大会

各校別講評文

 講評文は、生徒講評委員会と専門家・顧問審査員会のそれぞれで話し合った内容をまとめたものですので、HPでは文章を書いた個人名は省略します。

同朋 福井商業 高岡工芸 池田 名古屋市工芸
関有知 小松 奥越明成 愛知 高田
刈谷 富山第一 七尾東雲
岐阜農林 刈谷東
桑名西


                                                                               
                                                                            ○は創作


 (愛知県)同朋高校 上演1

○「青春法度」  児玉 健吾 作

《生徒講評委員会》


 一輝は子どもの頃憧れていた、優子ちゃんの「青春」を目指して生徒会長に立候補した。しかし、明美の「本当に生徒会長になりたかったのか?」という言葉がきっかけで優子ちゃんに縛られていたことに気づく。一輝は自分の「青春」に向かって歩み始めるため、教室にあった「青春」の文字をバットで壊す。

 全体としては、役者が客席に降りてくるなど、観客を巻き込んだ演出でとても楽しく、飽きさせない劇だった。役者が楽しんでいるのが観ているこちらにも伝わってきた。特に手拍子を舞台と客席とで行うことによって、一緒に盛り上がることができた。また、最後の「青春」の文字をバットで壊すシーンは、一輝が青春法度から解放されたことが目に見えて分かりやすかったため、とてもすがすがしく感じた。

 印象に残ったのは、役者同士の会話のテンポが良く聞きやすかったことだ。特につっこみ役の明美の間のとり方が面白さを引き立てていた。また、複数の人が同時に動く時や、セリフによって役者の位置が入れ替わる時に、めりはりがあって話のテンポのよさに繋がっていた。具体的な場面をあげると、選挙の開票中、一輝側のグループと現生徒会長の小町側のグループがぶつかり合うシーンと、開票が終わったあとの緊張感あふれるシーンの切り替わりが空気の違いを表していた。

 キャストの面では、子ども時代と高校生になってからのシーンで役者が変わらなかったことで、一輝の優子に憧れている思いや小町の一輝への思いが、時を経ても変わっていないということが分かりやすかった。

 装置については、子ども時代の場面で両サイドのオブジェに照明が当たることによって壁に影が映り、それが一輝を縛っている「鎖」を連想させ、効果的だった。

 残念な点としては、開票速報での音響が大きめだったため、セリフと重なって聞き取りにくかった点だ。音量の大きさをもう少し抑え、セリフを明瞭にすることによって台本の良さを最大限に引き出せたのではないだろうか。
 
 青春とは、人から教えられるものではなくて、自分自身でつくりだすものだということをこの劇から感じ取ることができた。前からあった「青春」という概念にとらわれず、自分が青春だと思うことが本当の青春だと思った。




《専門家・顧問審査員会》


 青春とは、締め付ける何か、「法度」を破ること。そんなメッセージが生徒会長選挙戦を通じて語られる。生徒会長を目指す一輝は高校三年生、幼なじみで現在生徒会長の小町に勝つことを目標に、仲間たちを集めている。その目標は、幼い日に巡りあった優子という高校生への憧れから芽生えたものだった。「青春法度を壊しに行く。理想のために」と言い残し、優子は姿を消す。今、高校三年生となった一輝はその理想を追い求めている。

 コメディタッチで進む本作は、学校での選挙戦でありながら、大人社会をチクリと突いて、風刺も効いている。

 主張もはっきりしていて、笑わせるのだが、どこかもどかしい印象を受けるのは、「青春」「理想」などの言葉を、抽象概念のまま扱ったためではないか。劇は、登場人物たちの関係や行動によって紡がれていく。果たして一輝の「青春」とはなんであるのか。後半、落選した一輝は、かつての優子の存在と重なる明美との対話で、仲間でワイワイやることが楽しかったのだと気づく。確かに高校時代の友人関係は得難いものだろう。では理想の友人関係とは何か。そこまで踏み込む必要があったのではないか。誰かに憧れ、なれない自分に自問自答を繰り返す焦燥の日々。不安定だからこその青春だろう。今ある友人関係を肯定するのみでは、法度破りにはならない。

 これは昭和に青春を終えた者の伝言と捉えて欲しい。

 照明・音響の息のぴったり合ったスタッフワーク。テーマ性をシンボリックに浮かび上がらせるオブジェなど、工夫は随所に凝らされていた。

 演技もアンサンブルが練られ、最後まで飽きさせずに見せた。惜しいのはドラマの起伏だろう。回想する時間と現在を交差させる運びは巧みであったが、切実に共感を喚ぶ物語には、あと一歩の距離があった。




 (福井県)福井商業高校 上演2

○「犬を蹴飛ばしたり、あるいは。」  玉村 徹 作

《生徒講評委員会》

 舞台は、高校の放課後の教室から始まる。クラスの文化祭発表の出し物を決めようとするが、サキと康子しか集まらない…。そこで、康子が少人数でできる演劇をしようと提案する。そこへ、「先生」と呼ばれる人物が、音響卓から観客席を横切って舞台上に現れ、ストップをかける。もう既に演劇は始まっていたのだ。「先生」という人物は怪しげで、二人は操られているように感じる。そしてその舞台は、サキと康子が社会人になって満員電車の中で偶然出会った日へと転換する。昔話をもとに近況を話す二人だが、記憶は非常に不明瞭だった。観客に違和感を残しながら、場面は冒頭へ戻り、そしてさらに舞台は二人が老後生活を過ごす老人ホームへと変わる。一体どこからどこまでが「劇」なのか、また、都合が悪くなると突然現れて時間の巻き戻しをする「先生」とは何者なのか? 最後の最後まで、観客に疑問を与える芝居であった。

 自分がずるいと思っていた大人の生き方は、実は子どもや家庭を守るためのものであった。記憶喪失による固定観念や偏見の消失を、若い頃は「新しいスタート」と喜ぶことができたが、実際に年を重ねてみると、「人生の終わり」と感じてしまう…。こういった年齢の変化に伴う心情の変化は興味深い。

 「先生」の存在は、「神様」であったのか、それともこの劇を作った「作家の分身」なのか。はたまた、脚本の人物紹介にあったように「別の生き物」なのか。講評委員会の中でも、さまざまな解釈があった。私たちとしては、満員電車の中で康子が担当していると語った「作家」というのは、もしかしてこの「劇」の作者であり「先生」なのではと思わせるような描写かと思った。敢えていろいろな読み方ができるような、この劇の作り方は面白いと思った。

 演出面としては、劇全体を通して、喋り方がどの場面になっても統一されていることや、効果音を台詞として役者の口から発していたりと、リアリティを無視し、敢えてぎこちなさを前面に出しているが、むしろそのことで「演劇を観ている」と観客に嫌でも感じさせるものになった。他にも、同じシーンの繰り返しに微妙な差異を加えるなど、脚本や演出の意図に関して、作者や演出担当者に尋ねてみたいところは尽きない。

 スタッフ面について、照明は特に違和感は無かったが、場面に合わせた変化について、趣向を凝らしても良かったのではないか、という意見も委員会では出された。

 音響は、BGMが好評だった。しかし効果音が他にほとんど無いにも関わらず、セミの鳴き声だけは音響効果としてどうして使用したのか疑問に残る。
 観る人それぞれによってさまざまな解釈ができる実験的で前衛的な作品である。もう一度観て、さまざまな解釈を模索してみたくなった。



《専門家・顧問審査員会》


 「人生は自由だ、何もないから。」
 「演劇は自由だ、なんでもあるから。」
改めてそう感じさせてくれる芝居の作りだった。

 幕が上がると、ジャージ姿の女子生徒二人。何やらうまく行かない模様の学校祭クラス企画。どこにでもあるありふれた教室での一場面だ。
ぎこちない演技、ぎこちない進行に“下手くそ!(失礼)”と思いつつ見守るうち、突然客席から登場してきた白衣の人物。
 ああ、劇の練習をしていたのか。先生がまた日常的な会話を… あれ? 変なこと言ってないか?
ここらあたりで、我々観客はいつもの観客ではいられなくなってくる。いつもなら劇のストーリーに埋没したくてここに座っているはずなのだが…
 芝居の稽古らしき光景が変奏を繰り返しながら、いつの間にか女子生徒の人生へと時間スケールが拡大する。その移行がまた、不自然なのだが自然なのだ。電車での吊革の高さがバラバラだった書き割りのシルエットも、「人生何もない」という脚本の到達点へのロードとして、狙ったものなのか? 無言で二人が並んで一人あやとりをするシーン。何度も練習したのだろう、毛糸の張り・たるみまで見えるようだった。積み木が、クレヨンが、あやとりが、老人ホームのメタファーだったと気付く。
 コミカルな老女たちの再会シーンも、人生を振り返るシリアスなセリフも、自由自在に観客を振り回す。痴呆の描き方、翼を授けられる光景のインパクト。高い位置に吊られた人生を象徴する切り出しのシルエットにも感動。
人生の終焉を迎える主人公の夢の物語かと取れるエンディングも、実は記憶喪失だった若い主人公のものなのか、「あなたのための物語」という小説世界のことなのか。

 音と明かりのキッカケが前後した若干のスタッフワークのもたつきも何のその、メタフィクションの世界を十二分に楽しませてもらえた。客へのヒントは各所に散りばめられ、“考えるのはお客様”というスタンスが貫かれる。
題名も、敢えて劇から遠いフレーズを切り出してつけてある。
 「創造力で演じられたものを想像力で観る。」

とかく親切過ぎる台本を求められる高校生の大会で、客の想像力を刺激しまくったあげくに、福井商業がポンッと放ったボールを受け止めた自分は、見終わった後、ある種爽快感さえ覚えていた。



 (富山県)高岡工芸高校 上演3

「23.4度にあなたはいる」  苅谷 瑠衣 作

《生徒講評委員会》

 今回の「23.4度にあなたは居る。」という作品は、父である流を娘である蛍が想いの力で呼び寄せる。そして流と話しながら、過去の自分であるカムパネルラと精神世界で対峙する。今まで知ることを拒絶していた流の苦悩、自分への愛を知り、流と自分自身を愛せるようになる。講評委員会ではこの作品から親子愛、今を生きる大切さ、想いの力、言葉の力などがテーマだと思った。

 初めに講評委員会であがったのが流の話し方だった。流は言葉の力、想いの力を信じる詩人をしている。しかし流の話し方が早口であり、言葉を大切にしているという想いがあまり伝わらなかった。その一方で流は夢を見ている無邪気な青年であり、蛍は現実を見ていて淡々としている。その対比を上手く表してあるのではないかという意見もあった。

 初めの電車が揺れて蛍が倒れた後のシーンでは、言葉を使わずに音響とパントマイムだけで蛍と流が2人だけで電車に閉じ込められている状況をわかりやすく表現してあり、観客を上手く引き込めていた。蛍と流の初対面の時の距離感がリアルで、それにより次のギャグにも繋がり蛍と流の掛け合いが面白くなっていたと思う。

 役者の舞台への出入りが、電車内のイスの裏から現れたり、その動きを統一させたりして、登場の仕方にも工夫が凝らしてあった。特に照明の使い方がよく考えられていると感じた。奥に行けば行くほどシルエットが浮かび上がり、ほとんど人が舞台からはけることなく、蛍の精神世界を上手く表していた。さらに奥行きを使うことで舞台をよく使えていた。その他の照明に関しては、もっと考慮する必要があると思った。ホリゾントの色だったり、フロントの強さだったり、大道具との位置関係を考えて演出して欲しかった。

 舞台設置がとてもシンプルで、色んな世界観を生み出すために抽象的にしてあった。しかし、シンプルであるがために電車内に閉じ込められたという切迫感が出ていないと感じた。舞台全体を中割幕で狭めるなどして工夫をした方がよかった。

 精神世界、電車内のシーン、蛍の世界観を演技により意識して変えているのをよく感じた。特に冷静な蛍から「銀河鉄道の夜」のジョバンニに変化するところは、演技でもよくわかり、さらに帽子を使うことでよりわかりやすかった。しかし、演者の言葉に抑揚がなく、蛍が流を父だと分かった後の反応や、少年から蛍へ向けた感情、蛍の気持ちがなぜ変わったのかがわかりにくかった。

 音響が最小限に抑えられているように感じた。音響を使わないことによって本当の言葉というものの強さ、綺麗さを表しているのだと感じた。音響を使わなくてもこのきれいな世界観を出せるのは素晴らしいと感じた。ただ、そう思っただけに最後の音響はボーカル無しの方が言葉の力がよくわかると思った。

 いつも同じ場所にある北極星を自分にたとえて蛍を想い光っている流と、弱いながらも全身全霊かけて愛してくれと光っている蛍がとてもよく現れていた。



《専門家・顧問審査員会》


 思春期の人間が必ず一度は考えるテーマ「自分の根源(ルーツ)はどこにあるのか?」この大きなテーマについて考えたいという思いが、演劇全体から伝わってきた。

 「自分とは何か」「自分はどこから来たのか」という問いの「解答」を探る作品である。本当は「解答」なんかはなく、もしもあるとするならば「回答」であるが、それは何となくしっくりこない。「解答」の指針となるのが「23.4度」なのではないだろうか。思春期の観客の心に深く染み、思春期を過ぎた観客の心には、かつてその問いの「解答」を探したことを思い出させてくれた。

 何よりも伝わってきたのは、この作品を作り上げる部員それぞれが、「自分とは何か」「自分はどこから来たのか」ということを理解しよう、答えを見つけようという気持ちで取り組んでいただろうという気魄である。その気持ちが自己解決的な解釈に終わっている場面も見られたが、それさえも答えにたどりつくための道しるべにも見えた。

 舞台で芝居をする役者は基本的に2〜3人と少人数であり、セリフも多くよく練習が重ねてあり、スムーズに舞台は非常にシンプルな作りである。列車の座席のみ。位置からすると観客は出入り口から見ていることになる。列車したら少し幅が広い印象もあったが、座席の間で芝居をするという性質上のことであったようである。座席の後ろに役者が控えていて、スムーズに出入りできていたのは良かった。ホリゾントの色を変化させるなどの挑戦が見られたが、ラストの桜吹雪の色の色があっていないなどの今後の演出をする上での課題もみられた。きっかけとなる変わり目にももう少しメリハリがあった方が観客に伝わりやすい部分などもあった。舞台上の照明や音響などは普段の学校での練習ではなかなかできないことであり、舞台を踏む中で学ぶ部分も大きいはずである。

 自分たちの心に感動したものを観客に伝えたいという熱い気持ちを持って日々研鑽をする姿勢が私たちの心を最も打つということを感じた。



 (岐阜県)池田高校 上演4

○「麒麟児 ーkilling Gー 」   西野 勇仁 作

《生徒講評委員会》

 物語が始まったときに客席から歓声があがった。それは、観客の心を掴み引き込むことができていたという証だろう。ゴキブリ殺しで序列が決まるカブトムシ高校でゴキブリ殺しの天才児とされ、皆から慕われている少女が主人公の物語。しかし彼女は自分を偽っていた。自分自身の感情を殺しすぎてはいけない、本当の自分というものを強くもって生きなければいけない。ラストの麒麟児が現実という苦難に立ち向かってゆくシーンにテーマ性を感じた。

 集団生活をしていく中で誰もが経験したことのある「自分を偽る」部分と誰もがしたことのある「単純にゴキブリを殺す」という二つを融合して描いていて、共感しやすくストーリーに入りやすかったと思う。麒麟児が生活している世界は高校のクラスのいわゆる人気者とされる人達の世界で、ゴキりんのいる世界は、クラスの隅にいる外れた人達の集まりだという意見と、ゴキりんの心の中だという意見も出た。キリングGの存在については、ゴキりんの子供のころに憧れていた大人になった理想の自分像なのではないか。という意見と、マイクが「黒いヒーロー」だと言っていたのもあり、皆の心の中にいる英雄像であり、名前のkillingという言葉から、「自分を殺す自分」を殺す存在なのではないか。

 Gというものは「じぶん」であったり「がっこう」であったりするものだと考えその、嫌な部分とされるGを殺し自分を偽ることは生きていく中で必要なことだけれど、その中でも自分というものを忘れずに生きていかなければならないということが教訓として伝わった。

 殺してもゴキブリが生き返るのは自分の嫌な部分を否定しても心の中で絶えず湧き上がってくるものではないかと思う。Gの殺し方を学ぶということは、生きていく上で自分を守るということと比例しているのではないか。

 全体的にキャストとスタッフワークとの連携がしっかりしていて、個人個人の技術の高さを感じ、一体感のある劇に仕上がっていたと思う。

 音響効果はキャストの動きと連携してあり、尚且つ様々な曲で客を飽きさせないような工夫がされていた。照明は赤いライトであったり、スモークなどの効果に沿った役割が果たされているものが多く、細かなところまで工夫が施されていた。

 舞台装置はゴキブリの形や学校の校舎にも見えたことや、長方形の赤い枠の挟まれたセンターの空間が扉にも見え、観た人に様々な想像をさせることができる装置であった。
 様々な現実と戦い続けながら自分の殻を破ろうとするゴキりんの姿に心を打たれた。高校生活に限らず社会で生きていく中で、自分を偽らなければならない部分もあるが、自分らしさというものを大切にして生きていこうと前向きな気持ちにさせられる劇だった。
  


《専門家・顧問審査員会》


 現実で生きていく為にありのままの自分を殺して周りに合せて生きていく主人公の姿を、ゴキブリの世界や学校や社会と重ね合わせながら、観客にも分かり易く、最後まで一つの物語として惹き付けられた作品でした。

 美術・音響・照明・衣装、そして俳優の演技、一つ一つの要素の完成度が非常に高かったです。観客を意識して作品を創っており、たくさんの音響効果がある中、俳優の声が観客に届いているのは、観客を意識して、リハーサル時に調整・確認する作業を怠らなかった、このような小さな積み重ねが完成度を高めていました。

 前半にスモークの効果やダンスなど様々な効果が盛り込まれていた分、後半部分が群読で進行されていくところが少し単調になっていたかと思いましたが、きっかけの多い中、スタッフワークの息の合ったチームワークは素晴らしかったです。

 ゴキブリの動きの洗練さ、ダンスシーン、集団での動きのメリハリなど、普段の稽古でよく訓練して努力されているのが伺えます。スピード感あるシーン切り替えがある中で、ゴキブリたちが記号的に見えず、一人の人物として見えてくる俳優の演技は見事でした。俳優それぞれが役を深め、作品の中での自分の役割を把握してストイックに演じていたからだと思います。またマイムで見せる扉のシーンは、扉を開く動き一つで、どこにでも繋がっていく自由な感覚・広がりを感じました。

 自分自身を認めてありのままで生きていく、葛藤しながら生きていくのだと、主人公がもがきながら緞帳が降りるラストシーンは、これから現実を受け入れながら自分を取り戻して変わっていくのだという強いエネルギーが伝わってきました。緞帳が降りる前にもがいている姿を一度おさめて見せる方が作品としてはすっきり見せることが出来たかもしれませんが、幕が降りていく中もがいていく姿を残しながらの演出は、俳優の身体から発せられたエネルギーとともに、観ている側に「変化するんだ」という作品の力強いメッセージが印象深く響きました。



 (愛知県)名古屋市工芸高校 上演5

○「フラン」   とうげ 作

《生徒講評委員会》

 ある日の星空の下、母親と二人の姉妹がいた。姉妹はある罪を犯す。そして母親と姉は罪をなかったものとするため、妹フランに蓋をした。時が経って、母と姉の理恵の心に変化が訪れる。母の心の中には罪悪感がうまれたが、必死に隠そうとする。高校生となり、一人の男子、啓介に恋をした理恵は、秘密を共有し仲良くなるためにフランの存在を啓介に教え、啓介がフランに会いたいという。「秘密の味は蜜の味」、フランという秘密を共有することが理恵にとっての甘い蜜であった。そこで母の静止を無視して理恵は蓋を開けてしまう。

 全体として、人の醜い心や、直視したくないものについて提示してくる劇であった。
 星はそれらを表す象徴であった。輝く星は、流れ星に汚いものを押し付けて自分たちは綺麗に輝いている。それに対して流れ星は汚いものを引き受け、その姿を一瞬で隠してくれる。

 また、綺麗な心を持つ存在ほど弱い立場にいるという社会の現状も表されていた。フランは抽象的な存在であるという意見と、実際に存在する人物であるという二つの意見が出た。フランを人間の醜い心を表現している抽象的な存在と捉える見方と、罪などを押し付けられる存在として現実に存在する人物と捉えるという見方が出来た。劇中でフランは怪獣であると言われていた。怪獣自体は悪いものではないのに悪者扱いされている点と、純粋であるがゆえに、無意識に日常を壊してしまう点がフランに関連していた。

 ゴミ箱の蓋が重くなっていくという表現は、年を重ねるごとに罪悪感が募っていくことを表している。フランの蓋を開けた後は舞台全体をゴミ箱として捉えることができた。ゴミの内容がフランの使うはずだったランドセルや教科書類などが投げ込まれた事によって、言葉では表せない事実が心に突き刺さり恐怖を感じた。もう少し量や種類を欲しいと感じた。

 演出面では、スポットライトをどの場面においてもフランのゴミ箱に当て続けることで、理恵や母親の隠したいものがいつまでも心につきまとっているということが表現されていた。また、きらきら星の歌詞の一部である「みんなを見てる」というフレーズも関連しているのであろう。コロスのカラフルな色のパーカーがゴミの多様さを表していたのであろうか。また、一般的な音響装置はほとんど使わず、舞台上で楽器を利用して核心を突いたときや、舞台の不気味さ、様々な種類を使うことによって不協和音がうまれていた。罪悪感が強くなっていくにつれて音が低くなっていく演出が恐怖を感じた。



《専門家・顧問審査員会》


 フラン。ふらん。Fran。最初にタイトルだけ見た時は、某お菓子を思い出させ、ふんわりと甘い響きに感じられた。しかし幕が上がってみると、いい意味でその感じは裏切られた。積み上げられた平台の上、中央に置かれ、異様な存在感を放つ「ゴミ箱」。観客から見れば気になって仕方ないのに、登場人物たちは目を向けようとしない。母も姉も、「臭いものに蓋をした」からだ。そのまま物語は進むが、母と姉、そしてフランの犯した罪は、蓋をしても消えるはずがなく、むしろ腐乱してゆくばかり。思春期になって、重たい重たい秘密を抱えきれなくなり、ついに姉はゴミ箱の蓋を開けてしまう。この後の場面が秀逸だった。過去の罪が明らかにされる。母の後悔とフランへの謝罪。フランが母を赦しハッピーエンドを迎えてもいいんじゃないか、観ている我々もこの閉塞感から解放されたい、と思える場面。ところが現実はそう甘くない、贖罪など簡単にできることではない、と引き戻される。「ぽとぽと ぽとぽと」と次々に袖から投げ込まれる、フランが成長するにつれ使うはずだった物たちは、まるで母の頭を殴りつけ、姉の横っ面をはたくかのようだ。あまりに純粋で、あまりに無邪気なフランはこの世界では「かいじゅう」にしかなれないのかもしれない。もしくは、疾うにフランはこの世の存在でないのに蓋をし続けていた、という結末もありうる。

 また、観念的な物語なので、いっそもっとおとぎ話や神話のような構成にしてもよかったのでは。幕が下りる時、ぞっとするほどに登場人物の表情が明るく、これまたいい意味で後味の悪さが残った。ここで、OPに使われていた『きらきら星変奏曲』を使うとさらにいい意味で後味が悪かったかも。メタ的な装置、コロスが奏でる不協和音だらけのBGM、照明の変化のルールなどからは、繊細で丁寧な芝居作りをしていることが伝わってきた。心の闇を表現しようとしていながら、コロスの衣裳も含めて舞台がカラフルに過ぎるという意見もあったが、さまざまな選択肢のうちの一つであろう。




 (岐阜県)関有知高校 上演6

○「糸・半(きずな)」  乾 静夏 作

《生徒講評委員会》

 友達ができない美沙は、先生に勧められて生徒会に入る。そこで先輩や同級生と共に過ごしていくうちに、次第に打ち解けてゆく。しかし、ある出来事をきっかけに、美沙へのイジメが始まってゆく。生徒会のメンバーに裏切られ、信頼していた友達からも裏切られ精神的に追い詰められていく。そして…「え?あぁ…私が飛び降りた理由ですか。それは…。」

 この劇を見て、全体として、人の心の弱さや醜さが最も感じられた。結城が半分に切り裂いた「絆」の寄せ書きは、薄っぺらな友情や切れやすくもろい絆という意味を表しているのではないかと思った。その後、先生だけがその寄せ書きを気にして、他のひとは放置していることも、見せかけだけのもろい絆を表現しているように感じさせる。絆という文字には、ぐるぐるとからめるという意味があることから、この劇中の登場人物たちの「責任」が絡み合っていることをも表しているのではないかと思わされるほど、登場人物たちのイジメに対する立ち位置がリアルであり、誰が主犯なのかが分からなくなってしまう。ラストのあみの「益田美沙ちゃんを殺したの、なぁんだ。」というセリフにそれらすべてが象徴されている。

 「ウザイ」「イラつく」などの単純な理由からイジメが始まり、プライドの高さや、自己中心的な考え方、心の弱さから、強いものの意見を信じ、弱いものを疑ってしまうことなどの要因によって、歯止めが効かなくなっていき、取り返しのつかない事態へと発展していく。そのような描写にリアリティがあり、この劇の出来事を私たちの身近に感じさせた。そして、生徒会室の舞台装置が、そのような雰囲気を壊すことなくよりリアルにしていたように思われた。しかし、美沙が響子によって生徒会室に閉じ込められたシーンで、結城の鞄が置いたままだったことや、美沙のリアクションを見せる長さが短かったことが惜しいところだった。美沙のイジメによる反応にもう少し時間をかければ、よりリアリティが出せたのではないかと感じた。

 演出に関しては、照明のサスが多用され、顔の部分が影になることにより、取り調べのような雰囲気が出ており、深刻さが伝わってきた。ラストの音響でセミの鳴き声がだんだんと大きくなっていくところが、無視できない罪悪感とリンクしているようだと感じた。また、音楽を聞くとき、美沙は周りの世界をシャットアウトし、現実から目を背けていることを示しているが、ラストのあみの場合は、自分の世界へ入り込むことで、彼女の罪の意識の欠如を際立たせているのではないかと私たちは考えた。

 いじめの怖さや、責任の重さ、絆のもろさなど人間が作り出した闇について正面から向き合い、そして、見るものに問いかけ、考えさせる劇であった。私たちは、人間の裏に隠された本性に心から恐怖を感じた。また、本当の絆とは何かということを改めて考えるきっかけとなったように思う。


 

《専門家・顧問審査員会》


 「いじめはささいなことから始まる」という日常の現実を、リアルに描いていて好感がもてた。役者にも過剰さがなく、いじめる側もいじめられている側も自然な演技だった。宮川先生の生徒への対応があまり上手でないように思えたが、後で「新米の先生だから、そのように演出した」という説明を聞いて納得した。

 舞台セットもうまく日常を再現していたように思う。ただし、屋上から飛び下りるシーンの演出には苦労をしたのではないだろうか。セットを上手と下手に分割して、屋上のエリアを作ったほうがいいという意見もあった。屋上から飛び下りる美沙を目撃するシーンは何度も練習したそうだが、本当にそのようなことが起こったとしたら、人間はどのようなリアクションをするかを今一度考えてみるとよいだろう。

 途中までほとんど台詞の無いユウキが、どんな役割を果たすのかと興味津々で見ることができた。ユウキが一部始終をUSBメモリーに記録していたという設定は面白かったが、もし本当の裁判だったら、写真や録音と比べると証拠能力が低いのではという意見もあった。脚本づくりの時に吟味すると良かったのかも知れない。ユウキが手にUSBを持って立っているシーンや、テーブルに置いてあるUSBに照明があたっている演出も、USBが小さいのでそれと分かりづらいという指摘があった。

 暗転のたびに登場人物が一人ずつトップサスの中に登場し、質問に答えるシーンが良かった。役者の顔が見えないのは狙っていたのですかと上演校に質問したところ「あれは取調室のイメージです」との答えが返ってきた。ただし、審査員の中には、暗転なしでも構成できた芝居なのではという声があったことを付け加えておきたい。あと一つ注文をつけるとすれば、地明かりが強すぎてホリゾントに一文字幕の影が出ていたという指摘があったので、リハーサルの時などにチェックできていればと思う。

 音響に関しては、最後のセミの声が印象的だったとの指摘があった。上演校によると「人が死んだのに無情にも季節が過ぎていく」ということを表現したかったのだということ。劇中でミスチルの歌が流れるのだが、使い方が中途半端であり、1コーラス全部流すぐらいの思い切りがあっても良かった。またプロセのスピーカーだけでなく奥のスピーカーも使うべきとの声があった。しかし全体として、役者のチームワークの良さが目立ち、ストーリーにもなるほどと思わせるものがあって、大変印象的な芝居であった。




 (石川県)小松高校 上演7

「 I s 」   岡村 多佳子 作

《生徒講評委員会》

 過去に父親が家から出て行ったという経験を持つサチは、心のなかに「5人の私」という存在を作り出すことによって、気持ちを口に出さなくなる。しかし、学校でのとある事件を皮切りに、サチは自分の思いを口に出すことができるようになる。

 テンポが良く温かみのある劇で、少し声が小さく感じたが、『Is』すなわち『私たち』は非日常的な存在でありながら、会話には日常感が溢れていて、自然に受け入れることができた。『私たち』の会話が時にまとまり、時に衝突している様子は、サチの心の葛藤や強い思い、自責の念を観客にもわかりやすく伝えていた。『私たち』の気持ちの複雑な絡み合いと類似したことは、実際の高校生活でも頻繁に起きている。だからこそ、サチが彼女たちを抱きしめて受け入れるシーンでは、観客の納得がいくように、『私たち5人』のキャラクターの違いがもっと可視化できるような衣装や動きなどに工夫をこらすべきだったのではないか。

 リア王の家族に自分の家族を、父親の質問に対し言葉に詰まるコーデリアに愛故に気持ちをまとめきれない自分をそれぞれ重ねて、『私』の気持ちに周りが気づいてくれないことに憤りを感じている様子をうまく伝えられていた。しかし、客席の位置によっては役者や舞台装置と被ってしまい、後のキーワードとなるリア王とコーデリアのシーンが見えつらいため、もっと舞台前方で演じても良かったという意見が出た。

 講評中に、なぜサチは滝沢を突き放しておきながら、柏崎のことは最終的に受け入れていたのかという疑問に対し、滝沢と柏崎のサチへの目線の高さの違いが関係しているという意見が出た。サチに対し、滝沢は、『可哀想だ』という上から目線で理解しようとして空回りをしてしまった。その点柏崎は、同じ目線に立ち、あくまで第三者としてサチの心の支えになることでサチが自ら心を開くのを待とうとした。この解釈は彼らの適切な役作りによって得られたものだと思う。

 抽象的な舞台装置を使うことで様々なシーンに対応し、暗転も殆ど無いことも相まって観客を飽きさせない工夫がされつつも、キャストの演技から時間軸が難なく把握できた。

 みんなが誰かの為にやっているはずなのに、『言わなくても伝わるだろう』という言葉足らずで他力本願な考えが空回りを招いている。特に、家族内では『きっと気づいてくれる』という考えが強くなりがちで、意志を伝えることを忘れてしまう。自分のことについてわかってもらいたい、気づいてもらいたいと思うのならば、自分から行動し、伝えることが大切だ。また、サチが『私たち』自身を愛したように、自分の本音をしっかりと認めていくべきだと思った。

 日々の生活の中で、自分はどれくらい本音を言えているのか、意思表示ができているのかを自然と考えさせられる作品だった。



《専門家・顧問審査員会》


 面白い舞台美術だと思った。2間(けん)四方のメイン舞台を菱形に設え、中央から上手に向かって昇る構造の階段になっている。教室や自宅と、頻繁に換わる場面をこのメイン舞台で行い、劇中劇のリア王や学内の廊下、狭い空間等をその周囲と階段の一部だけを用いて抽象美術の舞台を有効に利用できている。

 開演当初は傍白時に他の登場人物をストップモーションさせ、徐々にルールを無くして行く演出も、常套手段ながらスムーズに出来ていて、演出的な工夫が細部にまで仕掛けられていた。

 脚本上、過去の自分と別れ、新たな自分を見いだした時から、自分の分身である5人の私たちと立場が逆転し、傍白を主人公ではなく私たちが話しだす。冒頭から暗転を一切用いず、唯一終盤で一度だけ挿入した暗転が非常に良い。暗転後の主人公は、嘘偽りのない本来の自分に変わっている。この作品は家族の関係とリア王がメタフィクションしながら進行し、言葉で自分の気持ちや考えを伝えることの重要性と自分とは何かを認識する物語である。ラストシーン、常に主人公と共に行動していた私たち5人と決別し、一人退場する主人公、その演出が素晴らしい。

 登場人物はいずれも個性的で、意図的にメリハリのない演技が、自然で等身大の高校生を表出している。反面、大人役の演技は不自然となり、バランスが悪くなるので注意したい。授業のシーンでは、2脚の長椅子を直線に並べただけで、教室内での授業を見事に表現している。このような演出には、わくわくする。

 照明は教室と自宅を明確に識別できるようにしたい。床面が黒いので、地明かりに色を足しても、被写体がないと色の違いを識別できないので、舞台の四隅にオブジェや切り出しを配し、照明の変化が判るようにすると良い。リア王の場面も定位置で行う方が収まりが良く、照明もワンプランにした方が明瞭となり、劇中劇が活きてくる。

 音響は選曲も良く、雨音の煽りも効果的で、ラストの音楽に合わせた緞帳の降ろし方等、細部に工夫が感じ取れる。




 (福井県)奥越明成高校 上演8

○「黄輪草」   川村 信治 作

《生徒講評委員会》

 高校商業科の3年2組が、2年生の時の学校祭で上演しようとして完成しなかった劇を、3年生の学校祭で上演するために奮闘する過程を描いた話だった。この劇は、クラスを描いたシーンと進化論を語るダーウィンを演じようとする生徒達の2つのシーンからなる。3年2組は初め、それぞれの個性が強くバラバラなクラスだった。しかし、そんなクラスも白血病を発症している少女、早苗の訴えをきっかけに少しずつ変化をして、劇を作るというひとつの目標に向かってまとまっていった。また、ダーウィンの世界は、ビーグル号の艦長フィッツロイとダーウィンの航海中の会話によって進んでいくものと、様々な地を旅する中でダーウィンが生物の多様性を知るという2つの内容を、文化祭で上演した劇として劇中劇として表現している劇だった。

 白血病の少女、早苗や母親を亡くした和美、斜に構えた悟など、様々な境遇や性格のクラスメイトがひとつのクラスとしてまとまっていく様子から生き物の多様性を感じた。タイトルにある「黄輪草」が、山が変わるだけで形態を変える多年草であり、1本ずつ咲いた花が輪になって重なって咲くということも多様性という意味があるのではないか。教室のシーンで出てきたねずみのロボットでは、講評の中でも多くの疑問や意見が見られ、その中にはロボットという多様性のあまりないものを見せることで人間の多様性を際立たせたかったのではないか、といった意見や、ネズミ講になぞらえ、仲間意識がクラスに広がっていく様子を描写したのではないかといった意見も出た。

 演出面では、素舞台で物に頼らず役者の声や体ですべてを表現していた点から、私達は演劇の可能性や人生においての可能性を感じた。舞台転換では、暗転しないでホリをつけたまま観客にみせる転換にしたことからも可能性を感じる。また、舞台転換で観客は意識を途切れさせることなく集中して最後まで劇に臨めたのではないか。

 客席からガヤが飛ばされたり、先生が誤って放送をかけてしまったり、ドアの開閉音を役者の声で表現したりしていた。学校祭の劇であることが強調され、よりクラスの団結していく様子をリアルに感じた。照明についてはホリゾントライトの使い方がうまく学校祭の雰囲気が伝わってきたが、教室のシーンでは、役者の顔がよく見えなかったので、イスの配置を工夫すると観客が気持よく芝居がみられたのではないかと思う。劇中の歌は完成度が高くセリフとかぶっていても「ひとすじの〜」という歌詞には希望を感じ、また、それがきれいな歌声だったためすんなりと心に響いて、邪魔にならない点が評価された。

 3年2組の生徒達が演じていたダーウィンのシーンとは一体何だったのか。講評委員の間では、ダーウィンの主張である生物の多様性は人間の世界でもいろいろな性格の人がいるが、それぞれの個性の認め合いながら共存していけたらいいのではないかという生徒たちの思いと共通しているので取り上げたのではないかという意見が出た。劇全体を通して完成度が高く心の中に語りかけるあたたかい劇だった。命の大切さや人間の多様性を劇から感じることができた。
 


《専門家・顧問審査員会》

 物語は、高校生たちの日常生活と文化祭。まとまりのないクラスが、文化祭の劇の制作を通じて次第に一つになっていく様子を2年間に渡って上手に切り取ってあるお芝居でした。

 劇中の高校生が選んだテーマが、ダーウィンの進化論というところに多少の違和感を覚えながらも最後まで物語を見終わると、とても、さわやかで人間に対しての非常に頼もしい信頼を感じることのできる劇であった。

 舞台は特に大道具を置かない素舞台であったが、様々な場面を次々と演じ観客に納得させるだけのスタッフワークができており、特に照明は、ホリゾントを上手に使い、世界観を的確に表現し、絶妙としかいいようのないプランニングであり、表現であった。また、演じる役者の表現も無対象であり、常識で考えると大きな舞台に負けてしまうところであったが、逆に非常に効果的な演技もできていた。特に、ダーウィンの世界で船の中で踊るシーンでは、役者の躍動的な演技が衣装のシャツを脱いで振り回すことで高さもあり、非常に良い表現となっていた。そのほかにも、船、車や海などを人間の体で表現しており、人間の体にこだわった演劇の表現の可能性を非常に強く感じた。

 脚本では、必要最小限までに削り落とされた台詞が素晴らしく、登場人物の女の子の病気について、物語の進行とともに白血球の数値に言及されるのみで、女の子が置かれている状況がきちんと浮かび上がるなど、随所に言葉に対する作者のすばらしい感覚が垣間見られ、学ぶべきところが大きいと感じた。

 劇中の時代であるとか、ダーウィンの世界であるとか、難しいことは考えずに普遍的な高校生時代の思い出が上手に表現されており、とにかく登場人物のひたむきさ、挫折を味わいながらも前に進んでいく姿がすばらしい人間賛歌であったといえる。

 全体を通じて役者の稽古が行き届いており、歌も踊りも、登場人物の会話も全てにおいて非常に説得力があるお芝居であった。このような演劇の可能性を感じさせられるお芝居をこれからも作っていっていただきたいと強く思った上演であった。


(愛知県)愛知高校 上演9

「子別れ」  古典落語「子別れ」 愛知高校演劇部 潤色

《生徒講評委員会》

 酒にだらしない熊五郎は、ある弔いの帰りに、酔っ払った勢いで吉原に入り浸り、3日も家を空けてしまう。夫婦げんかの末女房のお徳と子供の亀吉を追い出し、遊女のお松と所帯を持つものの、上手く行かず、お松は出て行ってしまう。改心して酒をやめた熊五郎は、まじめに働く。そして偶然出会った亀吉が間に入り、お徳とヨリを戻す。

 家族は離れていても気持ちがつながっていることや、失って気づく家族の大切さというシンプルなテーマであるため、家族愛が分かりやすく伝わってきた。落語を伝統的なものだと構えずに現代的な演劇として見ることができ、楽しむことができた。また声がよく通っていて、落語らしさが出ていて迫力があった。

 熊五郎と亀吉が偶然であったシーンは、上下の花道で離れていて、その距離が親と子の気持ちの距離感として捉えることができた。亀吉と熊五郎が再会するシーンで八百屋が登場し、ラストでも登場したが、メインの登場人物である親子の間の愛が第三者である八百屋にもその幸せが伝わり、客席にも伝わっており役者も観客も幸せになれた気がした。

 所作の姿勢やお辞儀、座り方などが美しく、暗転までのパントマイムなどの体の使い方が良かった。感情がよく伝わってきて、お徳が亀吉に金槌を振り下ろそうとしているところでは、お徳が震えていて感情の起伏がよくわかり、表情なども分かりやすくてよかった。台詞に抑揚があったため座っている演技が続いても飽きることがなかった。

 装置の台は場面に応じた多様な使い方がされていた。壁は家ということがわかりやすかったが、その撤去のための暗転が長いのではないかと思った。和風の曲で始まることで落語らしさを表し、一方で中盤では洋風の曲が入っているので現代版落語として新鮮さを感じた。照明が自然で気持ちが途切れることなく見ることができた。例えば、八百屋の登場シーンや花道の熊五郎と亀吉が出会うシーンが生きていた。その暗転中に熊五郎と番頭の会話が流れることによって話が途切れず、暗転中に飽きることがなかった。お徳が亀吉に問いただす場面では、照明によって限られた空間を作ることで、母と子の絆の強さがわかった。工夫をすべき点としては、お松が熊五郎の家に来た時にお松の生活能力のなさを表現するため、酒の瓶を転がしたり家の中を散らかしても良かったのではないかという意見もあった。

 全体を通して、温かくて見た後に幸せになれる劇だと思った。現代の家庭に失われている暖かな家族の繋がりが大切であるということを教えてくれる作品であった。



《専門家・顧問審査員会》


 古典落語を舞台用の脚本に再構築し、それを見事に演じきった作品で、全体として、日本の伝統文化の持つ品の良さに裏付けられた舞台に仕上がっていた。また、作品のテーマも「家族愛」だったことで、この芝居を安心して鑑賞することができた。しっかりと統制と連携がとれたスタッフワークと、役者の力量の高さに裏付けられた大変にレベルの高い舞台であったと思う。高校生がこれだけ完成度の高い見事な舞台を作り出すことができるのかと、ただただ感心させられた。

 BGMに英語の歌詞のブルースが用いられた場面があったが、意外と古典落語とマッチしており驚かされた。日本の古典芸能をベースにしたアメリカの黒人文化とのコラボレーションに、芸術文化には国境や垣根がないことを改めて感じさせられた。この意味でも大変に意欲的な試みであり、表現や舞台芸術の可能の広がりを実感した。

 ゆっくりとしたリズムで淡々した語り口や、子役のややかん高い声も古典芸能を意識したものであろう。全体的にとても上品で、よいテンポ感も出ていた。また、後半に、度々、突然現れては笑いをとっていた八百屋の存在もいいアクセントになっていた。偶然、久しぶりに親子が再会する場面では、舞台を隔てて上下の花道でやり取りが展開されることで、互いの気持ちの微妙な距離感が感じられた。このシーンでは、今回会場となった知立市文化会館の花道の壁面が漆調の意匠であったことも古典作品には効果的に働いていたように思う。また、ラストシーンでは子供を挟んだ親子3人の姿で「子は鎹(かすがい)」を表現していたが、その形がとてもよく、熊吉が嬉しそうに語った「だから金槌で叩かれそうになったんだ」という落ちは、客席を温かく幸せな気持ちで包み込んだ。このような小粋な演出が随所に施されておりとても見事だった。

 和服の着付けがしっかりできていたことにも好感を持てた。普段、着慣れていない和服での演技では、多少の動きで着崩れが起きないかと心配していたが、しっかりと着こなして演技ができていたことにも感心した。セットが平台と壁だけのシンプルなものであったことや、その色が淡い水色で統一されていたことで、品があり落ち着いた舞台が作り出されていた。

 このように、しっかりと考えられ、鍛えられて作り上げられたとても完成度の高い作品だったが、敢えて改善できるポイントを挙げるとするならば、以下の事柄が考えられるのではないか。

 まず、ラストシーンの作り方について、照明に暖色系の色の明かりを使うことで、ハッピーエンドをより際立たせる演出になったと思う。また、暗転時間が少し長かったのがもったいなかった。子供の泣き声で暗転をつなぐ工夫も見られたが、作り方次第で暗転なしで演じきることも可能だったのではないかという指摘や、暗転していてもスタッフの動きは見えるので、むしろ見せてもよかったのではないかという意見も審査員の間で出されていた。

 もう一つ、大人の目線で注文をつけると、女郎のお松が語るシーンがあったが、仁王立ちで強めの口調で語ってしまっていたのが少し残念だった。しなっとした色気のある女郎の演技があればよかった、というのは欲張り過ぎであろうか。




 (三重県)高田高校 上演10

○「薬指の約束」 西尾 優 作

《生徒講評委員会》

 劇を観終わった後、私たちの頭の中は様々な憶測が飛び交い、一種の混乱状態に陥った。
 震災の起きる当日にクラスパーティを開きその日の午後に短期留学に旅立ったノゾミ。彼女はクラスメイトの死と入れ違いに生き残った。それから一年後、飛び降り彼女は死んだ。彼女が笑顔を見せた最後の記憶から彼女が飛び降りるまでの期間、その表情を見ることはできなかった。劇の世界観は、ノゾミがみた幻想という意見や、最初の懐中電灯の光はクラスメイトの魂ではないかというものも出た。

 冒頭の薄暗い中に無数の懐中電灯が辺りを照らす様子は、不気味な印象が与えられ劇の世界にグッと引き込まれた。光がノゾミに当たり、影が四方に伸びるさまも、効果を引き立てていた。前半部分は、卒業してしまっても仲が良く明るい楽しいクラスというのが伝わった。そこから、役者の練習量や普段の部活全体の雰囲気の良さが伺えた。後半は、楽しくはしゃいだ前半とは逆であった。ノゾミがユッコの薬指を無理やり触ろうとしたレミをビンタし、一瞬で空気が変わった。ノゾミとユッコの二人だけの会話が続き、さらに観客を惹きつけた。最後に緊急地震速報の音が鳴り、セットが倒れ青いホリが現れた演出からは、津波が家屋を崩すイメージが伝わってきて大きなショックがあった。この劇では、ポッキーの日で11日、卒業式後すぐのクラス会で3月、真っ暗な廊下は死後の世界伏線や暗喩を用いた表現が多くあった。特に印象に残ったのは、プールに対して「今入れても汚れるだけなのに」、「溢れたらどうするつもり」と言っていた先生の台詞は今の原発に対する国の対応の批判と現れており、震災のことを表していた。このような表現は世界観や場所がわかりにくくするという意見があったが、それが劇のラストでの衝撃を強めた。

 震災以降、多くみられたのは震災で命を落とした人々の想いや願いを描いた作品であった。今回の作品では、生き残った人に焦点を合わせ、生きる辛さや苦しみ、絶望が込められていた。大切な人を亡くした辛さは想像を絶するだろう。この劇ではノゾミは自殺してしまう。その時の演出は不気味で、恐怖すら感じ死ぬことの怖さが伝わった。生きようと強く思った。また、高校生にとって日常的な椅子が舞台上から無くなる度に照明が揺らぎ、死を連想させた。これは死というものが高校生にとっても決して非日常的なものではなく、すぐ身近にあると思わせた。クラスの飾り付けを外しそれをゴミ袋に入れたが、ノゾミはそれを捨てたがらなかった。津波の被害で持ち主のわからない遺品と重なったのではないだろうか。

 タイトルにもある薬指は、ノゾミがユッコに対して、死んでしまったことを謝ってほしいという想いを込め、浜辺に打ち上げられた死体の指を切った。最終的には自分の薬指を折ることでユッコに近づきたいと考えたのではないだろうか。講評の中でも意見が多く分かれていたため、一概にこの考えが正しいとは断言出来ない。想像力をかき立てる演出は観る人によって感じ方は大きく違うのではないだろうか。



《専門家・顧問審査員会》


 主人公ノゾミが自殺する象徴的なシーンから始まり、ノゾミが留学前する前にお別れ会を催すクラス仲間との何気ない会話の中で、一人ずつ、教室から出て行き、出て行った後に照明がかすかに暗くなり、物語が進むに連れて、その照明効果が少しずつ暗さを増していく…最後までどうなるのか目が離せませんでした。

 俳優の皆さんの演技は、日常を切り取ったような自然さがあり、リアリティを生んでいました。教室の様子の描き方も全員が均一的でなく、一人の人物として舞台上に存在しており、アンサンブルもよく整理されていました。

途中でノゾミが平手打ちをするシーンでは、会場全体の空気がグッと変わりました。動き一つで空気を変えるのは非常に難しいのですが、ノゾミを演じた彼女が平手打ちするまでの役の「前提(今までクラスの中で何があったのか、どう思ってきたか等)」を自分の中でしっかりと持って演じていたからだと思います。平手打ちの後にノゾミとユッコの抑制の効いた演技の中、シゲルが面白おかしく騒ぎながら教室を出ていく二つの時間の重なりが、女子二人の気まずい雰囲気がより際立っており非常に効果的な演出でした。

俳優それぞれがセリフとして書かれていない役の状況を理解して演じていたからこそ、舞台上で繰り広げられるシーンを一つ一つ想像しながら観ることが出来ました。観客が自由に想像出来る分、薬指にまつわるノゾミとユッコの関係性とラストの震災について描かれる部分は、伏線は劇中にたくさん盛り込まれていますが、二人の過去に何があったのか、震災で実際に起きた事象など、もう少し具体的なエピソードを語ることで、より説得力を持って作品が観客に伝わったのではないかと思います。

俳優の出入りとともに照明がほの暗くなっていく繊細な効果や、緊急地震速報が大音量で響き渡わたって海に変化するシーンの屋台崩しなど、スタッフワークにも作品の意図が行き届いており非常に効果的でした。

 主人公の繊細で不安定な心の動きを丁寧に描いており、最後の幕が降りるまで緊張感のある、惹き付けられる作品でした。




 (愛知県)刈谷高校 上演11

          ○「17歳」  刈谷高校演劇部 作

《生徒講評委員会》

 怖さを感じさせながら、胸が締め付けられるような劇だった。
 愛理は幼少期に両親に捨てられた過去をもつ。そんな愛理は17歳のある日、中学時代の担任・ユメコ、卒業した先輩・ユウキ、友達の幸子と共に、突如現れた一号・二号・三号に連れられてゴミの世界へ。そして4人は子どもたちから自分たちは捨てられたゴミだと告げられる。愛理以外の3人はこの世界から出ようとするうちに、自らが捨てるべきゴミに気づく。3人が前に進んで行く中、愛理もまた、未来への決意をするが…。

 劇中の愛理は17歳。私達の中のほとんどを占めているこの年齢は、大人にも子どもにもなれるとても自由な年齢であるとともに、その自由さ故にどちらにも完全に属すことはできない。また、たくさんのことに思い悩む不安定な年齢でもある。ゴミの世界に入ってから露骨になった、将来や友達への不安、自分の未知の世界へ踏み込むことへの怖さ、それに対して、外も見てみたい好奇心という、相反する2つの思いに私達は共感した。幼さを捨てられず大人にもなれない愛理の気持ちに共感でき、感情移入がしやすかった。

 劇後半で、一緒に来た3人が光の中へ消えていき、一号・二号・三号が置いていかれた愛理に語りかけるシーンで、『愛理が一人になることを願ったんでしょ』という台詞が出てきた。ここで3人の子どもたちの台詞を聞き、愛理の姿を見て、私たちは、彼女が何からも捨てられた存在だと思った。彼女は、『ただ要らない』と、親からさえもぞんざいに扱われた子だ。そんな愛理の姿を見て、胸が締め付けられた。

 愛理が未来へ向かっていく決意の言葉は、自分が捨てるべきものに気づいたかのように思えて、観客に一旦安心感を与えた。だが、その直後の『すてきな未来をつくるんだ』という台詞で、作り直したはずの両親は歪な容貌をしていた。傍から見たら全く親とは思えない二体の虚像と、さも両親と一緒にいるかのように笑っていた愛理の姿が怖かった。両親を作りなおしている姿は、青色の背景に映るシルエットによって恐怖感が引き立てられていた。特にシルエットは、役者の動き方によってより一層不気味さを増していた。ここで私達は、両親のつぎはぎの服は、愛理にとって都合の良い思いだけを繋ぎあわせたものなのではないか、と考えた。

 子どもの世界は0か1で中間がない。彼らにはすべてを持とうとする独占欲がある。他の3人は前に進む、つまり、大人へと近づくためには自分の何かを捨てる必要があると学び、成長をすることができた。しかし愛理は、自分が置き去りにされた理由を都合よく捉え、何も捨てようとせずに、更なる幸せを求めようとしたのだ。その証拠に彼女は新しい世界には出ようとせずに、彼女なりのネバーランドで、捨てられたゴミから新しいものを作り出した。これぞ、彼女が成長できずに、捨てられてゴミになった理由だろうか。この17歳という年齢を私達はどう乗り越えたらいいのだろうか。確かに愛理には、両親という人生の先輩がいなかったため、周りに溢れていたチャンスを逃さない方法を知る術を教えてもらえなかった。親は子どもの精神的成長にも大切な存在だ。彼女が本当に求めたのは幸せな生活という結果でなく、それをもたらす両親だったのだ。家に帰れば温かい家族がいる私達は、もっとその幸せを噛み締め、大切にしていこうと思った。この17歳という年齢を私達はどう乗り越えたらいいのだろうか。確かに愛理には、両親という人生の先輩がいなかったため、周りに溢れていたチャンスを逃さない方法を知る術を教えてもらえなかった。親は子どもの精神的成長にも大切な存在だ。彼女が本当に求めたのは幸せな生活という結果でなく、それをもたらす両親だったのだ。家に帰れば温かい家族がいる私達は、もっとその幸せを噛み締め、大切にしていこうと思った。



《専門家・顧問審査員会》

 「ゴミの世界」を舞台とした独創的でファンタジックな舞台設定に、まず魅了された。ゴミ三人娘?の息のあった演技がとても良く、ゴミを使った衣装なども工夫されていた。ダンスもよく練習されていたように思う。不規則な時計の音も効果的であった。照明については前明かりのない暗い中での演技が多かったのが少し残念であった。またもう少しセットの高さがあった方がシルエットが出て良かったとの意見があった。

 ストーリーからは今の高校生の心情が伝わってきて、胸がしめつけられるような気持ちになったとの意見があった。少し残念だったのは、設定に関する説明が不足していたために、観客に難解な印象を与えてしまった部分があったことだろう。特に「先輩や先生が新たな目標を見つけたため、愛理がその存在を消してしまった」という設定や「小さい頃はゴミでつくった親でも本当の親に見えていたのに、大きくなった今ではただのゴミにしか見えなくなってしまった」という設定は、よく考えられていただけに、もう少し劇中でヒントを示すような演出をしたほうが良かったように思う。愛理がこの閉じた世界の中から出たくないと思う理由が伝わるように、この「世界の甘美さ」というものをもう少し描いたほうが良いとの意見もあった。また同じ「捨てられる」にしても、経済的理由などで仕方なく捨てるのと、育児が面倒くさいので捨てるのでは、ストーリーの展開が違ってくるので、父と母にどんな言葉で捨てられたのかが大事だという意見もあった。ラストで主人公が倒れてしまうのは見せすぎだったという意見があったことも付け加えておきたい。

 細かいことをたくさん書いてしまったが、重厚なストーリーと役者の懸命な演技に、大きな感銘を受けたことは間違いない。今後もこのような骨太の芝居をどんどん作っていくことを期待します。




 (富山県)富山第一高校 上演12
            ○「なんとなく、D組。」 ケンとユウsと愉快な仲間たち 作

《生徒講評委員会》

 意思がバラバラな2年D組通称ダメ組は、文化祭の出し物決めについて悩んでいた。文化祭実行委員に指名された三谷透が『おわら節』をやろうと提案し、みんなはそれに『なんとなく』賛成した。そんな非協力的なクラスの一員である相川始と高橋希美に悲劇が起こる。2人はぶつかったことにより人格が入れ替わってしまったのだ。おわら節を練習する中で、男女が本音をぶつけ合ったりしたが、入れ替わった相川の失言により話は急展開していく。

 劇全体のテンポが非常に良く、漫画的かつ非現実的な展開にもかかわらず、観客を引き込むことができていた。役者たちの話し方も高校生らしく気楽に楽しく観ることができた。希美が、相川と入れ替わった後にもらす「クラスの友だちにばれたくないと思っていたけれど、気づかれないとへこむ」という台詞や、みんなが自由気ままに振舞っていてクラスはバラバラという様子から、“自分を主張しつつ思いやる大切さ”というメッセージが伝わってきた。脚本の中に富山県の越中八尾のおわら節が取り入れられ、女踊りの編み笠をかぶり自分だけの髪飾りを見せるという衣装について語られているが、この劇のメッセージと上手くリンクしていた。

 男女の特徴を捉えて劇の中で上手く表現していた。その一方で、女子の悪い内面を表現しているが、男子の悪い面の表現があまり描かれていないように感じられた。男女が互いに本音を言い合うシーンでは、女子の男子に対する言い分が単なる粗探しの発言じみていたので、男女がもっと平等に描かれていると良いように感じた。

  『なんとなく、D組。』という題名は、“なんとなく”集まって、“なんとなく”決断して、“なんとなく”付き合っている、適当な人間関係を表していて、「クラスはぬるま湯」という言葉にもそのようなことが含まれていると思った。

 劇中に出てきた言葉として“LINE”は、一般的に悪口を書きやすくいじめに繋がりやすいなど否定的に描かれることが多いが、この劇では、三谷がクラスのグループに入れてもらえたことが「友達になれた」と肯定的に描かれていて、新鮮さを感じた。

 人格が入れ替わるシーンは、2人の個性がきちんと説明される前に入れ替わってしまい、そのまま話が進んでいくので、観客が置いていかれてしまった。また、そのシーンでのホリゾントの色が赤のみで、衝撃を表すには大袈裟に思えた。ここは、地明かりを点滅させるなど別の演出方法でも良かったのではないだろうか。

 この劇で、自分を主張しすぎてはいけないということや、周りの人と協力し合って一つのものを創り上げる難しさや尊さを感じることができた。自分のことを気付いて欲しいという気持ちもとても共感できる。それは、女子だけではなく全ての人間に通じることで、自分の髪飾りを輝かすのは自分なのだと思った。



《専門家・顧問審査員会》


 勉強しない、先生の話を聞かない、ダメな「D組」。でも明るくて元気でにぎやかなのが良いところ。どこの学校にもそんなクラス、ありませんか? 自分がもしD組の担任だったら、しょっちゅう振り回されて小言ばかり言わされて大変だけど、とても楽しいだろうなぁと思いながら観ました。舞台にはパネルもなく、いわゆる学校の机や椅子もなく、記号としての椅子や教卓があるのみ。でも見事に教室の空気が感じられて、必ずしも作り込まれた装置が必要という訳ではないことを教えてくれました。ですから、入れ替わった相川と希美の二人が夜に電話するシーンも、衝立を出し入れする手間を省いて照明だけで表現することが可能ではないでしょうか。また、音響については曲数をおさえることで、練習の場面やラストでのおわら節に強い印象が残りました。小道具としてCDプレーヤーを持ち込んでいたので、そこから直接音を出してもよかったでしょう。照明については、少しシーリングが強かったためか(会場の構造上?)、ホリゾントの色が飛んでいる箇所もあったようですが、全体としては暗転やホリゾントの変化のタイミングが良く、丁寧に練習されていることが伝わってきました。

 さて、「男女が入れ替わる」というのは古くは『とりかへばや物語』に、現代では今回引用された『転校生』にも見られるように、普遍的なモチーフです。また、クラスの男子と女子の対立、からかいがいじめに発展することや、LINEのトラブルなど、どれも見ようによっては「よくあるテーマ」「よくある展開」かもしれません。しかしこの芝居は、そんなこんなが全く気にならない抱腹絶倒の物語になりました。本歌取りが見事に成功し、観客の反応も非常に良かったと感じました。相川(中身は希美)が話すだけで大爆笑です。希美が「やばーい」とつぶやくだけで大ウケです。それはやはり、構成の面白さ、そしてある意味で未完成ゆえの素晴らしさのおかげではないでしょうか。しかも観終わった後に、おわら風の盆に参加したくなったのは私だけではない、と思います。




 (石川県)七尾東雲高校 上演13

「ハイキング」   別役 実 作

《生徒講評委員会》

 舞台は戦後間もない時期である。深夜にも関らず、父と母と車イスの娘の3人は、近所の公園へハイキングに出掛ける。しかし、両親は娘の出す無理難題に振り回されて公園に辿りつけず、ついには道端にシートを広げて食事をすることになってしまう。そこへ近所に住む主婦や仕事帰りのサラリーマンが現れ、なかなか3人は落ち着くことが出来ない。さらには物乞いの傷痍軍人までもが現れ、一家のハイキングに立ち入ってくる。娘の命令を無視することが出来ない大人たち。遂には娘の命じるままに、気になって様子を見に来たサラリーマンを殺してしまう。

 この演劇を観て思ったことは、よく分からないということだ。まず登場人物たちの行動の理由が分からない。父は電柱に登り、セミの鳴き真似をし出す。傷痍軍人は自分や娘の靴下の臭いを嗅ぎ出す。真面目な顔をしながら奇妙な行動をとる大人たちの姿は、シュールで異様な世界観を醸しだしていた。また、父はアロハシャツなのに対して娘と母は冬着を着ているなど、登場人物たちの服装の季節感がバラバラで違和感を覚えた。さらに、台詞の中に「ちょっと」「あれ」「それ」「なんとなく」など曖昧な表現が何度も使われており、具体的に何を言いたいのか分からない場面が多々あった。これらの演出をごく自然なやりとりに取り入れることで、不条理さがより一層際立っていた。

 物語の脈絡のない展開は、観ている私たちに大きな疑問と不安感を与えた。講評委員会では、掴み所のない内容を、観る人それぞれが自由に捉えることができる演劇らしさとして前向きに評価する声もあった。一方、演者の伝えたいことが分からず、客任せすぎなのではないかという意見もあった。そんな中でいくつかの解釈が挙げられた。例えば障害をもった娘に焦点をあて、夜にハイキングに行くのは人目を忍ぶ意味があり、障害ゆえに甘やかされて育つことの哀れさを表現しているという解釈。登場人物たちを国に例え、大国に従属する小国を表しているという解釈。娘は心中にあるやってはいけないことをやりたいと思う気持ちの象徴で、意志の弱い大人たちは娘に責任を転嫁しながら、次々と禁忌を犯しているという解釈。これらの解釈に一貫して言えることは、理不尽さの中で自分の意志に関わらず何かに従ってしまう人間の弱さが描かれているということである。

 幕開けと共に流されたいかにも昭和らしい曲が、わかりにくい時代背景を理解するよいきっかけになっていた。余計な音響を入れないことで、役者の会話のテンポが生み出す世界観を強調していた。舞台上に立つ電信柱は、掴み所のない世界の中に通る一本の節を表していたのではないだろうか。電信柱につけられた電灯は、質素な空間の中で目立ち過ぎていたのが気になったという意見があった。

 難解で、観る人により感じ方の違うこの演劇は答えなど無いようにさえ思われた。私たちも、答えのない社会の中でもがきながら生きている。複雑な社会の中で、しっかりと自分の意志を持っていたいと感じさせられる作品であった。



《専門家・顧問審査員会》


 別役実の難解な不条理劇に挑み、その作品世界を見事に表している。

 開演時、「異国の丘」の曲が流され、緞帳が昇ると夜の路地裏。電信柱にゴミ箱が措かれ、リアルな舞台美術が別役ワールドを忠実に再現している。

 犬の遠吠えが深夜であることを強調し、登場人物が現れると舞台は徐々に明るくなる。オーソドックスで丁寧な演出法だが、一旦暗闇を見せておいて舞台が夜であることを示し、やがて見やすい明るさにすることで深夜なのに見えている不条理を払拭させ物語は始まる。

 深夜の闇の中で起こるとてつもない不条理な出来事を、丁寧に淡々と描いていく。一見、訳の解らない不条理劇に思えるが、散りばめられたヒントを拾い集めて行くと、戦後の日本社会を痛烈に批判した、風刺劇であることが見えてくる。異臭を放つ物、ゴミ箱に蓋をすること、見てはいけないもの、言ってはいけない事、傷痍軍人の存在、登場人物が意味するもの、脚本指定でもある上手と下手の意味、それらを紐解くと歴史の教科書には載ってない歴史の闇が見えてくる。時代の暗闇を、深夜の闇の中で起こる出来事に喩え、この脚本は出来ている。

 非常に難しい脚本をよく解析し、苦労した痕跡が多く窺える。脚本で時おり指定された登退場の方向は、あの世とこの世の方向を示唆しているが、他の場面では特に指定もなく、演出が自由に選択できる。だが、この選択が実に難しく、全ての場面で意味あり気に見えてしまう。それらの行動や台詞の一つ一つを検討し、学習して演出されている。しかしそれが観客に100%伝わるかは、また別の話である。不条理で難解なものは、どう描いてもやはり難しい。

 季節感を違えた衣裳を役者に着せて不条理感を増す演出は悪くないが、ならば小道具や装置にも共通した不条理感が欲しい。ゴミネットやゴミ箱、車椅子、松葉杖等、時代を限定する道具類を用いるなら、時代を消すための装飾がある程度必要となる。

 舞台美術の電信柱はとても良く出来ている。床面にパンチカーペットを敷いて道路の雰囲気を作ったのは非常に良い。

 照明は地明かりが少し明る過ぎる。電信柱の街灯が地面に明るい部分を作り、その周囲は薄暗がりとる照明プランで、街灯の明かりでハイキングをするのが望ましい。SSも不要であろう。

 音響は冒頭の犬の遠吠えが良いので、劇中でも要所で環境音を挿入すると、作品が引き締まるだろう。


 


 (岐阜県)岐阜農林高校 上演14

         ○「 R 」    岐阜農林高校演劇部  作

《生徒講評委員会》

 複雑な家庭環境を抱え、農業高校になじめていなかった井ノ森みゆきが、ある時姉からもらった1匹の「福島からきたねずみ」”R”と生活を共にしながら周りの環境と向き合っていく物語である。アップテンポで勢いがあり、役者の思い切ったギャグは観客をわくわくさせ、序盤から引き込まれていった。

  内容については、動物の命を奪っているという「生きていく上でどうしてもつきまとう残酷さ」を感じる劇だった。人間は欲によって自然を破壊し、原発をつくり、原発から出る放射線により自然を汚染していく。劇中の表現から、自然を犠牲にしていくことによって生きようとする人間のおろかさが浮き彫りにされている。そして、そんな人間の犠牲とされていく牛やねずみなどの生き物の姿から、命の尊さをも感じずにはいられない。命の尊さは、原発から助かるために何万匹ものネズミを殺してようやくできた放射線耐性をもつネズミもガンによって死んでしまうはかなさからも表れている。また、酪農という点からの動物の死骸を有機物として肥料にするか墓に埋めるかという命のあり方に対する見解の相違も伝わった。原発の話や高校で使ういろいろな機械から、利便性を求めた結果出てくる犠牲について考えさせられる。人間の身勝手な実験によって放射線をあびた結果、ねずみのRはガンにさせられたにもかかわらず、Rが命をかけてみゆきを守ってくれた。それは、今までみゆきがRを守ってくれたことの恩返しをして助けてくれたのではないか。姉がみゆきに対して言った「生きているんだ」という台詞も、その犠牲になった人の分まで現実を受け入れて生きていかなければならないというメッセージを強調しているように思った。

 演出面では、YUIの「Fight」の歌詞の、「がんばれ がんばれ」というところから生きる力強さを、「すべての夢はかなわないからこそ大切に生きる」ところからは命の尊さを感じた。この歌を生演奏にすることによってキャストの動きや歌とぴったりあって、よりリアルさが際立ち、自然なあたたかさを感じた。歌を効果的に劇に取り入れることに成功していた。照明ではホリゾントライトを時間経過ではなく、動物の生死など場面のイメージの色を使うことで視覚的に雰囲気が伝わった。また、無駄のない装置でスムーズな場面転換をするなど工夫された点が多かったが、場所を取られてしまい、大人数のシーンで、舞台上に詰め込まれていて窮屈な印象があったという意見もあった。その一方、キャストの人数が多いにも関わらずキャラクターの分かりやすさやキャストの一体感があり、見やすかったという意見も出た。

 農業高校がこの劇をやることにより演技にリアリティや重みがあった。観客にとってなじみのない農業を題材にしたにもかかわらず説得力があったのは、キャストの普段の生活が舞台に反映されていたからであろう。キャストの意欲が演技に表れ、とても力強く、舞台全体が活気に満ちた劇であった。



《専門家・顧問審査員会》


 岐阜農林高校 「R」これからの日本の農業の担い手となる若者たち。実際の体験が力強く舞台に反映された作品だった。

 まず舞台に立っている一人ひとりの身体が個性的で、それゆえに大勢の中にあっても、それぞれがどんな人柄か、観客にきちんと伝わる。もちろん工夫の上で、演じられた人物なのだろうが、等身大の真実の生徒たちの姿に見えたのだから、これこそが演劇の力と言って良いのだろう。

 また日頃の学校生活を描写するために作られた舞台美術の存在感は素晴らしかった。高校演劇では舞台転換の時間的制約があるために、どうしても平面的なセットとなることが多いように思う。岐阜農林高校は部員数の多さを生かして、瞬時に舞台後方に高さのある二階部分を組み上げたのだろう。その高台部分が回転し、別の場面を構成したのにも感心した。但し、劇場の奥行きのせいだろうか、回転舞台のために、舞台前面のアクティングエリアが狭くなってしまった。もう少し広ければ、よりダイナミックな群衆シーンが実現したかもしれない。

 演技・舞台美術を含む、その他のスタッフ力にも安定感があった。
 特筆すべきは脚本についてだろう。閉塞する現代社会に、これほど真っ直ぐに「生きる」ことと「死ぬ」ことを対比して投げ掛ける。動物たちの生死の現場に立ち合っての、生徒らの実感に違いない。しかし、その実感をコンクリートとアスファルトで固められた都市部に生きる観客が実感できるか。これは受け手側の問題である。だからこそ、岐阜農林にはこのスタイルで突き進んでもらいたい。原発問題についても然り。人の手に負えないエネルギー政策の欺瞞を、土と闘い、作物を収穫し、動物の世話をする手は、直感として知っているのだから。本作「R」は、TPPに揺れる2013年の日本に、切実な訴えをもった、ネオプロレタリア演劇であると感じた。




 (愛知県)刈谷東高校 上演15

○「笑ってよ ゲロ子ちゃん」    刈谷東高校演劇部  作

《生徒講評委員会》

 人気の無いラジオ局で話題作りのためにカエルのコスプレ=「ゲロ子ちゃん」にされ、新たな都市伝説になるように命じられるたま子。その後、「笑ってよ ゲロ子ちゃん」のコーナーは人気となるが、「ゲロ子ちゃん」に関するありもしない噂が一人歩きし、ラジオ局側もそれを信じ始めてしまう。けれど、同期入社の銀二だけは「ゲロ子ちゃん」の本当の姿を信じ続ける。半年後、スタジオに現れた「ゲロ子ちゃん」に恐怖し慌てふためく周囲の制止を振り切り、銀二は「ゲロ子ちゃん」と話そうとするが、周りの声に負けて本当の「ゲロ子ちゃん」を信じきれず、「ゲロ子ちゃん」に椅子を振り下ろそうとする。しかし、「ゲロ子ちゃん」が取り出したのは……。

 全体を通して、噂に流されてしまう怖さを感じられる劇だった。一度噂が生まれると、周囲の真偽の判別意識が低下し、実際には起こっていないことでも信じてしまう人間の心理が、「ゲロ子ちゃん」の過激な噂を信じてしまう場面でよく表されていた。最終的に「ゲロ子ちゃん」は、周囲の噂にあったような「ゲロ子ちゃん」になってしまったのか、それとも「たま子」のままなのかという疑問が生まれた。講評委員の中でも、銀二に対する態度に変化がないことから「たま子」のままではないかという意見と、最後銀二に信じきってもらえなかったことで「ゲロ子ちゃん」に変わってしまったのではないかという意見など、さまざまな見方があった。またこれらは、マスメディアだけではなく、友人との会話やSNSといった私達の日常の中にはびこっている問題であるとも感じられた。客席に下りたり、照明の変化が少なかったりと、今までにないスタイルでパンク的な演劇であった。

 劇中で流れる曲の歌詞を観客に聞かせることで、歌詞と場面の一致によってより登場人物の心情を表現できていた。一貫して叫ぶような発声や、ゲロ子に対して恐怖するキャストの演技などの過激なまでのリアクションからは、緊張感と焦りを感じた。役者がたびたび客席に降りる演出からは、実際の観客と劇中のラジオのリスナーを重ねて表現しており、現実と演劇との境目があいまいになるという効果があった。また、客席側に当てられた赤の照明や、客席側でマイクを使ってゲロ子に関する噂を読み上げる場面での、音響とマイクの音量の大きさは、不快を感じさせる反面、適度な圧迫感をもたらした。

 今生きている私達の現実に置き換えて見ることができ、どの年代層の人が見ても共感できるテーマだった。視覚だけでなく、役者と共に体感できる作品であった。

           


《専門家・顧問審査員会》


 ジャンクで混沌として破滅的な世界の中から、最後に一輪清らかな花が咲いた…という気持ちになった。

 観劇のあと、「人を信じるということは何か」を強く考えさせられた。過去に実際に感じた本人との体験と現在、本人に対する周囲の評価のどちらを優先するべきか。自分の印象と他人の噂は必ずしも一致しないことはしばしばである。ゲロ子ちゃんは、姿は変わってしまっても心は変わることはない存在である。しかし、姿は変わっていなくても、銀二くんの心は変わった。最後にゲロ子ちゃんが銀二くんに花束と応援幕を見せるシーンは一途で清らかな乙女に見えてしまった。キザな言い方になるが、一種の救済の女神が現れたと感じるものであった。

 舞台は、コテコテの演歌から緞帳があがる。平日午前のラジオ番組の舞台裏から物語は始まる。可愛らしいパーソナリティのアナウンスが終わると、途端に舞台は絶叫系のセリフ回しでヒステリックな場面へと変わる。絶叫的なのは切羽詰まったこの場面かと思いきや、最後までこの絶叫系が続いた。この絶叫系セリフ回しとラジオから流れるパーソナリティの声、そして話の流れを示唆する歌謡曲があいまって、見ている私たちを独特の世界へと導いていった。観客側へ飛び出し演技をするスタイルも、演劇であると分かりながらも、私たち自身もゲロ子ちゃんをとりまく世間の一人になっているのである。聴覚に訴える演出だけでなく、照明も観客の心を揺さぶるものであった。舞台は非常にシンプルな照明であるが、ボルテージがあがると真っ赤な照明が客席を包み、ヒステリックでパンクな感情をあおる。すべてが計算ずくであえて意表をつくような演出に心を奪われた。ジャンクな印象を与えながらも、役者一人一人の演技は細部まで丁寧になされていたことが、この作品が最後に清らかな気持ちにさせてくれることにつながるのではないかと思う。

 不可抗力とも言える社会的な大きな力を超えることが出来るのはやはり人間の真心なのだと感じた。




 (三重県)桑名西高校 上演16

○「な!な!な!」   kawanisi 劇場脚本部  作

《生徒講評委員会》

 2億5000万匹の精子達が、数々の試練を乗り越えて受精する。しかし、5つ子だった。受精した子ども達は母親の子宮の中で暮らすが、全員は生まれることが出来ない。一人減り、一人減り、そして最後には…。

 全体として、命の尊さ・重さがとても伝わる劇だった。

 劇の始まりはコメディタッチで描かれており、性などの描写が軽く観客が劇に入りやすかった。

 ミラーボールで精子の多さを表す表現や、「2億5000万の同志達」という台詞から、私達の命が確率の低い中から生まれたことが伝わった。劇中では障害が出来てしまった子どもと健康な子どもの両方がおり、同じ生活をしていたことから、障害者も健康な人も比べることの出来ない同等の尊い命を表していた。障害を持った子どもが途中で1人いなくなったところの表現で私達は医学的な知識がなく、一人だけをなくならせるのは出来ないのではないかと疑問があった。しかし母親が5人の中から1人を選んで育てたことは母親の「ごめんね。」というセリフで、その苦悩が分かり納得できた。わたしたちもそういう中で生まれ、育ち、今があるのだと思った。

 また現代医療では、子宮にいる時から障害があるかないかを調べることができる。障害を持っているからと中絶されてしまう現代の命の選択の問題を問いかけていた。障害がある子を資金のない中で育てるのは私は逆に、子どもを苦しめてしまうと思う。やはり実の子なのだから選択はとても悲しく苦しむだろうが、私達は頑張って代わりのいない命なのだから、育ててほしいと思う。障害への悪い見方を考えなおすべきだと私達は思った。出産を経験している人もそうでない人も考えなければいけないテーマだったのではないか。しかし、障害と分かるためのバンダナを一色で表したり、「障害」という言葉を使わずに表現したほうが良いのではないかと意見がでた。

 ラストシーンで、生き残った子どもが叫んだ「シャケだー!」というセリフには、私達は生まれてこなかった兄弟たちの分まで生きようという意志と、念願の具だが喜ぶ兄弟たちが既にいないという悲しみが表現されているのではないかと意見があった。また、幕が降りた後、残った子どもがこの後どうなるのかを考えさせられた。名前のないまま消えていったのではなく、子ども一人一人に名前が考えられていたことが、子どもを楽しみにしていた親の気持ちが表れていて良かった。セットはお母さんの子宮の形に似ており、色が白で柱があったことから神殿などの神聖なものという見方や、一つ一つの段が大きかったので出産までの試練を表しているのではないかと意見がでた。しかし、段が大きすぎて足音が降りるたびに響いていたのが惜しかった。精子たちが子宮に辿り着くまでの、精子を守るための粘液や精子の数の多さが照明で表されており、その時の状況も分かりやすかった。この劇を見て、私達一人一人の命の尊さが伝わり、そう簡単には死んではいけないと思った。




《専門家・顧問審査員会》


 テーマとして、命の選別、障がいなど生命倫理や人権に関する問題を提起する作品であった。2013年4月に新型出生前診断の実施が始まり、その是非が問われ、生命倫理についての関心が高まっている今日、生命や障がいの問題に真正面から向き合ったこの作品の意味は大きい。

 前半の勢いのある演技が素晴らしく、エンターテイメント性も高く観客席を一気に惹きつけた。特に、オープニングで「神田川」(かぐやひめ)のイントロで若くて貧しい夫婦をイメージさせ、夫婦の営みをコミカルに表現し、そして間髪を入れずに精子たちが登場し卵子というゴールを目指して命がけのレースに挑む展開と演技は秀逸であった。舞台セットでは、白い平台を積み上げてその上で演じることで高低差が生まれ、舞台全体にうまく立体感を作り出していた。更にそこに、ミラーボールでゴールを目指して競い合う2億5千万の精子を表現したことや、照明のメリハリでシーンの展開を巧みに表現したことなど、シンプルな仕掛けで飽きさせることなく進行させた。暗転を最小限にとどめたことで、観客の集中を途切れさせることがなかった点もとても良かった。

  「受精卵に意思や人格がある」という設定で舞台が展開されていくが、この5人の演技が大変によく、キャラクターについて特に説明がなくても、それぞれの人格や個性を役者が演技の中で見せきっていた点も素晴らしかった。

 さて、舞台上で「障がい」という台詞が出た瞬間に、会場全体に緊張感が走り、シリアスな静の舞台へと変化した。全体としてはこの「動」から「静」への転換でメリハリが利いていたと言えるが、この「静」に転換した中盤が少し長く、説明的なやり取りも増えて、やや停滞感を感じた。

 場面展開のきっかけとなった「障がい」という台詞については、言葉が強すぎて、戸惑った観客も少なくないと思う。「障がい」という言葉を使わずに、バンダナで象徴させたり、バンダナの色をすべて黒に統一し、付ける位置などで各自の個性として象徴させてみても面白かったと思う。思い切って説明的な場面を省き、象徴的なアイテムを示すことで観客自身に考えさせる勇気があればもっとよかったかもしれない。また、その描き方が健常者の目線で作られている感じがして、障がいのある観客に誤解を招く危険性もあった。特に一番最初に頭に障がいがあることが明らかになったセイシロウが自ら退場していく場面では、「障がいがあることは悪いこと」と誤まったメッセージとして受け止められる可能性があり、危なっかしく感じた。もちろん、作り手には、そのような意図は全くなく、むしろ真摯に障がいや生命の選別の問題に向き合って作っていることはしっかりと伝わってきたが、作品のテーマがデリケートな内容を含むものであるだけに、表現手段や方法には、もう少し慎重な工夫があった方がよかったのではないかと感じた。

 高校生が生命について真正面からまじめに考え、障がいについても目を背けることなく向き合って作り上げたこの作品は、大変に素晴らしい実践であり、同世代の観客の心にも強く深く響いた作品であったと思う。




 (愛知県)滝高校 上演17

○「星のオモテ 月のウラ」   瀧 源作  作

《生徒講評委員会》

この物語は、地味でオタクな天文部が、華やかで気の強い放送部に協力を頼んで、文化祭の企画であるプラネタリウムを完成させるものだった。

 人目を気にする天文部は、自分たちにプラネタリウムのナレーションは無理だと言って放送部に頼みに行く。しかし、放送部は、天文部を目立たずオタクでかっこ悪いと馬鹿にしていて、天文部の要請を無視し自分勝手に企画をかき回していく。そんな2つの部活がぶつかり合い、望まぬ暴力沙汰や放送事故、投影機の破損により学校中に両部活の悪い噂が流れ、放送部内部も険悪な雰囲気に――。そんな中、放送部部長の美穂は、天文部部員から「月は自分では光らず、太陽の光を反射させて光っているだけで、裏側は真っ暗」という話を聞いた。明るい表面だけを見せ、裏側を他人に見せることができない美穂は月のようだということを言われ、自分もそれを認める。それにより、ただ良い部長でいようとする自分を改め、自分の意見を放送部員に伝え、部活自体のまとまりを取り戻すことができた。そして、天文部・放送部がお互いを認め合い、プラネタリウムを完成させた。

 役者の演技が丁寧だと思った。美穂が周りに合わせて笑っている時に時々うつむいたり、七海が階段で座っていじけている時に少し目元を触ったりなど、細かい動作や目線で心情を表現できており、リアルな感情が伝わってきた。

 天文部と放送部の噂が飛び交うシーンでは、複数のスピーカーから声を流すことで、内容を観客に聞かせたり、いろいろな場所で聞こえてくるようすを表現できていた。しかし、囁かれる噂としては音が大きすぎると思った。また、生徒が歩き回り噂話をしているところは、シルエットにせず、顔を見せたほうが日常のリアルさが表れたのではないだろうか。

 天文部新入生の綺音のハーモニカ演奏は、舞台の雰囲気を壊さず全体に調和していた。また、生演奏にすることによって、プラネタリウムの自然エンターテインメントを引き立たせていて観客を楽しませることができていた。

 装置が使いまわせるので場転が少なく、観客の心を放すことなく最後まで飽きさせない劇であった。暗転が無いことでラストシーンのプラネタリウムが映えていて、観客の目の前に映る星に魅了された。

 この劇を観ている中で、メッセージとして受け取ったのは、“認め合うことの大切さ”だった。自分を認め、考え方や想いを届けるということは、私たち演劇部にも当てはまることであり、自分が思う演劇部としてのあり方を考えさせられた。“伝えること”“理解しようとすること”というのは、人間関係において大切なことなのだろう。

 高校生の青春が楽しく描かれており、後味も良く、心の洗われる爽やかな劇で、大会の最後を飾るのにふさわしい作品だった。




《専門家・顧問審査員会》


 高校生らしく素直なお芝居であったので、観劇し終えて後味の非常にさわやかな作品であった。舞台は、とある高校の華やかな立ち位置の放送部とオタクで地味な天文部とのスクールカーストの両極にある2つの部活動の対立と、それぞれの部に所属する生徒たちの文化祭でのどたばたを描いたものである。最初は、全くなじまない2つの部活動ではあったが、集団としてのレッテルを外し、個としてふれあいはじめてきちんとお互いを認めあえるようになっていくという基本的な物語の構造が非常に分かりやすく、観客として安心して物語に身を任せることができた。

 物語の中で目を引いたのは、不器用で要領の悪い天文部員が、放送部に暴力沙汰をでっち上げられ、窮地に追い込まれたときに、校内放送を用い演説をするシーンで、ガリレオガリレイの「それでも地球は回っている」ということばを用いて、劇中の自分たち天文部の正当性を訴えた場面で、それまでの物語の流れから、必死に訴える彼らの姿を思わず応援している自分があった。また、見ようとしなければ決してみることのできない天文部の星に対してのまっすぐで美しい気持ちがお互いの関係を変えていく様子が非常に印象深く、表題でもある「星のオモテ 月のウラ」がきちんと観客の前に提示されていたと感じた。後半劇中で天文部のあやねが吹くハーモニカの音色は非常に美しく、放送部の女子の心がほぐれていく様子が非常に美しく描かれていた。印象的な美しいシーンが多い作品であった。

 スタッフワークに目を向けると、舞台照明、舞台装置、役者の演技が非常に訓練されており、演劇を作る集団としての滝高校の質の高さがきちんと伝わるとにかくさすがのひとことであった。それぞれの場面がきちんと見えるように工夫され、場面転換を容易にする舞台装置。場面転換での役者のストップモーション、場面に即した華やかな衣装など、スタッフワークがすばらしく、観客を劇世界にきちんと引き込むために有効であった。様々な部分から、滝高校の演劇部のひとりひとりがこの物語を愛し、それぞれが細かい部分まで意識し、工夫し、取り組んできたことがきちんと伝わる舞台であった。

  最後に少しだけ欲を言わせていただくと登場人物の起こす事件や議論が非常に優等生的であるので、もう少し冒険したり、はみ出したりした部分があってもそれがスパイスになってもっと味わい深い良い芝居になるのではないかと感じる部分もあったことを言い添えておきたい。