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第67回大会へ

第67回中部日本高等学校演劇大会

各校別講評文

 講評文は、生徒講評委員会と専門家・顧問審査員会のそれぞれで話し合った内容をまとめたものですので、HPでは文章を書いた個人名は省略します。

恵那 福井商業 中村 野々市明倫 三重
富山第一 名城大附属 北陸 一宮 池田
北陸学院 東海学園
砺波
岐阜農林


                                                                               
                                                                            ○は創作


 (岐阜県)恵那高校 上演1

○「第十三次三島町高校生戦争」  稲ヶ部 美央 作

《生徒講評委員会》


 高校生の男子独特のテンションや女子の等身大の恋心に、その舞台に自分も参加していると思えるほど劇に引き込まれました。この劇のテーマは“青春”はもちろん、“協力と成長”でもあるという意見が多く出ました。
 時間経過を表す場面転換が、暗転ではなく青い照明を使い、軽快なリズムの音楽に乗りながら動くことによって、飽きさせずに見せる工夫がされていました。中川と足立の恋を、安藤と坂津が見守り、大事なところでは二人の背中を押していました。それが台詞だけでなく、自然な行動で示されていたので、私たちも二人の恋を一層応援したくなりました。
 全体的に一人一人の個性が丁寧に描かれていて、人間関係が非常に理解しやすく、一つ一つの行動に思わず笑ってしまうような空気を作り出すことができていました。登場人物の中で、山本さんの存在が非常に大きいと感じました。違う視点を持っていた四人に共通の目標を持たせて、協力し合うことによって成長させていくという役割を担っていました。大人の支えがあるからこそ、子ども達は安心して輝けるのでないかという印象を持ちました。
 装置は、一目ですぐに昔ながらの駄菓子屋だとわかりました。細かいところまで作り込まれ、のれんの向こう側も想像させるような造りでした。子どもがかかわれるような場所ということで、人の温かさを感じさせようとするこだわりが伝わってきました。

 三年間という高校生活の中で、彼らの過ごしたこの夏休みはとても短いものでしょう。けれども、彼らが将来この時を思い返してみれば、かけがえのないきらきらと輝く宝物だと思える、そんな大切な思い出になったのではないでしょうか。中川と足立がその後どうなったのか、想像せずにはいられない作品でした。岐阜県立恵那高等学校の皆さん、お疲れ様でした。




《専門家・顧問審査員会》

 「山本商店」という個人商店の行く末、登場人物たちの三島町高校生戦争へ向けて協力していく姿、淡い恋の行方が同時並行で描かれ、非常にテンポよく場転を使いながら時間を積み重ねていく演出が見事な舞台だった。特に場転の見せ方には様々な工夫とオリジナリティを感じた。場転明けで蝉の音が入り、すぐに会話が始まるのではなく空気をつくってからの始まり方。繰り返し同じモチーフの音楽が流れる中で軽快な動きとともに、時間が進んでいく演出。場転中に山本さんがノートを見るというワンアクションを入れることで時間経過の中で何が起こったのかなど観客の想像を刺激する見せ方など、非常に秀逸であった。
 全体的にテンポよく進んでいたが、最初の導入部分で三島町高校生戦争・山本商店・四人の関係性などが早口でセリフが聞き取れないまま物語が進行していく点が気になった。幕開けは観客を惹き付ける為、テンポや間を大事にすることはもちろんだが、観客は物語の設定や状況が理解出来ず始まっていくとどうしても作品に入り込めないように感じてしまう。何度も稽古していくうちに分からなくなっていくので、演出やスタッフの皆さんが初見で見ても理解できる、聞き取れるスピードなのかどうか、伝わるかどうかを入念にチェックして挑んでみてほしい。
 時間経過が自然に描かれていたが、山本商店が繁盛していった後の変化や協力していった後の登場人物たちの変化をもう少し見せることが出来ると、作品として起伏の多い作品になったのではないかと思う。登場人物の男女二人の恋模様については、過度な演出ではなく、丁寧に言葉と動きで描かれており、登場人物の繊細な心の動きを感じた。また、黒電話の音の出し方や、駄菓子屋さんの舞台セットや小道具など、細部にまでこだわりを感じる、素朴で温かみのある作品だった。




 (福井県)福井商業高校 上演2

○「アオヤマという名の時間たち」  玉村 徹 作

《生徒講評委員会》

 見終わって、全体的に作られた雰囲気の凄みを感じました。この劇の大きなメッセージとして反戦の意を強く感じましたが、さらには平等という常識のなかで無個性になる異常性や、他人任せの恐ろしさをも伝えたいのではないかという意見が出されました。
 舞台上はシンプルな装置でしたが、この劇の表現としては十分だったと感じます。上手の机は戦争裁判所の取調べの机で、この「カケラ」たちは実は裁判所で語られていたのではないかという意見が出されました。色彩は黒がベースになっており、それが虚しさや得体の知れない恐怖感をあおっていました。黒色なのは誰かの意見に染まりきってしまった色としての意味が含まれているのではないでしょうか。水野がアオヤマに話しかけるときに乗っていた椅子や、お母さんの割烹着が白色だったのは、彼にとって小さくても希望となった存在なのだと感じられます。逆に「カケラ」を手にとって読んだ後に残った木枠は十字の墓標のようにも見え、一層の虚無感を演出していました。また、「カケラ」として読まれていく紙の素材や扱いについても議論しました。画用紙は小学生、ルーズリーフは高校生など年齢に合わせてあり、また、手紙や日記という形式の「カケラ」では、文面がリアリティのある形になっており、細やかなこだわりを感じました。扱いでは、読み終わった後に破ったり丸めたり、あるいは胸ポケットにしまったりと、すべて違う対応をしていました。それは、彼の中で破り捨てたい記憶であったものや、ラブレターの返事のように破ろうとしても破れず、胸ポケットに大切にしまったように、振られて悲しい記憶ではあるけれど、彼にとって大切な記憶だったのではないでしょうか。
 役者が2人だけだったので、1人で違う人間を何役も演じていましたが一度も違和感を与えず、演技力の高さを感じました。全体を通して流れていた〈大切なもの〉という合唱曲が「カケラ」にまつわる状況にリンクした歌詞で、アオヤマの心情について深く考えさせられました。細部にまで工夫やこだわりをもった素晴らしい作品でした。
 福井商業高等学校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

幕が上がるとプラカードの立ち並ぶ情景。「かけら」と呼ばれる紙を取るたびに十字架と化している。恐ろしくも美しい絵がそこにはある。ガンダム好きの少年が戦場に駆り立てられ、敗戦後裁判にかけられ死刑判決を受けるそれだけの話。未来の空想ではなく、今そこにある危機、とも言うべき恐ろしい現実の話である。
 「はじめのかけら」(小学一年生4月の自己紹介文)と「終わりのかけら」(2025年12月24日戦争裁判所拘置所において。遺書)以外の13枚の「かけら」はどう置かれて役者は知らされておらず、無作為に選び、読み、演技しなくてはならない。その「かけら」は作文であったり、日記であったり、日常会話であったり、手紙だったり、遺書であったりする。それぞれの「かけら」はランダムに選ばれるから、メッセージは時系列を無視して語られる。吐き出される。「かけら」は読んだ後、破り捨てられ、あるいは握りつぶされ、踏みつけられる。しかしラブレターの返事は、たとえ断られたものであっても、胸ポケットにそっとしまわれるのだ。戦場でのチームワーク、初めての仲間。それが何を意味するのか。戦争は「友情」すら利用する。観ている者たちにはもうわかっている。その後「少年」は進んで戦地に赴くことがそれ以前の「かけら」ですでに語られていたからだ。そして軍曹はどついてこう言う。「賢いヤツは軍隊では必要ない。」
 痛烈な戦争批判、社会批判のメッセージの中で、「少年」の感情の機微を淡々と、木訥に、言葉を大事に表現している姿勢にはとても好感が持てた。そしてその「僕」を舞台の上で支えているのは、母であったり兄であったり、女友達だったり、軍曹や「同期の桜」でもあったりするパートナーである。彼女が動くと状況が動く。舞台を支配しているのは彼女だとわかる。そして役者二人だけで、飽きさせず、十分に舞台空間を埋めている。未来のシミュレーションやエピソードがパターン化されて安易であると思える部分もあるが、それほど安易にパターン化されているのだ、現実が。
 観る者に考えを委ねるというやり方は諸刃の剣ではあるが、「彼」のキャラクター・存在によって成立していたと思う。



 (愛知県)中村高校 上演3

「ヤマタノオロチ外伝」  亀尾 佳宏 作 (藤澤順子 潤色)

《生徒講評委員会》

 今回の劇全体を通して「豊かさとは何か」ということを考えさせられました。性格や考え方が対照的なヤマタとオトは、ハガネの使い方に象徴される価値観の違いにより、豊かな国を作ることはできませんでした。誰が王になったとしても同じことを繰り返してしまうということを、ヤマタの客席にまくし立てるような問いかけのセリフから考えさせられ、本当の豊かさとは何を表すのかを議論することができました。
 講評委員の間では、「悪いのだーれだ」というセリフから誰のせいでこのような結末になったのかという議論がされました。ハガネを作ったオロ、ハガネで鍬を作ることを提案したオト、ハガネを使った民、民を戦にかりたてた王、オトとオロをだましたヤマタのうち誰が悪いのか、全員が悪いのではないか、誰か一人だけに責任があるのではないのか、または誰にも責任がないのではないかという3つの意見が出ていました。  
 冒頭の鍬を使ったダンスでは民が一致団結している様子が伝わってきました。また、足音の違いが民の意志の強さを表しているように感じました。劇中でオトが自然の音が聞こえなくなるなど、さまざまな場面で「音」が重要な意味を持つような演出がなされていたと思います。
 オロの存在によりオトとヤマタがそれぞれの価値観によって考え方が変化し新たな欲が生まれることで、人間の本質である欲の部分は誰にでも存在するのではないかという意見がありました。時代が移り変わっても根本的な人間の本質は同じであると見て取ることができました。
 装置や吊りものに白を使用したことによって、照明の色の変化による登場人物の心情やその場の空気の変化がうまく表現されていました。また、舞台を大きく使った装置や印象的な吊りものによって日常とはかけ離れた古代の世界観が伝わりました。
 躍動感にあふれ、舞台の上で登場人物が生き生きと生活している様子がとても印象的でした。中村高等学校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 まず目を見張ったのは舞台美術の美しさ、そして照明効果の素晴らしさでした。非常に凝った演出で楽しめました。農民たちの足踏みダンスも息が揃っていて見事でした。身体表現がとても芝居の内容とマッチしていました。ただその分、身体表現からセリフのやりとりになった時に落差を感じてしまいました。衣装の工夫も色使いなど良かったと思います。
 ちょっと全体的にスタイリッシュに傾き過ぎかなとも感じましたが、それは演技に関する問題点があったからだと思います。舞台上に二人の人物がいる場合にセリフが相手にキチンと届いているのかを今一度検証されると良いでしょう。それぞれのセリフがまるで一人でセリフを言っているのかのように感じるシーンがありました。役者に感情が溢れてしまうとセリフが情緒に流されてしまいがちです。そこはちゃんとセーブした方が良いです。
 ただし、全体的には世界観が統一されていて非常に素晴らしかったと思います。アンサンブルは実に見事でした。次はぜひ創作にもチャレンジして欲しいです。どうしてもナゼこの作品を選んだのだろう?島根県の学校が上演したものを名古屋の学校が上演するにはやはり何かしら戯曲に対抗する拘りが必要だと思うのです。観て感動したからと言うだけではないもうひとつの拘りが・・・。



 (石川県)野々市明倫高校 上演4

「ごはん時間2  青山 一也 作

《生徒講評委員会》

 この劇は、高校生に身近な進路と男女の価値観の違いをテーマにしていると感じました。それぞれの登場人物たちが、お互いの将来について語り合うにつれて、社会への不安に直面しながらも夢に向かって進もうとする姿が表されていました。また、男女の価値観の違いについては、女子の場合には仕事と家事の両立を求められる点や、結婚や出産など将来のことを見据えて考えなくてはいけないという点が損だと強く主張されていました。しかし、男子の場合には、「男のくせに」と言われる偏見に縛られている点があり、どちらも損をしているというところに気付かされました。
 舞台装置に関しては、教室の後ろの黒板の書き込みや、掲示物などから、高校生の日常を切り取ったような親しみがわき、丁寧に作り込まれていると思いました。役者がキャラクターの特徴をつかんで、それぞれが個性的なキャラクターとして動いていたことで、クラスの和気藹々とした雰囲気がよりはっきりと伝わってきました。
 劇のクライマックスで、「流れていく、流されていく」というセリフのシーンが唐突に挿入されたという意見が多く出ましたが、これに関しては、日常が明るく見えても常に不安が付きまとっているというギャップの表れだろうということになりました。あの音響は雨の音なのか、川の音なのかという疑問が出され、自分達も社会に流されてしまっているから川を表すのではないかと考えました。
 最後の、吉田君が夢を見た話をする長いセリフは、明確な答えがない社会の中で、同じように悩んでいる人々の波に飲まれている不安定な自分から抜け出して、厳しい社会問題や現実に立ち向かってゆこうとする気持ちを表現しているのだろうと考えました。そのように立ち向かうことで初めて、今まで追い求めていた夢が、現実の中で見えてくるのではないかと感じました。
 私達の身近な話題が取り上げられており、日ごろ気付かない問題を考えさせられる劇でした。
 石川県立野々市明倫高等学校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 高校生であれば、誰もが必ず悩まなければいけない「進路」についての理想と現実、それに対する希望や悩みが現実的に描かれていた。「男子だから」「女子だから」、進路を考える上で本来は考える必要のあることではないはずなのに、どうしてもつきまとってきてしまう男女平等・ジェンダーという問題。高校生のお昼の時間は、大人が介入することのない子どもだけの時間である。だからこの作品のように、赤裸々に高校生同士の悩みを打ち明けることができるのだろう。「ご飯を食べながら」という設定だったからこそ、進路に関わる男女平等・ジェンダーという深い問題をシリアスになりすぎないように作品に盛り込むことができたのではないかと感じる。
 高校生にとって身近な学校のお昼の時間を「演じる」というのは決して容易ではなかったと思うが、生徒同士の会話も台詞としてではなく、日々日常的に教室内で繰り広げられている会話のように感じられた。また、装置もシンプルであるがうまく教室が再現されていたことで、よくある高校生のお昼の時間の風景を切り取ってきたかのような、リアリティーを感じることができる作品となっていた。そして、何よりも高校生が楽しそうに演じている姿が素晴らしかった。また、特に男子生徒の動きがよく考えられており、動きを見るだけでその生徒の性格を捉えることができた。男子生徒の性格が引き立っていたからこそ、女子生徒5人の話し方や動きに課題が残る様に感じた。女子生徒のリズムよく繰り広げられる会話の中に、もう少し個々の性格が引き立つような動きがあるとより一層、演技に幅が広がったのではないかと感じる。進路というのは高校生にとって今も昔も変わらない悩みだということを感じた。男女参画社会と言われているからこそ、男女平等やジェンダーという考え方が、現代の高校生の進路に対する悩みの一つになっているのではないかと、見ている大人が改めて考えさせられるような劇であった。



 (三重県)三重高校 上演5

○「スマートフォンと黒電話」  三重高校演劇部 作

《生徒講評委員会》

 この劇では、オレオレ詐欺やスマートフォンの使い方、ブラック企業の使い捨て雇用問題など現代の問題が取り上げられていました。そのため私達にとって親しみやすく、同時に深く考えさせられる劇でした。お金に困っているものの、親に頼ることのできないマコト。娘の結婚に反対した過去にとらわれて仲を繋ぎ直すことができないハナエ。2人がそのような問題と向き合い、最後には大切な人と分かり合えた姿から「コミュニケーションの重要性」「向き合うことの大切さ」を感じました。また、スエの「スマホは自分を心配してくれる人とつながるためにある」というセリフが印象的でした。黒電話は病弱だった娘のためにハナエが無理をして買ったもので、スマホも黒電話も時代は違えど、人と繋がるという同じ目的で使われてきたのだと思いました。世代の違う3人が思い出話を通じて打ち解けあう姿から、関わりが少ないと考えられがちな若者と高齢者でも、コミュニケーションによって分かり合えるということが伝わりました。
 演出では、足の悪いハナエが足を引きずったり杖をついたり、アルバムを自分で取りにいかないことなどで示されるなど、それぞれの個性や性格が明確でした。また、花道を活用して空間の違いがうまく表現されており、観客に注目してほしい場所が分かりやすくなっていました。装置では、古い民家を示す壁の黒ずみやヒビ割れなど細部までのこだわりが見られました。特に玄関にサンダルが1足、傘たてに雨傘、日傘を1本ずつ置くことで、ハナエが一人暮らしであることが大変分かりやすく表されていました。また、ハナエが娘に電話をかけた後の場面転換では、孫の写真が置かれ、電話したことによって娘との関係が改善されたことが暗示されていました。
 全体を通して、人と人は助け合って生きているのだと改めて考えることができました。また、スマホを持っていてもコミュニケーションをとるという電話本来の用途を忘れがちな若者に、スマホの在り方を改めて見直させるためのメッセージが含まれていたと思います。温かい雰囲気があり、見終わった後、大切な人に電話をかけたくなる、そんな素敵な劇でした。
 三重高校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 スマートフォンと黒電話という、新しいものと古くさいものを二つモチーフとして並べた題名の設定が適切であり、どのような物語が展開されるのか非常に興味を持って上演に臨むことができた。
幕開き、非常に丁寧な観察に基づく民家のセットが現れたことにより、お芝居の世界に容易に入り込むことができた。壁面の汚れ、ひび割れ、舞台に配置されたさまざまな小道具が効果的であった。また、精巧に作りこむだけではなく、玄関の壁を斜めにカットすることにより平凡さを排除できていた。審査の中では、小道具などを上手に省略して位牌や黒電話を目立たせる選択肢も存在したのではという意見もあった。
 物語は、娘と上手くいっていないハナエの家に、両親と上手くいっていない失業中のマコトが空き巣に来るところから始まり、マコトの嘘からヘルパーとして振舞わざるを得ない状態になり、様々な出来事に巻き込まれていく「嘘」と「勘違い」が鍵になる構造を持っており、高校生の創作として、良く考えられたストーリーが展開された。惜しむらくは、ハナエと娘のワカナの関係性の提示が序盤のやり取りだけでは、充分ではなかったと感じられたこと、せっかく巻き込まれ型の物語構造をとっているので、もっともっとマコトを追い詰めて困った状況に持ち込んだほうが観客は楽しく興味深く見ることができたのではないかと感じた。
 劇中でハナエとスエが共通の思い出話をするシーンが秀逸であり、審査員会でも話題にのぼった。この回想シーンではあるが、回想しているその場所にいるマコトを回想に引きずり込むあたりは、今までありそうでなかった舞台表現であり、多くの審査員が好意的に見た場面であった。
役者の演技は自然であり、キャスト間のレベル差も小さく、無理がない好感の持てるものであった。特に、ハナエの演技が素晴らしかった。足の悪さが全編できちんと演じられているなど、モデルからきちんと立ち上げた演技なのではないかと思わされるぶれない演技であり、審査員からも絶賛された。全体的に、高校生がきちんと家族や社会問題と向き合い、家族のディスコミュニケーションを軸に、現代のオレオレ詐欺やブラック企業など、様々なテーマを考えながらみんなで紡いでいった創作の過程が見える好演であった。




 (富山県)富山第一高校 上演6

○「高校生 なう」  シンとヒロとリョウと愉快な仲間たち 作

《生徒講評委員会》

 この劇では、自分の気持ちを素直に伝えることの大切さを考えさせられました。思っていることをうまく伝えられないことで気を遣って、相手に脅えてしまっていた朋加が、最後にスマホのラインを通してではあっても、遙香に気持ちを伝えることで通じ合えることができた場面にはっきりと表れていました。
 旧研修センターの屋内外が黒の枠で区切られていたのは、抽象的でありながらも外の様子と連動した中の動きが見やすくて、とてもいいと思いました。照明では、外にいるときには夕焼けがホリゾントで表わされ、部屋の場面では室内灯の点いているときと消えているときの差がはっきりとわかり、よく工夫されていると思いました。
 「仮面」という言葉が多用されていましたが、講評委員の中では共感する意見が多数出されました。仮面というのは偽りのキャラクターのようなもので、仮面をかぶると今まで言いにくかったことが言えるようになり、同級生と先輩、親友とクラスメイトなどの対比から、スマホのSNSの世界と現実の場面とで仮面を使い分けることで起こるギャップの恐ろしさを感じました。その半面、顔を見ると言えないことがスマホ上で言えるという点については、SNSをただ恐ろしいものとして否定してしまうのではなく、本音を引き出すことのできる便利なものとしてみることができると思いました。
 遥香が本音を吐露する場面で、ずっと上を見上げていたことが気になったという意見について話し合いました。涙をこらえていたからだとか、周りの人の顔を見ることができないからだとか、さまざまな意見が出されましたが、下を見るとスマホに向かっていることを思い出してしまうからだろうという考え方が一番納得できる解釈ということでまとまりました。遙香が長い間抱えていた苦しみの心情を深く読み込んで表現されていて、とてもすばらしい作品だと感じました。
 富山第一高校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 舞台装置として、四隅に枠を設置することで部屋と廊下を表現しており、その空間の使い方もよかったと思う。装置にはないドアを最初に開ける役者のマイムがとても上手で、ドアの重さまで伝わってきた。このマイムのお陰で、ないはずのドアを見ることができた。ただ、その後に続く役者らのマイムが、時間の経過とともに少しずつ崩れていったのが残念であった。また、舞台中央後方にある段ボールの山は、普段使用されていない部屋として表現していること、プロジェクターを隠すために上手に利用していたのは理解できるが、劇中で活用されるとなおよかったと思う。プロジェクターの使い方も巧妙であった。女子ソフトテニス部のミーティング中に1年生がスマホでLINEをしており、その内容をホリゾント幕に映し出す。ミーティングが進みながら、LINEの会話も合わせて進むことによって、今何が起きているのかが観客に鮮明に伝わったであろう。
 舞台上に多くの役者がいても、それぞれのキャラクターがはっきりしており、また役者同士がかぶっていても計算された立ち位置で、客にストレスを与えない演出は見事であった。一部に説明的なセリフがあったものの、台本の構成がとにかく素晴らしい。旧研修センターにラジドキュ班が忍び込んでから柴田が登場するところまでの現状を伝えるスピードは巧みであった。しかし、導入部分のセリフが聞き取りづらかったのが残念であった。また、放送部と女子ソフトテニス部、テニス部1年生と2年生、という大きな対立と小さな対立があるけれど、対立する間で友人関係やクラスメイトであるなど、複雑な対立関係の描き方が絶妙であった。中盤から後半にかけてシリアスになったところで、宮田やおじさんが登場し、笑いを取ることでシリアスな場面が引き立ち、観客を飽きさせずに最後までしっかりと惹きつけていた。この作品を観たからこそ、ラストで朋香から遙香にあてたLINEのメッセージが本音かどうか考えさせられた。




 (愛知県)名城大附属高校 上演7

○「マイ・ナンバー」   ジョージ・メイスンU世 作

《生徒講評委員会》

 この劇は、主人公の裕樹がSNS・Taxi内での他人からの評価に異常に執着した様子から、「人の本当の価値とは何か」というテーマを伝えたかったのではないかと感じました。裕樹はSNSの中で、友人の慎吾がいろんな人にもてはやされるのを目撃したことや、自分の評価が上がっていくのを好きな「彩音」に褒められたことによって、現実では目立たなかった自分がSNSで認めてもらえることに優越感を抱くようになったのだと思いました。一度知ってしまった優越感から抜け出せなくなり、もっと評価を得たいと貪欲になっていく姿に恐怖を感じました。
 場面転換では、SNSと現実の境目が分かりやすく表現されていました。ホリゾントを黄色や赤色に変化させることにより、場面の雰囲気をさまざまに変えることができていたと思います。キャストの動きでは、日常とSNSとの場面を演じ分けることで、それぞれの世界観がうまく作り出されていました。また、装置の白い箱は居場所を表していると思いました。炎上の後で、裕樹が乗っていた箱を段々と友人たちとTaxiの管理人が持ち去っていくのが、裕樹が現実とTaxiの両方で居場所を失っていくように感じられました。
 タイトルの「マイ・ナンバー」について、意見を出し合いました。社会の中での裕樹自身の評価を表しており、「マイ」は自分、「ナンバー」は裕樹にとって重要な評価が数字で表されることを意味しているのではないか、才能や社会的立場などで人が無意識にランク付けされていることも含まれているのではないか、人に認められるために評価の数字をわかりやすい形で求めてしまうことを表しているのではないかというように、さまざまな意見が出されました。
 劇全体を通して、裕樹が高い評価を得るために次々に嘘をついて現実での居場所を失うことになってしまったにもかかわらず、最後まで評価に執着する異常性が、SNSの匿名であることの危うさや怖さと共に伝わりました。裕樹が追い詰められる場面での、集団の息の合った演技により怖さが一層強まっていました。名城大学附属高等学校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 SNSでの振る舞いが引き起こすトラブルを真正面から取り上げた作品である。
 「Taxi」というSNS上の仮想空間(バーチャル)と現実の教室(リアル)とを行き来する登場人物たちが、衣装や照明の変化で描き分けられていてわかりやすかった。「イイネ!」「ダメネ!」のジェスチャーも、SNS内での「評価」を視覚的に表していて効果的だった。とりわけ、アバター(SNS上のキャラクター)の動きがシルエットで表現された場面は、ホリゾントの色も役者の動きも洗練されていて美しかった。また、音響に使われているピアノ曲が、仮想現実世界の程良い"抜け感"に合っていて良い選曲だと感じた。
 最初の教室場面では女子生徒3人と西山先生の掛け合いが楽しく、観客を一気に引き込んでいた。スピード感のある応酬にもかかわらず台詞の一つ一つが聞き取りやすく、体の使い方や間の取り方も絶妙であった。また西山先生を始めとする生徒指導部サイバー課の教師たちの達者な演技にも感心させられた。右往左往する大人の姿が滑稽でありながら嫌味にならないのは、愛情を込めて描かれていたからだろう。一方、教室ではほとんど存在感のなかった裕樹は、慎吾の勧めでTaxiを使い出すと急速にのめり込み、アバター「勇気」として変貌を遂げていく。裕樹がTaxiを始めたのは想いを寄せる彩音と話したかったからだが、次第に「イイネ!」をもらって評価を上げていくことだけが目的になっていき、危うい書き込みをエスカレートさせていく。挙げ句の果てに「晒され」、「炎上」しても、何が起こったのか理解できない。そこには現実の社会で頻々と起きる事件と、それによって自らの人生を傷つけてしまった若者たちの姿が容易に重ねられる。身近に加害者も被害者も存在する高校生の視点で、彼らなりの問題提起としてこの劇を作り上げたことは意義深いと感じた。ただ、ラスト近くで級友たちが裕樹にかける言葉が棒読みなのは、もはや彼にはリアルな感情が届かないということを表していたのだろうか。「純粋な裕樹君が大好きだよ」などと言うほどに、彼らはリアル裕樹を認めていただろうか。疑問が残る。
 シンプルな舞台装置がアバターたちの多彩な身体表現を引き立てていたが、舞台両端のパネルは必要なかったかもしれない。また「マイ・ナンバー」という題は、SNSでの「評価」の意と理解はできたが、「マイ・ナンバー制度」を連想してしまうので、もう一捻りしてほしかったと思う。




 (福井県)北陸高校 上演8

「虚言の城の王子」  ほさかよう 作 (北陸高校演劇部 潤色)

《生徒講評委員会》

 この作品のテーマは、"希望"や"絶望"といったものを持ち続ける人の姿ではないでしょうか。人間は大切なものを失うことによって、簡単に絶望してしまいます。しかしその絶望の中でこそ、いつかきっと報われるという小さな希望が生まれるのだと感じました。それによって、希望と絶望は紙一重であり、常に共にあるということを考えさせられました。
 舞台装置については、同じ装置を使い回してさまざまな場所を表現することで、全ての場面に繋がりが感じられました。とくに、最初は図書館の本棚であったものが次の場面ではベッドに変わるというように、場面転換をスムーズに行う工夫がありました。
 キャストの演技では、幅広い年齢層をそれぞれが演じ分けていて、役の作り込みに対するこだわりを感じました。そのことによって、それぞれの絶望の中で思い悩んでいるさまざまな人たちの姿を、より分かりやすくしていました。
 登場人物たちが絶望するシーンでは、その時々に応じてホリゾントの色を変えることによって、一人ひとりが違う絶望を抱えているということが分かりやすく表現されていました。またそれは、最後のシーンで7人がそれぞれ違う色の本を持つことによっても、強調されていたのではないでしょうか。
 私たちは普段「嘘をついてはいけない」と教えられています。しかし、この劇の最後で「皆瀬」や「かなた」は、人生には都合のいい、奇跡のような出来事が起こると信じて、前を向いて進んでいきます。この思い込むという行為によって生まれた希望は空言であるかもしれません。けれども彼らにとって、そして私たち人間にとって、その希望は確かに未来へと進むきっかけにもなるのだということが伝わりました。
 北陸高等学校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 始まるやいなや、60分間引き込まれてしまった。
 舞台寸法に比べ、「?」と感じた舞台装置がストーリー展開につれて変化(へんげ)していくアイデアはおもしろい。図書館の書架にしてはずいぶん小さなサイズだなと思っていたらベッドになるなど、秀逸な転換と進行で違和感なく受け入れられた。ただ、今大会の舞台は間口が広く、舞台袖から舞台中央までの距離が長く、演技のためにけっこう歩いている感がした。リアルで豊富な舞台装置は、それはそれですばらしいが、シンプルで装置の数量が少ない舞台はかえって観客に想像力を働かせ、なくてもあるように見せる手法としてあり得る。但し、役者の力量が相当必要だが。
 北陸高校は人物の描写がよくできていると、審査員一同感心した。原作の力もあったのかもしれないが、高校生が高校演劇部員として演じている高校演劇作品という一定の線を超えていたと感じた。「高遠」と「月子」の関係、「そなた」と「かなた」の関係、「皆瀬」と「貴臣」の関係、さらに「桜庭」と「佐久間」、「桜庭」と「かなた」のそれぞれの事情とつながりは2時間モノをむりやり1時間に押し込めたとは思えないほどよく描かれていたし、リアルさを感じた。
 「高遠」のあのイヤなやつぶりはいったいどうだろう!「桜庭」のあの年齢表現や「そなた」との距離感の出し方、これはナニ!? どの役柄もキャラクターが立っていて、観客は思わず感情移入してしまったに違いない。「そなた」は本当に複雑な事情を背負った少年に見える!どこかのプロダクションに所属している子役じゃないの!? 大人が大人に見え、少年が少年に見えるというのは「大人」と「子ども」のどちらにも近い、一定年齢の役者が演じる高校演劇のおもしろさだ。




 (愛知県)一宮高校
 上演9

○「Everybody せい!」  一宮高校演劇部 作

《生徒講評委員会》

 この劇は、人間誰しもが持つ自己中心性について描かれていると感じました。タイトルの「Everybody せい!」は、誰もが自分の失敗を誰かのせいにしてしまうというという「せい」と、みんなが誰かのせいだと言ってしまうという「say」の二つの意味が含まれていると考えました。ラストの、今まで誰かに責任を押し付けてきた人々が存在し続ける限りヤマダは消えないということからも、自己中心的な人間が世の中には多数存在していることが表現されていました。そんな中で「ヤマダのせい」とは言わなかった社長と大輔くんの存在が印象に残りました。
 物語の中で佐藤につきまとうヤマダという存在について、講評委員では自衛・悪魔・神様・自己中心性の塊など、さまざまな解釈が生まれました。佐藤は、ヤマダが取りついたことで責任を人に押し付けるような行動に出たというよりは、もともと誰かのせいにしてしまう性格だったのではないかと思いました。ヤマダと対立する存在として描かれていた白い衣装の二人は、人間の良心ではないかと感じました。
 冒頭のヤマダの話に関連して、空き缶が責任を押し付けてきた人間の上に落ちてくるということから、空き缶とは責任を表し、自分が放棄した責任は結局自分の元へ戻ってくるのではないかという意見が出ました。また、最後に空き缶が落ちた音がした後に、キャストたちが前を向いて客席を見たのは、物語の内容が私達自身にも当てはまるのだという問いかけだったのではないでしょうか。
 役者がキャラクターや年齢に対応した動きや仕草を徹底していたため、登場する人数が多くてもそれぞれの個性が光っていました。花道を効果的に活用したり、スムーズな場面転換をしたりすることで、観客を飽きさせない工夫がされていました。
 全体を通して、テンポ良くギャグをとばしながら、心に刺さるメッセージ性にあふれるシーンを見せる作品になっており、大変インパクトの強い、引き込まれる劇でした。 一宮高校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

演劇の作り手は、「戯曲の構造」「舞台上の構成」「俳優の身体動作」の3つに加えて、「時事問題」にも先鋭にアンテナを張りめぐらせておく必要がある。日常を仔細に「観察」することによって、思いもかけない発見をし、その発見を観客とともに共有できる可能性があるからだ。スナイパーのごとく、虎視眈々と狙っていたい。
 「Everybodyせい!」の「せい」が平仮名なのは、英語の「say」と、日本語の「所為」が、掛詞になっているからである。何でも誰かの「せい」と「言って」しまう昨今の社会的無意識を皮肉っているのだ。2014年のニュースを振り返ると、某自称音楽家・科学者・地方議員・教育産業・食品産業・エネルギー産業……による、無責任な構造が世を賑わした。今回の上演は、そんな1年の締めくくりに似つかわしい、高校生による大人への「ダメだし」であった。高校生はこんなふうに大人を見ているのだということがよく伝わってきた。
 シンプルなセットで、色もきれいだ。シルエットの転換などもバッテンが見えるように計算されていた。演技も実に生き生きとしており、とりわけチームプレーが光る。会社員や社長も、高校生には見えず、なりきっていた。動作の静止も完成度を高めた。客席から拍手が起きたのは、この上演だけ。これでもかという笑いが、劇場の一体感を高め、効果的だった。直立不動のまま、きれいに倒れる演技などは、殿堂入りと言っていい。
 筋自体はラストが見え透いてしまうものの、寓話として完結されていた。劇の急所は、寓話としての不条理をどれだけ浮き彫りにできるか、であろう。さまざまな工夫が見られたし、苦心の跡もうかがえたわけだが、改善の余地はある。会社組織の生態をもう一段こまかく観察した上で、欲望の主体がピンぼけせぬよう注意しながら、流行の広がりをパンデミック化して、無責任体制の恐ろしさに背筋が凍る境地まで連れて行ってほしかった。笑いと同じ方法で不条理化できたはずだ。ともあれ、狙いが確かで、奥に秘めた鋭さを感じた。高校演劇の可能性を押し広げる快演であった。




 (岐阜県)池田高校 上演10

○「第三帰宅部エース佐藤頼道」  西野 勇仁 作

《生徒講評委員会》

 劇の内容が学校の演劇に関する話だったことから、「第三帰宅部」は池田高校の演劇部を表しているのではないかと考えました。題名にある「頼道」は人生の「寄り道」を表しており、自分の居場所を探していた頼道たちは、学校の放課後の演劇部での活動に楽しみを見つけ出したのだと思いました。それに対して「第一帰宅部」のメロスは将来を見据えており、寄り道をしない人生を全うしようする人たちを象徴していたのだと感じました。
 劇中に登場する人物名がスタッフを表す言葉をもじったものになっており、演劇は舞台に立つ役者だけではなく、スタッフがいるからこそ成り立つのだということを、再確認させられました。
 激しい動きをしても息切れをせずにセリフを発していて、普段からの基礎練習を疎かにしない演劇への真摯な姿勢が感じられました。あえて素舞台で挑むことによって、役者の動きに躍動感が増し、まるで舞台が動いているかのようにさえ見えました。そして、体全体を使うことによって、演劇の自由さ・幅の広さ・一体感などが伝わってくるような演技だと感じました。
 メロスが学校に行く意味や楽しみを見出せない負の感情が、龍となって現れているのではないかという意見が出ました。メロスは頼道を敵視しているように見えますが、頼道はメロスを自分と似ていると感じ、仲間と捉えていることからメロスと頼道が完全に対立しているわけではなく、二人の関係が表裏一体であることが表されていました。
 後半の頼道とメロスの対決シーンでは、特殊な照明器具であるソースフォーを用いて、青龍と白虎になぞらえた影を映し出していました。それにより、龍が消えたことで虎が勝利したというとてもわかりやすい演出がなされていました。帰宅シーンでは舞台脇でサイドスポットを使うことにより空間の区切りをうまく表現するなど、照明技術の高さにも感心させられました。
 役者の方全員が楽しそうに演じていたので、会場全体に池田高校の演劇に対する熱い想い、演劇を楽しいと思う気持ちがストレートに伝わってきました。演劇部員はもとより、一般の方にも演劇部としてのキラキラ輝く素敵な時間を感じさせてくれた舞台であったと思いました。
 岐阜県立池田高等学校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

舞台装置なし、俳優の肉体と声、そして音と照明の効果だけで見せきった舞台は圧巻だった。激しく動いた後に息を乱すことないセリフの応酬。舞台上の空間を埋め尽くす迸るエネルギー。彼らの演劇への情熱が物語とともに伝わってくる作品だった。
 一体どんな身体訓練をしているのだろうか。劇中多くの時間を「走る」という動きの中で演出しながら、その中での会話のやり取りやテンポを落とさず物語の疾走感を維持しているのには本当に驚いた。日頃の部活動でどれだけストイックに訓練しているかが垣間見える。しかも、大人数が出演する中で、均一的な演技ではなく、俳優一人ひとりの個性が生かされた配役と演技も非常に魅力的であった。「竜」の表現など俳優どうしのコンビネーションも抜群だった。俳優の立ち位置が変化しただけで回想シーンから現実に変化する見せ方は、俳優自身の想像力と指の先まで神経が行き届いているから見せることが出来る演出で、身体で見せる可能性と力強さを感じた。
 第三帰宅部にいる人達が、第一帰宅部のメロス達と同じように、学校や社会への閉塞感などいろいろ抱えていたが第三帰宅部に入ることでどう変化したかというところがもう少し描けていると、ラストのメロスが第三帰宅部を追っていくシーンで、作品では描かれていないメロスの未来を観客に提示出来たのではないかと思う。
 ブラック企業への批判や、一緒に何かをつくることで得られることなど、伝えたいメッセージが言葉遊びや会話のやり取りの中でうまくちりばめられており、作品全体が説明的ではなく、観ている人それぞれの立場に置き換えてみることができる「自由さ」を感じた作品だった。




 (石川県)北陸学院高校 上演11

       ○「キラキラ」  積木 智美 作

《生徒講評委員会》

 劇全体を通して、不器用でも前向きに進んでいこうとする強さが大切だと感じました。自分の意志を貫き輝こうとする寺本の勇気ある姿には、世の中はうまくいくことばかりではないということに気づいても、あきらめずに自分の信念や価値観を曲げないことの大切さを感じました。その気持ちこそが“キラキラ”なのではないでしょうか。タイトルにもなっている“キラキラ”とは、寺本の「初心を忘れない」という気持ちや、「綺麗な心を持ち続けたい」という意志が込められていると思います。それは、会社を守っていくためとはいえ道徳に反した方法で仕事をすることを許してしまう仲間に対して、人として正義感を貫くために、会社を辞めるという決断をした寺本の姿に表現されていたように思います。その姿は、「輝かしい先輩に対する憧れ」から「自分自身が輝こうとする気持ち」へ変化したという寺本の成長をも示していました。また、議論する中で“キラキラウォーター”と“コーヒー”が、寺本のキラキラしたいという純粋さと、社会のもつ“苦味”との対比を表現しているのではないかという意見も出ました。
 達が老婆の金剛寺に浄水器を売りつけたことについては、たとえ会社を守るためでも許されない行為であるという否定的な意見と、自分の信念に逆らってでも会社や部下を守るためには仕方がなかったのではないかという肯定的な意見の賛否両論がありました。この意見の相違が登場人物たちの立場に表されており、社会における価値観は必ずしも1つではないということが描かれていました。寺本が入社試験で書いた自分の作文を読んだあと、コーヒーを淹れるシーンでは、音楽を使わず、豆を挽く音だけを聞かせることで、寺本が達に対する尊敬や憧れという光を失う切なさが伝わってきました。寺本が二人分のコーヒーを淹れていたのは、達への感謝とともに、自分が前に進もうとする強い決意を表しているのだとも感じられました。
 全体的にキャストの動きの細部へのこだわりや、照明の効果的な使い方など、演出の冴えを見て取ることができる素敵な劇でした。北陸学院高等学校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 緞帳が上がりながら明かりが入ってくる。三人のOLが立っている。「キラキラしよう」誰もが持つ社会に対する期待と不安、自分の進路に意義を見いだしたいという思いに素直に取り組んでいた。一見して会社の事務所とわかる装置。ポスターや置いてある商品で「キラキラウォーター」を売っている営業所だとわかる。わかるのだが、会社というイメージだけが先行して現実感があまりない。入り口がどこからで、どこのどんな部屋に繋がっているのか。裏口は?壁の掲示物は?実際のオフィスを調査・観察して、その上で生かす所、省略する所を選択するという作業が必要である。それは装置だけでなく、具体的な仕事や行動についても必要だ。就業時間中のはずなのにあまり仕事をしているように見えない。いっそ休憩室の出来事にしてしまうという手もあったかもしれない。
 演技自体は素直で好感が持てた。軽妙なテンポの会話で話は進み、力が抜けて聞きやすいセリフは自然体で見やすい。登場人物同士の関係性ができていて、きちんと物語を紡いでいた。コーヒー豆をひく生音は心地良い。最後に豆を捨ててしまう(?)ことが、寺本ゆいの決意を表す重要なアイテムとなっているので、ひき方を変えるなどの効果的な使い方ができると思う。
 今大会の中では珍しく暗転が長い。暗転はあくまでも話の区切り、時間経過など演出上のシーンの一つとして使うべきで、転換のためだけに長い暗転になってしまうなら見せる転換にするなど方法を考えなければ。奥のパネルにある夕陽の照明、ブルーとアンバーは美しかった。ラストはSSの明かりを反射させてあおり、キラキラさせていた。様々な効果の工夫は有効なので、あと一歩ディテールのこだわりがあれば、キャストもスタッフもより良いモノを作り出す力を持っていると思う。




 (愛知県)東海学園高校 上演12
            ○「無条件で私を愛して抱きしめて」  岡 彩織 作

《生徒講評委員会》

 この劇は、「愛」をテーマとして描かれていると感じました。最後のシーンで春美が言った「無条件で愛して抱きしめたげる」というセリフから、母子の関係は血のつながりがすべてではなく、一緒に生きる時間の中で芽生えてくる無償の愛が大切なのだということが伝わってきました。
 劇中で多く登場していた「海」や「波の音」からは、羊水を連想しました。羊水は命の始まりを象徴するものであり、母体の中で子供が安心できる場所でもあることから、「海」や「波の音」は幸子や春美にとって最も落ち着くものであり、同時に人生に対して前向きになれるものを表しているのだと感じました。また、「海」は幸子の家族全員で過ごした一番の思い出であり、だからこそ、幸子は幸せを求めて海へ行ったのだと思いました。
 母が日記を書いていたのは、文字にすることで日常生活ではなかなか伝えきれない、幸子に対する愛情を伝えようとしたからだと思いました。また、幸子のセリフの中で日記をイメージさせるような日付と出来事が出てくるところから、幸子も日記をつけていることが分かりました。これらのことから、幸子が日記をつけているのは、自分に対する母の愛情を受け止めたうえで、娘の春美にも自分の愛情をいつかは知ってほしいと考えたのだと思います。
 劇中で客席へ出て歌うシーンがありましたが、母は歌い続け、幸子は歌いきることなく泣き崩れました。この違いからは、母が幸子のために嫌な仕事でもやり抜こうとする信念と、まわりで辛い出来事が立て続けに起こったことによる幸子の混乱が表現されていることが伝わってきました。また、場面転換における母と幸子二人のダンスシーンでは、親子の強い絆を表すとともに、時間経過をも表していると感じました。
 キャストの年齢に応じた演技がしっかりしており、客席を巻き込む演出の工夫がされていたことで、劇に引き込まれました。また、かずまやたっくんといった男性陣の体を張った演技が、シリアスな中にも笑いをもたらす効果になっており、劇に厚みを加えていました。ザ・ブルーハーツの「夢」という曲の「あれもほしい、これもほしい、もっとほしい」というフレーズが繰り返し使われていることで、幸子が母からの愛情や自分自身の幸せな生活を強く求めていることを感じとることができました。
 この作品から、自分を無条件に愛してくれる人は家族だけであり、とくに母と娘の間での無償の愛はより強いものだと感じました。どんな自分でもいつでも受け入れてくれる母の偉大さ、ありがたさをあらためて感じることができ、母に感謝をしようと素直に思える劇でした。
 東海学園高等学校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 よくこれだけの複雑な構造を戯曲化したと感心しました。年代が行ったり来たりしながら人間の生涯を見つめながら、親子の愛情で全体を包み込むという荒業に感動しました。舞台セットも中央のテーブルと椅子だけのシンプルなもので、情景がドンドン変化していくのも上手いです。それによって場面もスピーディーに変化して行きますし、時間も自由に飛び越えることに成功しています。そのスピードに役者の皆さんもキチンと付いて行ったと思います。滑舌が非常に良い。動きもキビキビしていて観ていて気持ちが良かったです。ただ演技が若干、記号的になってしまったかなとそこだけが惜しかったです。細かいところではネタがその時代と合っていなかったり、ケータイがその時代にあったのか、日記のシーンでサチコの全く知らない母が見えた方がいいかなとか、ダンスがちょっと合ってなかったりとか・・・まぁ、ありますが全体的にはすごく良く出来た作品だと思います。特に僕はラスト近くの海のシーン、娘が叫んだ「私が産み直してあげる!」のセリフは感動しました。ちょっと涙がこぼれてしまいました。これは女性が書いた女性のモノガタリで僕にはとても書けません。この先も作者には戯曲を書き続けて欲しいと願っています。




 (三重県)暁高校 上演13

○「ひとぉーつ!」   暁高校演劇部  作

《生徒講評委員会》

 この劇では、応援団とチア部の対立と融和が描かれていますが、二つの集団の中心人物であるタカムラとスズカの相違点と共通点が印象的でした。二人のカリスマ性は異なる形で発揮されており、タカムラがみんなで団結しようとしているのに対し、スズカは自分の考えを貫き統制することで後輩たちをまとめていました。また、二人が一年生のとき、やる気のない先輩に対してタカムラが反発から応援団として独立し、スズカはそのまま残って先輩に向き合っていました。スズカは、独立して自由に活動しようとしたタカムラに対して羨ましく思いながらも、いいかげんな先輩たちに耐えていたのではないでしょうか。だから、スズカはタカムラに対して「逃げた」と言う言葉を使ったのだと思いました。また、応援団とチア部の対立関係は、装置や人物の立ち位置を左右対称にするという視覚的な形でも表現されていました。対立はしていても、「応援したい」という思いや目標はタカムラもスズカも同じなのではないかと感じました。
 もともと一つだった応援部が応援団とチア部に分裂し、その状態が続いてしまった原因はお互いにあったと思います。部内で一番経験を積み、知識があるタカムラとスズカには、後輩たちを引っ張っていかねばならないという強い思いがあったから、逆に後輩たちの思いを汲み取ることができなかったのでしょう。そのため、「応援したい」という本来の目的を見失い、対立し続けてしまったのだと感じました。一方、タカムラとスズカについて行く後輩たちには、「先輩たちの言うことを聞いていれば大丈夫」という依存性があり、さらに応援部が分裂した原因を知らなかったことから、自分たちの思いを伝えることができないまま、タカムラやスズカの言うことに従っていたのだと思いました。
 講評委員の中で、この劇のテーマは「団結」と「信頼」だという意見が多く出されました。先輩への強い信頼があったからこそ、最終的には後輩たちが自分の思いを先輩に伝えることができ、応援部として一つにまとまることができたのだと思いました。「信頼」には先輩後輩の関係だけでなく、オカダとナルミが協力したように、同学年の仲間同士の信頼も含まれているのではないかという意見もありました。そして、目標をもって物事に挑むことの大切さについても考えさせられました。タイトルの「ひとぉーつ!」には、二つの集団が一つになるという意味や、チア部も応援団も「応援したい」という目標は同じであり、一つの目標に一丸となって向かうという意味が込められているのではないでしょうか。
 応援部の部員たちが一人ひとり目標を持ちながら活動している姿を見て胸が熱くなり、「あんな青春を送ってみたい」と羨ましく感じました。信頼の絆によって団結し、一つになることの大切さが強く伝わってきた劇でした。
 暁高等学校のみなさん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

「野球部の応援がしたい」という想いは同じなのに、考え方の違いから対立してしまった応援団とチア部の対立が青春ドラマのように熱く、そして清々しく描かれていた作品であった。
 舞台に置かれた装置は白く塗られた階段のみという、とてもシンプルなものだったが、その場に応じた演技で、屋内・屋外・応援席がしっかりと表されており、この場面がどこで繰り広げられているかが、演技を通してとてもわかりやすく伝わってきた。また、この階段を用いて、応援団とチア部との対立を立体的に描くことができていた。また、この対立の中心的な人物である応援団のリーダーである高村と、チア部のリーダーである涼香の性格が対照的に描かれていた点も印象的であった。何事も肯定的にとらえることで、部員をひきつけまとめる高村と、一方でリーダーという権力を行使して部員を統制する涼香。この二人の対照的なリーダー性が劇の随所に表れていた。同じ目的を持つ部活動であっても、統制するリーダーの性格や資質によって、部内の人間関係の印象が大きく変わることを見事演じきっていたように感じる。
 そして、この劇のキーパーソンともいえるのが応援団の岡田という存在だと言える。物語の流れが変化する場面に必ず岡田の存在があり、高村と岡田の信頼の強さを、演技を通して観客に示すことができていたからこそ、この劇全体を岡田が支えていたように感じる。応援団とチア部は岡田のはたらきかけにより、協力して野球部の応援を行うが、その応援の際に用いられた音響も、野球部が負けたことが観客に分かりやすく伝わるものが用いられており、観客を意識した演出となっていた。ラストシーンでのホリゾントを使って表された夕日も、青春らしさを効果的に表現できていたといえる。
 演者一人ひとりの個性も際立っており、リアルな高校生の青春を感じることができた。「こんな青春時代を送ってみたい」そう思わせてくれる劇であった。




 (富山県)砺波高校 上演14

「天啓を浴びながら卒倒せよ」  綾門 優季  作 (砺波高校演劇部 潤色)

《生徒講評委員会》

 今回の劇では、「登場人物5人の様子を見て衝撃を受け、自分たちの行動について語り合いなさい」ということを伝えたかったのだと捉えました。そして、個人の感情などを語り合える身近なつながりを大切にすることで、SNSの使い方を正しく理解し、正しい判断ができる人間になってほしいという願いが込められていると思いました。
 舞台装置は、灰色の背景にまっすぐ伸びる色とりどりの直線が、多くの情報があふれ飛び交う様子を表現していると感じました。劇中で彩が信の写真をツイッターに投稿した後内容が拡散されていく様子を、装置につぶやきを貼り付けることで表現し、さまざまな場所でさまざまな人物が面白がる状態を効果的に表していると感じました。
 SNSを拒絶しようとした系、SNS上でのつながりを求めすぎた彩、SNS上にしか興味関心を見つけられなかった弾という3人の状態が、SNSによって戸惑う今の若者たちの問題を浮き彫りにしていると感じました。登場人物は、身近な関係にあるにもかかわらず、SNS上の不特定多数との関係に重きをおいていることで悩んでいました。しかし、顔と顔を突き合わせて議論することで理解しあい、SNSとの共存という答えを導き出したことで、あふれかえる情報に向き合わなくてはいけないということを考えられたのだと思います。登場人物たちを集めて議論させたのは麻ですが、SNSの世界を意識しすぎて現実にコミュニケーションを取れる関係ではなかった人たちが、向き合って話をしたことで、麻はうれしかったのではないかという意見が出ました。その結果、麻もSNSと関わらずにはいられなくなったわけで、SNSに触れることは若者たちにとって必然であるのではないかと思いました。
 全体的に多くのセリフをまくし立てるように語ることで、作品全体から情報が過剰にあふれている印象を与えることができていたと思います。その中でも重要なセリフについては、間を取りはっきりと言うことで、重く受け止めることができました。こうして、劇中の出来事が現実に自分に起きていることのように感じられました。
 砺波高校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 SNSを軸とした、現代のコミュニケーションを題材にした作品であり、私達の社会の抱えるコミュニケーションの問題に取り組んだ作品群のなかで異彩を放つ作品であった。
舞台装置は、シンボリックな抽象舞台であり、色使いが非常に美しかった。また、装置の配置も適切であり、複数の場面が入り乱れる劇構造を表現する上で、観客の視点の動きまで計算し、適切な登場人物がまるでそこにもともと居たかのようにシーンを始めることのできるものであった。照明との連携も良く、ホリゾントライトが少しずつ変化していくのが非常に綺麗であり、効果的であった。
 本作品は、膨大な台詞の中で物語が進行していく。キャストは、非常によく訓練されており、上演に向けての練習にきちんと取り組んだであろうことが伺われた。膨大な台詞を叫び観客に放ち続け1時間駆け抜けた彼らの本番での集中力には賞賛の拍手を送りたい。
 演出面では、途中で出てくるSNS上での呟きをプロジェクターの効果などを使用せずあえて舞台上にアナログの吹き出しのメッセージボードを飾っていったところが、効果的であった。ただ、審査員の中には、もっともっとたくさんのメッセージボードを出したらより良いのではないかという意見もあった。また、キャストが、生声ではなく、拡声器を用いてメッセージを放つなど、1時間の流れが平坦にならないために適切であり巧みな演出がされていると感じた。
 物語の終盤で我々はSNSと切り離せない時代に生まれてしまったという諦めと怒り、だが現状としては、この世界で泳ぎ続けるしかないことが提示される。また、この世界で他人とそれぞれに伸びた糸で繋がることはたやすいが、一つ一つの糸を結んでいくことは難しいとのメッセージが投げかけられ、そこに至る過程での登場人物の葛藤は、私たちが直面している現実だと気づかされる。
全編で提示されわれわれのソーシャルコミュニケーションに対してある一定の解決を試みた作品であり、その点を評価する声が多数あった。
 今回の上演を見て、個人的には、短時間に大量の台詞を観客に提示することにより起こる情報過多状態をリアルに再現した実験的な舞台であるようにも感じ、今までにない斬新な試みであったと感じたことを付け加えておく。




 (愛知県)緑高校 上演15

「流れ星」   宅間 孝行 作 (潤色)

《生徒講評委員会》

 本当の愛とは何か、人の想いの深さを考えさせられた劇でした。謙作が夏子を一途に想い続ける気持ち、さまざまな愛の伝え方、謙作の想いに触れることで考え方が変化した夏子の姿などから、「純愛」や「人への想い」がこの劇のテーマではないかと考えました。
 講評委員会の中で最も活発に議論されたのは、最後のシーンで夜空に流れた星についてです。死んだ人を表していると思われるこの星に関して、2つの意見が出されました。1つ目は、「魔法使いが人を殺したり、死んでしまった人を生き返らせたりしてしまうと流れ星になってしまう」というセリフから、マリーは流れ星になってしまったのではないかという意見です。2つ目は、謙作が死んでしまったことが星となって表されているのではないかとの意見です。また、謙作がこつこつ集めていた星の欠片について、幸せというのは気づかないだけで、身近なところにあるということが描かれていることから、小さな幸せの象徴ではないかと考えました。
 何度も出てきたひまわりは、謙作が約束を守ってきたことの象徴ではないかと思いました。夏子を守るということ、そして夏子が好きだった先生を待ち続けることの2つの意味があるのではないでしょうか。また、ひまわりの花言葉は「あなただけを見つめている」だから、謙作がいつも夏子を見守っているという意味も含まれているのではないかという意見も出ました。
 木の影を移動させることによって、時間の経過がわかりやすく表わされていました。現代から過去の世界へ戻ったことを、装置に細かな変化を加えることと、チャルメラや豆腐屋のラッパの音などを組み合わせることで表し、昭和という時代の雰囲気をうまく表現できていました。
 この劇を見て、謙作の夏子に対する愛の深さや、優しさゆえに自分の想いを素直に伝えられない謙作の不器用さに感動しました。思い込みから謙作の愛に気づくことができず冷たく接してきた夏子が、マリーの魔法によって気持ちが変化し、謙作に感謝を伝えたいと思えるようになります。私たちも、自分のことを愛してくれる人を大切にしたいと思うことができました。
 名古屋市立緑高等学校の皆さん、お疲れ様でした。




《専門家・顧問審査員会》

 幕が上がり、まず舞台装置の素晴らしさに目を奪われた。装置は通常は見えない所や細部までしっかりと作り込まれており、中庭があって奥行も感じられ、しかも1970年代がリアルに表現されていた。物置をタイムマシンにすると違和感が出るのではと思ったが、電飾を付けるという工夫により杞憂に終わった。白いワンピースを着た黒子を使い、薄明かりの中で見せる転換は幻想的で、タイムスリップという非現実が浮いていない演出が見事だと思った。大勢でしっかりと転換をしているが、欲を言えばもう少し時間が短いとなおよかった。現代と過去で照明に変化があり、現代では古ぼけて見えた内装も1970年ではきれいな家に見えるなど、あまりにも自然に変化していたため、意識しなければ気づけないほど照明も巧妙であったと思う。
 舞台装置だけでなく、小道具、衣装、メイクも違和感なく、1970年代を彩る一部となっていた。
 役者1人1人の演技が非常にうまく、特に年老いた女性は本物のように感じるほど抜群であった。しかし、魔法使いの存在に違和感があった観客もいるのではないだろうかという意見もあった。魔法使いの登場から信用するまでのやりとりで、夏子の驚きが足りずリアルが減ってしまったのかもしれない。約2時間の脚本を60分に仕上げて上演するというスタイルを貫いている点は、称賛に値する。しかし、カットをしているため仕方のないことかもしれないが、夏子が過去に行ったのは中富先生がなぜ出ていかなければならなかったのか知りたいということであったが、真実を立ち聞きで知り、結局、夏子は何も行動を起こしていないことに疑問を感じるとの声もあった。
 全てにおいて質が高く、素晴らしかったからこそ、細かい点が気になってしまったが、誰もが最初に"すごい"のひとことを発する作品であった。




 (愛知県)滝高校 上演16

○「トキントキンでドキンドキン」  瀧 源作 作

《生徒講評委員会》

 この劇は「周りに流されることへの恐怖」を表現しているように感じました。拓が最後にガムテープで口を塞がれてしまったのは、場の空気を読まず、周りに流されなかったからではないかと思います。タイトルの「トキントキンでドキンドキン」は、劇中で出てきた擬音語からではないかという意見と、周りの意見に流されずに少数派の「トキントキン」を主張し続けることで感じる緊張や緊迫感でドキンドキンなのではないかという意見が出ました。ラストシーンでは、初めと同じシーンが全く違う人物たちで演じられていて、周りに流されることは学校という限られた場所だけで起こるのではなく、一般にどのような場所でもどのような人々の間でも起こりうる行為なのではないかと観客に問いかけているように感じました。その他にも、多数派の意見を尊重するだけでなく、個人や少数派の意見も大切にするべきではないかという意見も出ました。中盤の山場である「トキントキン」か「ツンツン」かを決める多数決では、あやが手を上げませんでした。それは何でも多数決で一つに決めることや、周りに流されることへの抵抗だったのではないかと思いました。最後に拓があやへと視線を向けた場面であやが拓から目を逸らしたのは、あやも周りの空気を気にして拓の意見を聞くことをやめてしまったからではないでしょうか。
 舞台美術では、大きなクモの巣が印象に残りました。拓が周りに絡みとられていく姿や、人間関係の中で身動きが取れなくなることをクモの巣で表現しているのではないかと思います。抽象的な装置でありながら、キャストたちの動き一つで教室や廊下といったさまざまな場所を瞬時に連想させることができ、見事な演出だと感じました。はじめのコミカルな展開から終盤のシリアスな展開までを一気に見せきるテンポの良さや、場面転換を音楽や歌、また一糸乱れず揃えられた動きやダンスによって楽しく見せることなど、最後まで劇に引き込む工夫がされていました。全く飽きを感じさせない素晴らしい舞台でした。
 滝高等学校の皆さん、お疲れ様でした。




《専門家・顧問審査員会》

 まず目を引くのは美しい舞台装置だ。高さの違うパステルカラーの六角柱が左右対称に配置され、役者のカラフルな衣装とともに舞台を彩る。背後にそびえ立つ七本の鉛筆と、ホリゾント前に張られた巨大な蜘蛛の巣(そう言えばこれも六角形)が加わり、絵本から抜け出したようなファンタジックな空間を創り出していた。
 鉛筆が尖っていることを表す擬態語は「ツンツン」か、「トキントキン」か。そんなたわいもないことからクラス内に対立構造が生まれ多数決で解決するという展開に、いくつかの恋愛模様が絡んで前半は進行する。16名の生徒がそれぞれに個性を際立たせながら、付き合っている二人、男子グループ、女子グループなどの関係の描き方が丁寧で、どの場面も楽しめるように作られている。ダンスによる場面転換や、照明、音響のすべてが計算し尽くされていて、観る者を一瞬たりとも飽きさせないエンターテイメントに仕上がっていた。
 なりふり構わぬ多数派工作の末にツンツン派が勝利を収め、小悪魔あやちゃんと鉄道オタク駅弁担当の拓くんが付き合い始めるあたりから雰囲気が変わっていく。多数決万能というルールに支配されるクラスの中で、それに違和感を持っている者も次第に声を上げられなくなっていく。「女子はスカートの下に体操服をはくの禁止」では、精神年齢クレヨンしんちゃん並みの男子たちにかろうじて笑えたが、そんな彼らが拓を吊し上げていく過程では別人のような陰湿さを纏っていく。恋愛という最もプライベートな事にさえ多数決で介入する傍若無人さには、誇張とわかっていても背筋が寒くなった。続くラストでは、別の集団に火種を投じるななみの確信犯的な冷笑が、蜘蛛の巣のように舞台を暗く覆っていく。
 同調圧力に支配される集団の不気味さは、残念ながら高校生にとって馴染み深いものなのかもしれない。SNSもスマホも使っていないが、拓に起きたことはいわゆる「炎上」である。次は誰が標的になるのかわからない不安から攻撃は過剰になり、誰が起点であったのかも定かではない。どんな些細なことでも原因になる理不尽さを、あえて鉛筆をモチーフとして表現したかったのかもしれない。ただ、多数派によって少数意見が封殺される風景は、政治、経済、国際関係などにいくらでも見られるであろうし、そうした社会的な問題を重ねて考えさせられるような工夫があってもよかったと思う。これほどの舞台を組織的かつ綿密に練り上げる力量を持った演劇部であれば、テーマを掘り下げることで、この先の物語へと観客を誘うこともできたのではないか。




 (岐阜県)岐阜農林高校 上演17

○「9(ないん)」  岐阜農林高等学校 作

《生徒講評委員会》

 努力しても誰も助けてくれない、そんな辛い状況の中でも希望を持って生きている園田たちの姿から、「どんな困難の中でも信じていれば希望はある」ということがこの劇全体のテーマだと感じました。また、周りの人間に対して閉ざしていた心を開き、自分を「希望」として信頼してくれた仲間のために戦った根本の姿から、「他人のために尽くすことの尊さ」を伝えたかったのではないかと考えました。
 物語の軸となっていた農業実習に深く関わっていた「土」は、人の心を表しているのではないかという意見がありました。根本を「土に埋める」というのは根本の心を暗闇へと閉ざしてしまうということであるという意見、土が腐ってしまってトマトが枯れてしまったというのは、心の根本が変わらないと何も変わらないということを表しているという意見など、さまざまな意見が出されました。また、土を雨から守るビニールハウスにも、不安を感じさせるあらゆる要素から心を守るという意味が込められているのではないかと思いました。農業実習、野球のどちらともに関わっている「土」だからこそ、このつながりが生み出せたのだと感じました。
 スムーズな大道具・小道具の出し入れ、音響と役者との息の合った動きなどから、スタッフワークの秀逸さを感じました。また、汚れた実習服や砂ぼこりの出るキャッチャーミット、大きなバックネットなどから、道具に対する思い入れがあることがよく伝わってきました。
 どんな困難にめぐり合っても、信じていれば誰でも必ず希望が持てる。そんな「希望のあり方」をこの劇全体を通して伝えたかったのではないかと感じました。批判されながらも、人間が生きていくためにやっていかなければならない農業を、誰の手助けもない状態でやっていく。そのことの大変さを知っている農林高校の皆さんだからこそ、「希望のあり方」を表現することができたのだと思いました。岐阜県立農林高等学校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 自分たちが学ぶ農業高校での悩み、課題、葛藤を演劇という手段で表現し、他の高校生や大人たちもそれを共有し感動という域にまで持って行く、岐阜農林高校の情熱(しかも、毎年のように中部日本大会に選出されてくる力量!)にはいつも圧倒される。
 岐阜農林高校演劇部の作品はパターン化されている。問題児であったり転校生であったり、今回のようにその両方であったりする生徒が周囲からの反感を買い亀裂を生み、そうであるのにはそれなりの背景があって、それが徐々に仲間意識と理解ある大人によって精神的成長を遂げる。その過程において作物栽培や畜産など農業高校特有の材料が生かされているのである。予定調和といえば確かにそうなのだが、それがわかっていても感動する。高校演劇の「創作」作品というと、内輪にしかわからない理由や事情が描かれてしらけてしまうこともあるけれど、「9(ないん)」は野球部や学校統合の話を織り交ぜ、観客を巧みに作品世界に誘っていた。ただ、今作品は「トマト」の話が途中で、野球部の話に完全移行してしまったのではないだろうか。
 舞台美術を制作し、仕込み、オペレーションし、撤去するスタッフワークの技術も中部日本地区の高校の中では群を抜いていると思う。装置や小道具の手作り感や楽器のナマ音もよかった。(「カキーン!」という打球音もS.E.ではなくナマ声による表現もおもしろかったのでは。)
 舞台上の役者の表現力も相当なものだ。しかもその数40人!その全員がまた動く、動く。観客席を活用しての演出にもスケール感があった。「アメージンググレイス」の静かな歌声もよかったが、60分の中にたくさんの材料があって、すこし整理してもよかったのでは。
 観客の人たちも地元岐阜農林高校演劇部への熱い思いがあって、会場全体が上演中独特の熱気があるのもすばらしい。岐阜農林高校演劇部は私たち中部日本の誇りである。