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第68回中部日本高等学校演劇大会

各校別講評文

 講評文は、生徒講評委員会と専門家・顧問審査員会のそれぞれで話し合った内容をまとめたものですので、HPでは文章を書いた個人名は省略します。

北陸学院 名古屋市立
富田
奥越明成 中津商業 蒲郡東
南砺福野 春日井 岐阜総合
学園
大同大学
大同
高田
金城学院 富山第一
刈谷東 岐阜農林
福井農林 野々市
明倫
審査員総評


                                                                               
                                                                            ○は創作


 (石川県)北陸学院高校 上演1

「私立まぼろば高等学校落語研究同好会の輝ける歴史」  井口時次郎 作

《生徒講評委員会》


 この作品は私立まほろば高等学校落語研究同好会の歴史の始まりの物語である。主人公、葛谷による劇中劇を用いて表現する高座が大半を占め、噺が終わったところから物語が始まる。葛谷は、聞く客のいない舞台で独りで話している。その寂しさを紛らわせるかのようにラジカセから拍手や笑い声を流すのだが、それがよりいっそう葛谷の落語を聞いてほしいという望みを切実に浮き立たせている。誰にも興味を持ってもらえないことで、自分自身に嘘をつき誰にも落語を聞かせまいとする姿には、可哀想だと同情する声もあった。しかし、葛谷は舞台上から降りない。また、彼の本音を理解している上田先生は舞台に上がろうとはしない。クラスに居場所のない彼にとってかけがえのない場所が舞台上なのだろうと感じた。この作品は二つの噺が語られる。一席目の噺では、誰にも解ってもらえない男の子が、誰かに話を聞いてほしいという葛谷の隠された気持ちと重なり、二席目の噺では、軽い気持ちで嘘をつき取り返しのつかないことにしてしまう女の子が、自分に嘘をつき誰にも聞かれないまま同好会を引退しようとする葛谷の姿と重なって見えた。それは、人前で落語をすることから背を向けている彼自身を象徴するようでもあった。
 脚本を舞台で表現する上で、この作品ならではの、作品を面白くするための工夫が多く見受けられた。舞台上は簡素な装置に囲まれていて、役者の存在を目立たせていた。葛谷がカーペットに乗ったまま消えていくというユニークな仕掛けは、劇中劇に輪郭を与えており印象的だった。その劇中劇では照明や音響の効果が多用され、展開ごとの切り替えがしやすいように場面を上手に区切っていた。また、終盤で客席の照明をつけ客席にいる上田先生と新入生が舞台上の葛谷と話すことで、役者の演技が観客と同じ空間まで広がり、より劇が身近に感じられた。場面転換は葛谷を邪魔しない絶妙なタイミングと動きで行われ、観ている人のことをよく考えて演出されていた。
 タイトルにある「輝ける歴史」とは、今まで不安から逃げてきた葛谷が人前で初めて落語を披露し聞いている客と心から笑い合えたラストシーンから、これから続いていくこの同好会の未来を指しているのではないだろうか。普段は交わらない落語と演劇を合わせるという発想が面白く、新しい演劇の表現だと感じた。葛谷のように、自分のやりたいことに対して誰にも理解されないままでいいと自分自身に嘘をついている人は多いのではないか。共感を持って受け止めることのできる、素晴らしい作品だった。 北陸学院高等学校の皆さま、お疲れ様でした。




《専門家・顧問審査員会》

 この作品は始まり方と終わり方にとても驚かされました。
落語研究部の生徒の「落語」から芝居が始まります。しかもラジカセの観客の前で!しかもこの生徒はたった一人の落語研究部員。こんな孤独なことがあるでしょうか。
 終わり方は一転して客電がついて実際の客席が舞台演出に取り込まれます。そこで先生が彼に作品作りは内向きではいけないと告げます。見事に孤独から脱却して行きます。非常に考えられた優れた始まり方と終わり方です。
 もったいないのは芝居の真ん中です。この生徒が落語で話す内容が芝居となって提出されるのですが、それぞれの話自体はオモシロイのだけどただ単に短編を繋げてるだけになってしまっています。これだと彼の落語が単に短編劇を繋げるためのアイテムになってしまうのです。僕はこお芝居の中にこそ彼自身が登場しないことが構造的な問題点だと考えます。なぜなら芝居の始まり方と終わり方は明らかに彼自身のために用意されたモノだからです。
 あと、他の審査員の方々から次の意見が出ました。
・着物はちゃんと着る事 ・机などの転換の仕方が中途半端になっている
・扉のマイムの手の位置に注意 ・テンポをもう少しアップ ・コメディの演じ方に固定観念があるのではないか
 最後になりましたが先生の役をやった生徒がダイナミックな演技で僕は好感を持ちました。



 (愛知県)名古屋市立富田高校 上演2

○「リーちゃん三世」  常住 奈緒 作

《生徒講評委員会》

 「リーちゃん三世」のテーマは、血と呪いと思春期だと感じた。主人公理紗は、口が裂けているというコンプレックスから起こった友人関係や家族関係のもつれに悩み苦しむ。テーマにあげた血とは理紗の口裂けが祖母からの遺伝であったことを示し、呪いとは自分の外見にとらわれている理紗自身と推測した。
 この劇で印象的だった所は、マナとゆめみから差しのべられた将来への明るい道を理紗の心の闇たちが引き裂こうとした場面だ。そこから、理紗の悲しみや自分のことを分かってもらえないというあきらめを打破しようとする必死さが伝わってきた。劇中の「夢を捨てないで」というマナのセリフからは、将来への希望や友人への信頼をあきらめてはいけない、投げ捨ててはいけないというメッセージを受け取った。
 ラストシーンでは、それまで理紗を囲んでいた心の闇たちが初めて正面を向いた。彼らが空を見上げて歌っていた場面で、理紗は生きていきたいという希望を見出したのだ。それと同時に、心の闇たちも理紗とともに救われていったのではないだろうか。また、理紗が家族の前では「私」と称し、友人の前では「俺」と言い方を変える。「本当はかわいくなりたかった」という理紗のセリフから、その気持ちを家族にわかってほしいために「私」という一人称を使い、友人の前では人目を気にしてマスクで自分の顔を隠すのと同じように、理紗はその心情を隠すために「俺」という一人称に変えていたのではないだろうか。
 劇中でゆめみとマナが歌っていた『手紙〜拝啓、十五の君へ』の歌詞にある「誰にも話せない、悩みの種があるのです」というフレーズには、歌の題名の中にもあるように十五歳の理紗の他人に悩みを分かってもらえないという気持ちがリンクしていると感じた。そして理紗が未来の自分へ今の気持ちを訴えかけているように感じた。
 理紗はマスクを二回はずした。一回目は理紗のことが好きだと言った後輩ガナルの言葉を信じた場面である。しかし、この時は「変ですね、口が」というガナルの言葉で理紗はまたマスクを外すことができなくなった。二回目は理紗が自分で道を切り開いてゆくことの大切さに気づき、自らの意志でマスクを外す場面である。二つの場面の違いから最後に決めるのは自分だということを、改めて感じることができた。
 この劇は、理紗自身が将来の希望という夢に一歩踏み出したことから、夢を捨てないでという思いが伝わり、今の高校生活を考えさせられる劇であった。
 富田高校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 「リーちゃん三世」は、シェークスピアの「リチャード三世」を下敷きにしている。あの、容貌の醜さをバネに、狡猾残忍な手口で、王の地位に上り詰める「リチャード三世」である。「リーちゃん三世」は、おばあちゃんの隔世遺伝で、口が裂けて生まれてきた。手術でほとんどわからなくなっているが、彼女の心にはトラウマとして残り、いつもマスクをしている。でも、彼女はそのことで、世界に復讐したりしない。ひたすら自分の世界に閉じこもる。自閉の闇に閉じこもっている。だから、けっしてマスクを外そうとはしない。
 「リーちゃん三世」は「リチャード三世」のように、世界を呪い、対峙し、復讐するような強い自我、近代的自我を持ち得ない。人がどう自分を見ているか、こう見るんじゃないかという強い自意識はある。それが自閉の闇を生み、彼女は深い苦悩の底にいる。明るく優しい友達がいて、彼女を慕う後輩もいるけれど、決して癒されることはない。
 一人の少女の持ってしまった自閉の闇の深さ。それを通り一遍の「いじめ」や不登校に求めなかったこと、同情と友情の物語で解消しなかったところに、富田高校演劇部のこだわりを感じた。たぶんそれが素直な自分たちの心的現実なのだろう。かつて『ハムレット・クローン』という芝居があったけれど、我々はハムレットのクローンになりえても、リチャード三世のクローンにはなり得ない。強大な悪にはなり得ない。それは、大きな(善の)物語を失ってしまったからだ。国も民族も、そして個人さえも物語を失ってしまった先にいる。リーちゃんを律するのは、見えるか見えないかの「傷」でしかない。
 であれば、だからこそ、リーちゃんにマスクを外させた物は何か、いまいちよくわからなかったのが残念だ。そして、マスクを外したリーちゃんの物語が見たかった。でも、それはまた別な話、だろうか。


 (福井県)奥越明成高校 上演3

「ノー・ニュークス」  川村 信治 作

《生徒講評委員会》

 この劇ではヨットで過ごしていた志乃・帆波・俊江と途中で同船した舞の対立関係が描かれている。後半に出てくる男性・西村には、険悪だった志乃たちと舞の関係を良好にする役割がある。ヨットで過ごす女性たちの友情や水上での穏やかな日々から一見爽やかさが感じられるが、裏には原発という大きなテーマが隠されている。舞が原発エネルギーを推進するのに対し、志乃たち三人が自然と共生する生き方を目指す場面でそのテーマがうかがえる。物語がヨット上で繰り広げられることは人工物であるヨットと自然との対比が表されているのだと感じた。また、危険は回避すればよいと言う志乃たちに対し、他でもない舞が安全な場所なんてないと反論する場面は逃げることのできない原発の恐怖を暗示しているのではないかと感じた。
 印象に残った点として、まず身体表現の細かさが挙げられる。船上に居るときは体が揺れており、舞台上に何もないのにヨットの上に居るということが想像しやすく、パントマイムによって船内での動作も一目で理解できた。それに加えて灯台の光を登場人物たちが受けている場面では、スポットライトを使うことによって灯台の光を効果的に表していた。志乃の台詞、「むしろ持っている方があぶない」刀や鉄砲は、原発の暗示ととらえることができる。また俊江の台詞である「弱くて優しい人間のほうがたくさんいるからこそ、今の人類は生き残ったんだ」という部分にとても共感できた。原発を抱える人類が今も存続している根底には「弱くて優しい人間」の存在があることを考えさせられた。嵐が過ぎ去った後の四人が星座を眺めるシーンでは、夜を表す照明の変化が時間の移り変わりを表していて効果的であった。また、初めは距離を置いていた志乃・俊江・帆波・舞・西村の五人が歌いながらお互い近づいていくラストシーンからは身体的距離だけではなく、精神的にも近づいていく様子が伝わってきた。歌のテンポを速くしたり遅くしたりする演出は、心情の変化や心から楽しんでいることを表していた。
 それぞれが前向きな気持ちになることで、目を背けていた現実に向き合う勇気が生まれ、志乃は父親さらに脱原発との、俊江は志乃との、帆波は学校との問題解決の一歩を踏み出す明るい未来を感じることができた。
 タイトルである「ノー・ニュークス」とは脱原発という意味である。互いに対立していた、脱原発を強く意識している志乃と父親の意向を受けている推進派の舞も、嵐に襲われることで協力しお互いを理解していくきっかけをつかむことができたのである。
 奥越明成高等学校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 まず素晴らしいのは、舞台上に装置を一切出さず、パントマイムのみで船や海を表現しようというチャレンジ精神です。「部活動」という、高校生ならではの時間の中で育まれたチームワークだからこそできる挑戦だと思います。
 船を掃除したりキャビンに降りたりすることで見えてくる船の全体像や、体の揺れの大きさでわかる、海の荒れ具合。これらのマイム表現が、演者全員の共通認識として体に落とし込まれていたことで、彼らの費やした時間の膨大さが感じられ、とても好感が持てました。セリフをしゃべる際、正面を向きすぎてしまっていることは気になりました。舞台上で互いに視線を交わしながら会話することで、互いの信頼関係も、役柄での関係も深まり、より濃密なシーンになったのではないでしょうか。
 裏で支えるスタッフ力も素敵でした。船から見ている灯台の灯りとそこから夜明けに繋がる照明の変化の繊細さに感動したり、会場でのシーンで全体を見守るように流れる音楽のやさしさにほっこりしたり。部員7人という少人数だからこそ、関わる一人一人の愛情が見事に舞台上に現れた作品だったと思います。
 劇題である「ノー・ニュークス」。反核や脱原発などの意味で使われる言葉ですが、このテーマをどこまで深く受け止めて考えられるか。そして考えた上でどう表現するのか。原発のある福井県の高校だからこそ選べた題材ではないかと思います。今の日本が抱えるリアルな問題を高校生という瑞々しい感性で捉え、「演劇」という手段でどう表現し、伝えようとしたのか。これがわかると、より観客の心を打つ作品になったのではないかと思います。


 (岐阜県)中津商業高校 上演4

○「とりあえずやってみよっか」   中津商業高校演劇部作

《生徒講評委員会》

 この物語は、目立たない弱小演劇部の活動を知るために、生徒会副会長が取材に訪れるところからスタートする。大会の台本を決めるために、演劇部は昔話をテーマにエチュードと呼ばれる即興劇をし始める。エチュードで展開されるストーリーはとてもおもしろく、無秩序な昔話にお腹を抱えて笑った。高校の演劇部員ならこのような劇をやってみたいと素直に思えるような内容だった。そして、自分たちのやりたいことを思い切ってやってしまうところがとてもかっこよく見えた。エチュードをやる演劇部の姿はとても身近で、等身大の日常を演じているところに共感することができた。今まで観てきた高校演劇は、何かの試練にみんなで立ち向かい人間的に成長していく物語がほとんどだったが、この劇には人間的な成長といったテーマ設定がなく、型破りな高校演劇であった。
 見せ所は、自分たちが楽しんで演じること、そしてお客さんを楽しませることを一番大事にしているところである。このような、演劇の楽しさを感じ取れるところが、たくさん盛り込まれていた。演劇をよく知っている人はもちろん、演劇に詳しくない人も、同じく演劇をよく知らない副会長の立場になって、演劇の楽しさを共有できたのではないだろうか。また、「演劇には人を変える力がある」ということにも、副会長の心情の移り変わりを通して気づくことができた。
 「俺たちは頼りすぎている」というセリフが度々繰り返されていることが印象的だった。頼りすぎているものは、顧問の先生や台本、言葉、動きといった高校演劇では欠かせない要素である。にも関わらず、これらに頼らず演劇をするという発想に、この高校の個性が表れていると感じた。「頼りすぎている」と舞台の上からセリフとして投げかけられたことで、私たちが普段、大会などで演じる演劇は、色々なものに頼って成立しているということに気づかされた。
 「とりあえずやってみよっか」という一見軽そうに思えるセリフも、悩んで行動できない今の高校生へのメッセージなのではないか。やってみないことには結果はどうなるか分からない、ということが劇全体を通して伝わってきた。特定の型に捉われず「役者の身体ひとつあれば、演劇はできる」という自負が、凝った照明、音響効果、場面転換もなしで60分やりきったことで根拠づけられていた。
 中津商業高校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

総評参照


 (愛知県)蒲郡東高校 上演5

「ぽっくりさん」  亀尾 佳宏作

《生徒講評委員会》

 つらい現実に向き合い、目をそらさないことが大切である。この作品は私たちに強くそう伝えてきた。高校最後の夏休み、高校生四人は夜中の学校に忍び込み、怪談を始める。その一つとしてぽっくりさんという幽霊を呼び出す儀式を始め、ぽっくりさんを本当に召喚してしまう。そのぽっくりさんとの出会いによって四人、そしてぽっくりさんの心情が大きく変わっていく。
 ぽっくりさんとの出会いによって起こった、四人の内面での最も大きな変化は、嫌なことや逃げ出したくなることに対する向き合い方である。出会う以前は現実に耐えることを諦めていたが、必死に死ぬことをやめさせようとするぽっくりさんの過去が四人と同じ境遇であったことを知り、四人の中に生きていこうとする決心が生まれた。ぽっくりさんもまた、誰にも止められず死んでしまったことに抱き続けてきた未練が、自分の存在を認めてくれた四人との出会いで消え失せ、長年抱えていた苦しみから解放された。
 舞台中央にある窓。ぽっくりさんが何度も死を繰り返し、四人が死ぬつもりだった場所だ。四人にとっての「教室の窓」とは、居心地の悪い教室などの嫌な現実から逃げ出す唯一の手段であったように感じた。これに対しぽっくりさんにとっての「窓」とは、四人に出会う前はただ死を繰り返すためだけのものであったが、四人と出会うことで自らが進んでいく道の象徴になったと考えられる。光が窓に集中する場面は、ぽっくりさんの希望を表していると捉えられた。また、照明が明るい中で日常の会話が繰り広げられているのに対して、照明を青に切り替えることで、日常と異なる空間を演出していた。これによって、雰囲気の切り替わりが明確になっていて、作品に引き込まれた。ぽっくりさんが黒いマントを着て制服を隠していたことについては、第三者が作り上げたぽっくりさんのイメージを保つためであったと考えられる。また、そのマントを脱いで四人に語りかけたのは、同じような境遇である四人に対し、ぽっくりさんとしてではなく、飛び降りた生徒として向き合おうとしていたように捉えられた。最後のシーンで、生まれ変わるための一歩を踏み出すぽっくりさんと、改めて前へ進んでいこうとする四人、それぞれの登場人物の旅立つ様子が印象に残った。
 四人のうちの一人であるケンジがぽっくりさんの胸ぐらを掴み怒りを露わにし、ぽっくりさんが涙声で訴えかけるシーンは、死に向き合うお互いの悲痛な叫びが表れており、テーマをより一層引き立たせたと思われる。
 蒲郡東高等学校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 全体的にもったいないというところから話ができるほど上手く完成度の高い劇であった。仲良し四人はそれぞれの理由をもち死にたいと思っている。楽しそうに夜中の教室に集まってこっくりさんをしている。そうするとぽっくりさんが出てくる。日常の中に少し不思議なものが出てくるため現実感がなくなりそうなところをキャストの演技やスタッフワークでリカバーしている。前半のセリフのテンポの良さに後半の大きな話の転換という演出も効果的だった。自殺や降霊などどこかで一度は見聞きし触れたことのあるだろうものがちりばめられている。何か引っ掛かりを覚えて劇の中に引きこむような工夫ができておりこの本を選んで上手く取り扱っている。部員全員が一生懸命に取り組んでいる熱意が伝わってきて劇としての完成度の高さにつながっている。
 しかし、細かい部分でもったいないところがあった。それがお客さんへの違和感へつながっていくものになってしまっていた。演技では登場人物たちのいきいきとした姿はものすごく上手く描かれていたが背景が見えにくかった。舞台美術の教室ドアも一般的な窓付きではないものを採用していた。音響のイン・アウトのこだわりやなぜこの曲を使うのかが見えにくかった、照明は夜の教室という場所として適切かなどの細かいズレが調和を乱すところがあり非常にもったいなく感じられた。一生懸命みんな取り組んでいるので相乗効果を狙えるはずである。
 自殺というファクターはこの劇を見る上で否が応でも考えざるをえない一つのキーワードになっている。自殺するに至る4人理由を思わせる何かがあるが、しかしその何かで終わっていることがもったいない。90年代後半から2000年代前半までに流行った集団自殺の病がそこにはあった。スタッフもキャストも登場人物達の漠然とした不安みたいなもの、みんなですれば怖くないというようなその当時の集団意識の空気のようなものは作れていた。なぜ今この本なのか。ということをもう少し深く掘り下げることで見えてくるところもあるように思う。今現在の高校生がやることで考えられる何かを。当時の空気を作ってあるのに今ある何かをくっつけることができたらもっと奥行きのある劇になっていたのではないかと思う。そこももったいなかった。あと少しもう少しの細かい部分を詰めて整理しなおしたものをもっとみたいところである。



 (富山県)南砺福野高校 上演6

「七人の部長」  越智 優 作

《生徒講評委員会》

 『七人の部長』のテーマは「自分の意思をしっかり相手に示すこと」、「自分のやりたいことを伝えることの大切さ」だと感じた。平成二十七年度部活動予算案会議を通じて、部長たちがお互いのことを知り合えたところや、生徒会長や演劇部部長が自分の今までの思い、苦労を話す場面といった随所で意思表明の重要性をかいま見ることができた。
 印象的な場面として、七人の部長たちが自分の部活動について話すとき、舞台の中央に行って話す部長と、自分の座っている場に立って話す部長とに分かれていたことだ。話す位置を分けることによって部長たちのそれぞれの個性が表現されており、七人の部長たちそれぞれの気持ちを表現していると捉えられる。また剣道部部長が袴を着てこの劇に出たことによって剣道部部長の部活に対してのこだわりがより伝わってきて面白かった。
 劇中で中心とされる予算案会議とは現代の日本社会と照らし合わせているのではないだろうか。劇中の剣道部部長の「あたしらに予算なんか決める権利はない、あたしらただの生徒なんだから」というセリフから予算案会議をしても、大人が子どもである生徒たちの意見を聞かないであろうという考えが見えた。現代の日本社会での上の者が下の者の言うことに耳を傾けず、常に上の者の指示ですべてがすすめられていく姿と似てはいないだろうか。その中で生徒会長の「どうしてやる前から決めてかかるんですか」というセリフから、予算が変わるか分からないがあきらめずに自分の意見を伝える生徒会長の様子から、現代の日本社会でも自分の考えを「伝える」ことが大切だと捉えた。
 演出面に関しては、生徒会長が自分自身の思い、生徒会長としての今までの経験を話す最後のひとり語りの終わりから雨が降り始める場面が印象的であった。その雨音が七人の部長たちの沈黙を強調していたり、生徒会長の切ない気持ちが込められたりしていると感じた。また最後の夕日の場面で、演劇部部長、剣道部部長、そして生徒会長に照らされたオレンジ色の夕日は七人の部長たちそれぞれが本当に伝えたいこと、本当にやりたいことは何かを伝えることができた七人の部長たちの心の中のすっきりした気持ち、達成感、そして希望が込められていると感じた。
 自分の思っていることを伝える大切さ、お互いのことを知る大切さ、自分のやりたいことを伝える大切さをより考えさせられた。また、何事にも挑戦し、最後までやってみることの大切さも気づかされる劇だった。
 南砺福野高校のみなさん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 幕が開くと舞台には机と椅子と黒板。雑然と積まれた段ボール箱と黒板の掲示物。生徒会室らしさを出そうという頑張りがよくわかる。脚本も良い。異集団と関わろうとしない高校生の姿がよく表れていて、それは現在にも通じている。
 「12人の怒れる男」のような議論が中心の場合、正面芝居は難しい。机の並べ方が八の字で、中央が演技場所になっていた。こうすると、誰が誰に向かって話しているか、誰が受けているかが不明瞭なままに話が進んでしまう。そうなると焦点がぼやけてしまい、話が積みあがっていかない。机はもっと角度を付けてコの字にした方がお互いが議論している雰囲気が出る。机を無くして椅子だけにしてみるのも面白い。関係性の変化によって、自由に移動ができるようになる。上に文化部、下に運動部と明確に分けてしまうよりも、文化部、運動部入り混じって、その後の意見の変化によって座る配置を変えるやり方もある。
 こういった動きの少ない芝居の場合は、大道具、照明、音響で演技の手助けができる。例えば壁際に椅子を並べるとか、本棚と設えるとか。ポイントとなっていた割れた窓については、両脇に棚を置くなど空間を開けて表現することもできる。降り始めたら全員が雨を見ることで雨を表現できる。雨音の入れ方でも工夫ができる。夕日の位置は低いのでその高さを意識する必要がある。
 この芝居の面白さは何なのか。役の個性をどう発揮するのか。自分の役が、誰のどの台詞や演技をきっかけにどう変化していくのか。自分自身を見つめて、役の個性の掘り下げに挑んでほしい。君たちにしかできない芝居があるはずだ。



 (愛知県)春日井高校 上演7

「イ=ストーリー」   瀧 源作 作

《生徒講評委員会》

 まず、劇を見終えて感じたことは、演技力の高さである。役者一人一人の表情が豊かで各場面での感情がはっきりと伝わってきた。
 この劇のテーマとして私達が受け止めたものは二つある。一つ目は「感謝」である。感謝という単語を多用していることや「感謝の意味とは?」という問いかけが観客に投げかけられる。二つ目は「個性」と「責任」である。葵の「私たちには全員に机とイスが必要だよ。」というセリフと、茜に机とイスをあげると言って渡した場面から、机とイスは六人それぞれの個性を象徴していると感じた。またその机とイスについて、安易にいらないといっておきながら、六人は机とイスを求めてそ先生をだまそうとする。そうした言動の責任をも表しているのではないだろうかと考えた。二つのテーマが劇全体を通して語られていく。
 印象的だったのは、五人が茜から机とイスを返してもらいに行く場面だ。それまで口調が強くて周りを傷つけてきたスミレが優しい口調で話したり、周りに合わせてきた桃子が自分の意志で動いていたりと、それぞれの個性の欠点を乗り越えようとして努力している姿が窺われると同時に、イス・机を返してもらいに行くことで、自分の責任は自分で持ち、それぞれが考えていくという意味なのだと感じた。お互いのことをよく理解しようとしていなかった関係から、少しずつ理解しようと思い始める六人の心情の移り変わりが、初めは外側を向いていたイスが最後には内側を向いているという演出から読みとれた。終盤でスポットライトがあたっていた掛け軸を掛けた先生自身が外すという動作には、六人がお互いの心を理解しようと思い始めたことが表されているのであろう。
 イス取りゲームの場面では回数を重ねるごとに照明が黄から青に変化していくことで、六人の関係性が役者の演技以外でもわかるようになっていた。また、所々にはさまれている音楽がセリフと合っていて、舞台の状況の変化が分かりやすかった。衣装のセーラー服のリボンの色や扱いが一人一人違う点からも、一見同じように振る舞っていてもそれぞれの個性は違うのだということが自然と観客に意識されるよう配慮されていた。
 全体を通して、観ている私たちも感謝の意味を考えさせられる劇だった。この台本での感謝の基盤となるものは机やイスなどの物への感謝である。仲間の本音に向き合い、その本音を受け入れることが本当の感謝ではないのだろうか。六人の性格が私達高校生にとって違和感のない設定であり、とても身近に感じ共感することのできた作品だった。
 春日井高等学校のみなさん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 女子高校生が抱える「友人関係」に関する悩みを、6人の役者により様々な立場から多角的にとらえ、その悩みの深さを良く表現した作品であった。
 作品の中では、6人の個性が非常によく出ていた。6人の役者全員が、それぞれ自分の演じる役について深く追究し理解したうえで、台詞や体の動きができているだけでなく、表情が非常に豊かで、その時々の登場人物の心情が非常に良く表現されていた。また、劇中に起こる一つ一つのイベントについて、それぞれの立ち位置や役どうしの人間関係がしっかりと把握されていた。建前だらけの人間関係から、時間を追うにつれて内面から少しずつ本音があふれ出てくるところなど、登場人物の内面が刻々と変化していくところが、劇中で上手に表現され、非常に現実的であった。個性あふれる登場人物は、感情移入しやすく、みるみるうちに観客を劇中へと引き込んでいった。
 また、劇全体の展開も非常によく考えられていた。本編部分と場面転換の椅子取りゲームが交互に繰り返される構成で、6人の関係性や心の距離の変化が椅子取りゲーム内の動きで非常によく表現されていた。シルエットで行われる椅子取りゲームは、6人全員が座れるという異様なものから始まり、茜と周囲の距離が離れるにつれ、参加人数はみるみると減少する。最後は全員が椅子に座ることができ、内側を向いて座り直すという結末の部分まで、6人の心の距離を上手に表現していた。また椅子取りゲームのシルエットを生む背景色は、場面の状況に応じて選択されていた。効果音は、役者の台詞に合わせてボリュームを下げるなど、配慮がされていた。このように照明や音響を効果的に使えていた。
 劇全体を通して、場面転換も効果的に使われ、初めに客席全体を笑いの渦に巻き込み、そのまま後半のシリアスシーンへと、入り込んだ観客をつかんで離さない劇であった。



 (岐阜県)岐阜総合学園高校 上演8

「あゆみ」   柴 幸男 作

《生徒講評委員会》

 「あゆみ」では、主人公あみの生まれてから死ぬまでの出来事が、あみの「歩みの道」として表現されている。どんな生き方をしたとしても、必ず最後の「一歩」つまり死がゴールなのだから、逆に言えばどんな失敗も恐れなくて大丈夫という、優しくて強いメッセージがこの劇から伝わった。あみが尾崎さんと仲直りすることができなかったり、田畑先輩に告白できなかったりと、様々な失敗をしながらも最終的には最後の一歩に辿り着いていることからも、それが伝わってきた。
 舞台上のキャストたちが同じシーンで何度も役を交代したり、同じ台詞を同時に話したりする表現は、とても印象的であり、主人公の度重なる人生の分岐、つまり主人公の未来の可能性が視覚的に分かりやすく表現されていた。また、照明はとても工夫されているのが、感じられた。例えば、あみが会社の後輩で将来の旦那になる前田と出会うまでは、あみの進む道は光で作られたまっすぐな一本の線のような道であり、あみはその道を一方向に向かって歩み続けていた。しかし、前田と出会ってからは、舞台全体に光が広がり、道を一方向ではなく、縦横関係なく歩き回るようになっていた。これは、あみと前田が出会うことによって、あみの将来の可能性と前田の将来の可能性が合わさり、これからの可能性が大きく広がったことを上手く表現している。また、あみの子どもであるあゆみの誕生によって道がかつての一本の線のような道に戻ったのは、あみからあゆみへと、物語が繋がっていくことを表しているのであろう。この劇の題名である「あゆみ」が、娘の名前に用いられている点にも、あみからあゆみへと繋がっていくということが暗示されていると感じられた。
 あみに子どもが生まれたのち、あみの母親が亡くなったという報せがあみに届く。その場面のその瞬間、あみとあゆみを囲んでいたキャスト達全員が正面を向く。この表現からは、あみのすべての可能性は母の死という絶対的な出来事から逃れられないということや、死の持つ暗く重い厳かな雰囲気が伝わり、胸をえぐられるような感覚を覚えた。
 終盤、あみがフラッシュバックした過去の中で以前の行動と違った行動をとっていた場面では、あみのこうすればよかったという願望や、これまでに様々な分岐のあったことが表現されているのではないだろうか。
 この劇から、失敗に臆することなく前向きに物事に取り組む勇気を貰った。
 岐阜総合学園高校の皆さん本当にお疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 黒パンチにT字の「道」が描かれているだけのシンプルなセットだが、照明効果が相まって他の出演校に無い世界観を創っていた。驚くべきは出演者・スタッフを含めた全員の息の合い様だろう。台詞の群唱はもとより、照明が一瞬も油断することなく完璧に役者に合わせている。音響も外さずにきちんと入れており、非常に高いクオリティの作品であった。彼らがとても楽しんでお芝居を創っているからこそこの完成度になったのだ。舞台表面から見える団結力はずば抜けて高かったと評価している。
 『あゆみ』という作品は以前に全国大会でも発表されている作品であり、審査員にもオリジナルを見たことのある者がいるほどの有名作品である。それ故に難点がある。この『あゆみ』は台本をきちんと読み解くほど、おそらくあの演出方法しか無い作品になる。一度でも作者:柴幸男氏の演出するオリジナルを見たことがあれば尚更である。岐阜総合学園高等学校の『あゆみ』には強い「憧れ」が見えた。決して「憧れ」を否定しないが、単純な憧れは単に模倣となってしまう。しかしながら彼らの『あゆみ』は模倣の域を出て、団結力で魅せる彼らの『あゆみ』になっていた。その意味で会場の観客は私も含めて虜になっていただろう。
 だが前述でも記した通り『あゆみ』の台本は設計図であり、「憧れ」をもとに創っていくと高いクオリティの完成系ほどどれも似たようなものになってしまう。これを打破するには思い切ってシンプルな会話劇にする、具象舞台で演じてみる等があるだろうが、オリジナルの演出を超えるのは困難だろう。
 既成台本においてはその作品を観たことがあるかどうかも重要なのかもしれない。作品創りを始める前に完成系が見えているのであれば、おそらくそれはオリジナルの到達点であろう。演じるからにはオリジナルを圧倒的に超えて欲しい。
 願わくば次回作ではこの熱量と集中力を持ち込んだオリジナル作品が観たい。あくまで一個人の見解ですが。



 (愛知県)大同大学大同高校
 上演9

「交番へ行こう」   大垣ヤスシ 作

《生徒講評委員会》

 万引きをした少女が店長に連れられて、若い警官とベテランの警官が勤務する交番にやってくる。そんな彼女に対してベテランの警官は自分たちの仕事を見せ、スーパーの店長は説教をする。町の人との交流を通して、彼女は幸せになるために自分の気持ちに素直になっていく。この劇のテーマは、人が幸せになるための必死さ、人を幸せにするための必死さだと感じた。
 この劇でまず印象に残る場面は、万引きをされたスーパーの店長が自分の娘に持つ感情をまるで本物の父のように少女に打ち明けるところであり、父と娘のうまくいかない関係が切なさとともに表現されていた。なかでも店長の「口を開いた時は説教か怒鳴ってるか」というセリフが胸に響いた。本当は仲良くしたい、でも無意識に説教をしてしまう。店長にとっての幸せは娘と分かり合うことなのではないのかと考えた。さらに、説教という言葉の意味についても考えさせられた。少女の同級生である配管工と若い警察官の言い争いのシーンでは、話を聞くだけで理解しようとしない大人への不満が示される。説教とはただ自分の意見を押し付け、逆らったらまた押し付けることではない。店長と警官たちは少女にとっての幸せを願い、自分の感情に素直にならせるために必死になる。本当の意味での説教をしていたと感じた。
 若い警官が思う警官の仕事についての「人を疑うことが仕事ではない」というセリフも心を打った。人を否定し疑い続けて人々を守ることが警官の仕事なのではなく、肯定して人を守ることで人々との信頼を築き上げていくことが警官の仕事であるという。警官に対する漠然とした怖いというイメージがなくなっていった。
 若い警官が自転車を爆走させ交番から病院まで彼女を送るラストシーンでは、彼が人の幸せに対して必死になることでどれだけ人を幸せにしたいと願っているのかが伝わってきた。法律に逆らっても、野次が飛んで来ても、スピードを緩めることなく目的地に向かう彼の姿は、規則破りでありながらも勇ましい警官に見えた。さらに、自転車で空を飛ぶシーンでは音響を止め照明も空の色に切り替え、空を飛んでいることを観客に実感させ強い印象を残した。周囲の人たちの必死さがあったからこそ、少女の心にも諦めてはいけないという気持ちが芽生え、幸せに向かって一歩を踏み出すことができたのではないか。
 タイトルの「交番へ行こう」とは、交番という人と向き合いつながる場所が悩みなどを相談し解決するする場所であることを表していた。
 大同大学大同高校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 幕が上がってすうっと自然に作品世界に入っていける芝居だった。まず装置。よごしもしっかり入っており、丁寧に作られていた。また暖色系の照明が使われており、「ハート・ウォーミング」系の芝居となっていくことを予感させる幕開けとなっていた。
 それからキャスト。登場人物が個性的に描かれており、特にコンビニの店長やおじいさんなどは、「この人たちが学生服を着ているところがほとんど想像できない」という声が上がるほどの存在感だった。交番を訪れる人々もしっかりキャラが立っており、地域によくとけこんだ交番なのだということがよく伝わってきた。あと、音響で、子供の遊び声や自動車の通る音、信号の音などを少しでも入れたならば、さらにどういう場所にある交番なのかがイメージできるのではないかという意見が出されていた。
 少女の父が倒れたという電話が入る場面の「いかにも」な感じは確かに否めないが、そこまでの流れと役者の演技もあり、多くの観客が自然なものと受けとめられたのではないかと思う。不在の父の輪郭がもう少し見えてくるような描き方にすれば、さらによかったのではないかという意見が出されていた。そこからお巡りさんの自転車に乗って病院に駆けつける場面までが、最大の見せ場。舞台袖から様々な人物がめまぐるしく現れ、叫び、はけていく場面には疾走感があったが、袖が暗く、きちんと見えていないのがもったいないという意見が出されていた。ラストの自転車が空を飛ぶ場面にはカタルシスがあった。客席もよく「あったまって」おり、高校演劇ならではの、人々の善意に裏打ちされた人情物語としてたいへん好感が持てた。



 (三重県)高田高校 上演10

○「M」  西尾 優 作

《生徒講評委員会》

 この劇の一番の特徴は、主人公達の歪んだ関係である。主人公のメグミがミナミに委員長になることを勧める場面が何度かあり、劇の後半ではその行動が執拗になっていった。委員長がミナミに決まった後、心の中で他人を見下しているミナミを批判しながらも、メグミはそんなミナミが好きだと告げる。一方でミナミは、メグミのことにまるで関心がなく、メグミの好きな色や食べ物が何か分かるかと質問されても答えることができない。かといって、メグミとミナミの仲が悪かった訳では決してなく、むしろ二人は唯一無二の大親友といった雰囲気で接していた。この二人の関係は、ちぐはぐであるが故に却ってリアリティを感じさせた。さらに、主人公以外の登場人物一人一人もまた、後先を考えない男子達やクラスの文化祭実行委員長に立候補するなどして常に人の上に立ちたい女子、その女子についていくだけの女子など、現実のクラスにごく普通にいるような、非常にリアリティに溢れる存在であった。
 照明や音響に関しても、それぞれ印象に残ったことがある。照明は「ミナミはオレンジが好き」とメグミが話している場面で、オレンジ色に変化した。舞台が二人だけの世界になり、メグミがミナミに対して抱いている思いにスポットを当てていることが分かった。さらにこの演出からは、メグミからミナミに対する「大好き」という感情が強く伝わってきた。音響面に関しては最小限に抑えられており、開幕と閉幕にPRINCESS PRINCESSの『M』が使用されただけであったが、開幕時には歌詞のある音源が使われ、閉幕時には歌詞のない音源が使われており、「いつも一緒にいたかった」というメグミからの「M」即ち「メッセージ」はミナミに伝わりはしたものの、心から分かりあうことは出来なかったことが表現されていた。
 ミナミにはリーダーシップを取る才能があったが、彼女自身は表に出ることを嫌っていた。そんな彼女が、委員長にはなりたくなかったのに多くの人の支持を得て委員長に選ばれてしまい、結果として実際に委員長になりたかったミナミの友達を傷つけてしまう。この展開には、この劇のテーマのひとつである「才能はどうあがいても決まっている」「自分の大きな才能から逃げ続けているといつか周りの人を傷つけてしまう」ということが表現されていた。
 高田高校の「M」は様々な工夫が凝らされ、観客に様々な思いを巡らせさせる劇である。この劇特有の不思議さにいつのまにか引き込まれてクライマックスまで集中して観てしまう、そんな素晴らしい劇であった。
 高田高校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 この作品は今回の大会の中で一番ラストが想像できなかった作品です。教室でたむろしながら文化祭委員長の選挙について話し合いが始まります。次第にグループが分かれてそれぞれの中から立候補者を出して演説が始まり・・・という出だしの芝居。選挙を通してクラスの皆が対立し意見交換しお互いを認め合ったりしながら文化祭委員長選出という問題に取り組んで行くのか、そしてそこから垣間見える自分たちの問題点を発見、それを克服して行く・・・という話になって行くんだろうなと予測していました。が、僕の予測は見事に外れて話の展開はなんと二人の女生徒の間に生まれる愛憎劇へと変化して、ついにラストはホラー劇にまで進化したのです。これには正直驚きました。観終わった瞬間、一体何がどうなったんだろうと思うくらいの衝撃でした。が、その衝撃が全てプラスの方向に向けば良かったのですが残念ながらそうはなりませんでした。それはミナミとメグミの友情から愛憎が見え始めるのが遅いからです。ミナミはナゼそんなに嫌がるのか、メグミはナゼそんなに彼女を推すのか、観る側は疑問を抱えたまま唐突に愛憎劇に引っ張り込まれる感じがしてしまうからです。その辺りの構成上の問題をクリア出来ればすごくオモシロイ作品になったと僕は思います。それにしてもラストのミナミの笑顔は怖かった!



 (愛知県)金城学院高校 上演11

       ○「kitsch」  江里ほの花 作

《生徒講評委員会》

 この作品のテーマは、他人への妬み、才能がないと努力しても報われないことがあるといった、誰もが一度は感じたことあるものだと考えた。
 劇中にはことあるごとにチョコレートがでてきた。主人公の友人のひとり、のんのセリフに「黒いビターにはすごい成分が沢山入っているけど、綺麗なホワイトには何も入っていない」というものがある。このことからビターチョコには「才能ある人の名誉、誇り」、ホワイトチョコには「表面上は良く見えても中身のない偽物の名誉を得る手段」という意味があると捉えた。努力の鬼と呼ばれるほどバレエに一生懸命な主人公まいだが、なかなか結果が出ず、才能ある友人を見て焦りや嫉妬の念が膨らんでいく。夢の世界では、友人が名誉の象徴であるビターチョコを手に入れている。その中で自分だけがそれを手に入れることができず「私も、私にも」と求めるシーンからは、まいの結果を求める必死さが伝わってきた。バレエ発表会でのんの代役になったまいは、自分の実力で得た結果ではないと分かっていても、主演したことに対して幸せを感じ偽物の栄誉に溺れていった。その様子は夢の世界で、大量のホワイトチョコを貪るという行動で表現されていた。偽物の栄誉を得ることに必死で、結果のためにどんな手段でも使おうとする様子から、才能ある友人に対するまいの悔しさや妬みも感じられた。
 自分が結果のためにバレエをしているのではなく、好きだからバレエをするという気持ちを思い出すシーンでは、まいは自分なりの答えを見つけたのだと思った。しかし、れいかの「人を騙して陥れることはずるい」という自省の言葉が、同じ感情を持ちながらそれを隠し通そうとしたまい自身を否定する。まいがれいかを突き飛ばし叫んだシーンには、才能ある者への妬みの爆発が表されている。最終的に、まいは周りの純粋な言葉から、自分の醜さに気づき、心が壊れた。
 演出面については、BGMとして使われた「金平糖の精の踊り」の引用元であるバレエ『くるみ割り人形』では、まいがのんから引き継いだ役であるクララは一見主役のようにみえるが本当の主人公ではない。このことから考えれば、まいが縋り付いている「主役」というものそのものが偽りであったのではないか。
 タイトルの『kitsch』には「まがいもの」という意味がある。これはまいが求めた偽りの栄誉とそれに溺れたまい自身のことではないかと考えた。そして、どう足掻いても埋められない才能の差を感じて、他人が憎くなるというまいの気持ちに共感を覚え、切ない気持ちになった作品であった。
 金城学院高等学校のみなさんおつかれさまでした。



《専門家・顧問審査員会》

 「kitsch」というタイトルについて、「俗悪」「低俗」などの意味を持つ単語でこの劇において人間の弱い部分のことを指しているのではないかと思う。バレエ教室とチョコレート、才能があるかないか、選ばれるものと選ばれないものその違いは何か、報われない努力の悔しさ、嫉妬、憧れなど思春期特有の自意識のこじれや女子校ならではの要素をふんだんに盛り込んでいた。また女性のコミュニティーの生々しさを自らの経験をフルに活用してリアルさを演出していた。
 現実と主人公まいの夢の世界で話が進められていく。二つの世界を行きつ戻りつする話の展開はまいの精神そのものでこじれてしまった高校生の女の子精神状態がそのまま反映されている。演出が効果的な場面の転換を考えて意味を持たせて夢と現実の世界との差を出すことができたらより見やすいものになっていただろう。照明や音響などの効果に素直に頼ることが最良の選択になることもある。モノローグが多く使われており説明的な部分が多かった。丁寧に登場人物の心情を伝えたいという意図は感じられるが見る側の想像の余地を失わせてしまう想像力の天井をつくることになりかねないもので作品の奥行きを失わせてしまう。
 チョコレートを象徴的なものとして出していてこだわりが見えていた。まいがホワイトチョコを食べて偽物の栄光であっても手に入れてバレエの舞台に出ていき人間的な感情にのまれていく流れは薬物(危険ドラッグ)に依存していく流れとダブる。使ったとき全能感、失ったときの恐怖感、どんどんと精神的に追い詰められ精神状態を麻痺させていくまいの姿は弱さとどうなってもいいという変な強さにも見えてくる。
 バレエ教室を再現した舞台美術では夢の世界と併用できるように鏡を模したパネルを使っていた。小道具もチョコレートなど象徴的なものを出していてこだわりが見えていた。しかしそのこだわりも伝えないと意味のないものになってしまう。自分たちが見てわかるものではなくて誰が見てもそう思うものにしなければならない。見せ方の工夫を考えるとさらに作品がよくなっていくはずだ。



 (三重県)暁高校 上演12

            ○「オトコーラス」   暁高校演劇部 作

《生徒講評委員会》

 過去に全国コンクール優勝という歴史を持つ、今は廃れた男子のみの合唱部。部室が汚れていて物が散乱していることから、廃れている様子が視覚化されている。部員達が互いの個性に悩まされながらも、楽しむことを目標に合唱で心を一つにしていく心温まる作品である。「HEIWAの鐘」の歌詞や、三つのバラバラだったグループが互いを認め、まとまっていくところに心を一つにしている様子が見て取れた。また、開幕時の黒板に書かれている全国出場という目標が閉幕時には楽しむという目標に変わることで、合唱を「楽しむ」という意志が効果的に表されていた。
 登場人物全員の個性が強く、演技力の高さや展開のテンポの良さによって、とても楽しめる舞台であった。特に、個々の動きでは、生徒会長の取り巻きである女子達の嫉妬の様子や、合唱部の各グループのリーダー以外の部員のユニークな動作が、観客を飽きさせなかった。また、冒頭の合唱シーンでは先生が客席で指揮を行うことで臨場感が増し、とても効果的な演出であった。部員の伊藤と森の喧嘩の後のシーンで、新田が楯を伏せ黒板の「全国出場」という目標を消すところからは、新田の過去の栄光への後ろめたさや、自分では部長として皆をまとめられないのではないかという切なさが窺える。黒板の目標を消したことに気付く部員の伊藤と鈴木の表情には、部長の切ない気持ちへの負い目が感じられ、二人とその二人の様子に気づく新田の距離感が、彼らのぎこちない様子を上手く演出していた。しかし、前部長の奏のアドバイスを受け、皆で歌いたいという明確な意志を持った新田を中心に部員達がまとまり始める。奏が部室から去る時に新田が最後に礼をするのは、周りの誰よりも奏に感謝しているという感情の表れのように思う。そして、校内発表では、先生一人しかいない客席に堂々と歌う様子から、本当に合唱を楽しんでいるのだと印象に残った。先生に関して、序盤では生徒に対して厳しく接していたが、奏が校内発表の存在を「先生に聞いたからさ!」と言ったことで、顧問として部活を良くするために、あえて厳しい試練を与えたのだと感じた。
 たとえ一人ではできないことでも皆で協力し、心を一つにすれば成し遂げられる。そのことを体現するかのように合唱をメインに繰り広げられたストーリー展開であった。私たち演劇部員も、本番に至るまでの過程よりもついつい結果にこだわって芝居を楽しむことを忘れてしまうことがある。まずは自分たち自身が楽しむことも大切なのではないかと改めて考えさせてくれる劇であった。
 暁高校のみなさん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 一言で言えば、「清々しい作品」でした。
 テンポの良さや演者の思い切りの良さ、そして何よりも、「僕たち、私たちが作ったこの芝居、どうですか!」とばかりに心地よく迫られる感覚。私はコメディを作る際、まず演者が楽しまなければ観客は楽しめないと考えているのですが、まさにそれを体現してくれたと、見終ってからとても嬉しくなりました。
 台本の構成も非常にわかりやすく、スタッフワークとしても、細かいところで気になる部分はあるものの、芝居全体で考えると特に大きな問題点は見当たらず、クオリティの高い作品だったと言えると思います。
 また、かなり大人数のキャストが出演しているのにもかかわらず一人一人のキャラクターがしっかりと個として確立していることは、素晴らしいと思います。良い意味で、「バカバカしいことをやり切るパワー」を感じ、とても良かったと思います。
 せっかくここまでやれたのだから、さらにエンターテイメント性を高めてみてもよかったかもしれません。生徒会長が突然踊り出したら、観客に手拍子を求めても構いませんし、高校生らしい恋愛話を、秦先輩と部員たちの関係に盛り込んでも良かったかもしれません。おそらくこの芝居全体に流れている「清々しさ」を考えると、決して嫌味にならず、むしろ観客はもっと楽しんでくれたのではないかと想像します。
 「オトコーラス」という劇題通り、男子生徒のコーラスがストーリー上非常に大切になるのですが、ラストのアカペラは楽譜通りに上手に歌うことよりも、音をはずしても、自分たちの思いや何かにかける情熱が前面に出ると、より一層魅力的で、溌剌とした見ごたえのある作品になったのではないかと思います。



 (富山県)富山第一高校 上演13

○「Re:大丈夫か?」   リョウと愉快な仲間たち  作

《生徒講評委員会》

 劇を見て最初に思ったことは、内容にとても共感できる場面が多くあったということだ。高校生なら誰でも進路で悩んだり後悔をした経験があるだろう。そういった経験をしたことがある人なら誰もが共感することのできる劇だと思った。
 この作品のテーマとして感じたことは二つある。一つ目は「失敗は成功へ繋がるから、何度失敗してもいい」ということだ。「15歳で進路なんてわからない」というセリフがあった。そこには、失敗か成功かは最後までわからないのだから一度の失敗で今までの努力や高校生活がすべて失敗になるわけではない、というメッセージが込められていると考えた。二つ目は「過去の自分があるからこそ今の自分があり、過去を受け入れることで前へ進める」ということだ。失敗から逃げるのではなく、失敗を認めて今後どうしていくのかを考え自分から変わろうとしていくことで、未来が開けていくというメッセージが伝わってきた。
 劇中のステージ発表で主人公達が演じていた劇の内容は、現実世界の出来事と重なる部分が多くあるように思えた。たとえば「居場所を求めて」という劇中劇は放浪するドラキュラと、県立高校から逃げ出して私立高校に居場所を探している青山自身を表しているのであろう。また、お妃の「私は二度と民を泣かせない」とうセリフ、これは15歳の春に泣き、もう次は泣きたくないと思っている中村の気持ちを暗示していると考えた。
 終盤、それまで青山が送り続けていたメールの相手が、前の学校の友人ではなく青山本人だったということが明らかになる。青山は過去の自分を客観視することで前の学校での生活に挫折して春山高校に入学した現在の自分を受け入れようとしていたのである。しかし、ラストシーンで初めてスマートフォンの画面の前に青山が歩み出る。自分の送り続けていた文章の前に立ち画面を遮ることで、過去の自分へのメール送信をやめ、青山自身が過去の呪縛を断ち切って今の自分を受け入れたことを表している。最後に青山が言った「君は大丈夫ですか?」というセリフは、青山から中村へ向けられたセリフであると同時に、劇を見ている側にも訴えかけられているセリフなのではないかと感じた。
 劇全体を見て、青山が逃げ出してしまった気持ちや、親からのプレッシャーに耐えられずカンニングをしてしまった中村の気持ちなど、私たち高校生にとって共感できる内容が多くあった。それぞれに悩みがあり、それを乗り越えていく姿が、失敗しても前へ進んでいくことの大切さを表している作品だった。
 富山第一高校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 非常に工夫された舞台で繰り広げられる高校生活。皆が抱える悩みを主人公から送信されるメールの内容によって深いメッセージ性を持った劇となった。
 主人公のメールによって、学校生活で起こる様々なエピソードをうまくつなぎ合わせていて、会場の共感を得ていた。後半は「受験」をキーワードに、すでに終えている高校受験とこれから迎える大学受験が、高校生にどのような影響を与えるのか、登場人物1人1人の個性を通じてリアルな心理を表現されていた。高校生の抱える悩みを社会へ強く訴えかける作品であった。
 舞台上は教室とステージの2つを切り替えながら、非常に上手に表現していた。双方の設定に必要でかつ互いの邪魔にならないものを吟味したうえでセッティングされていたのが印象的である。教室の風景を描くのに、大胆にも机を取り払ったところは英断であった。そのおかげでスムーズな舞台転換を可能にし、教室から間髪いれずに、甲子園の応援スタンドという勢いのあるシーンに移行することができた。このように不要なものを省略しながらも、背の低い教師に対する教壇や教室で入り口の柱の一部など、必要なものはしっかりと残されている。また、学校生活を送りながら季節の変化を表すため、上着を脱いだり、また着たりと季節感への配慮もされていた。ラストでは、割幕を緞帳に見立てて、ついに迎えた学校祭のステージを裏側を表現するところが非常に興味深かった。開園直前の心情がうまく表現されていた。
 さらに廊下の壁はスクリーンの役割も果たしており、プロジェクターを使ってメールの内容を視覚的に伝えていた。観客に伝わりやすく、効果的であったが、表示する文面についてはもう少し追究する余地があるのかも知れないと感じた。最後のメールの相手がわかる瞬間、これまでの主人公の心理が一気に観客の心に乗り移ったように感じた。
 全体を通して、高校生のリアルな悩みをリアルな日常の中で表現しており、それを効果的に伝えるための舞台装置や照明・音響効果がうまく連携されており、非常にバランスの良い劇として仕上がっていた。



 (愛知県)刈谷東高校 上演14

「手紙 2015」  兵藤 友彦  作

《生徒講評委員会》

 「手紙 2015」は、今までにない劇で私たちに衝撃を与えてくれた。一つ目に、最初から最後まですべての台詞が手紙の文章を読み上げるという形を取っていたことだ。二つ目に、言葉よりも身体表現や表情によって感情や人物の状況を伝えていることだ。私たちが普段観ている劇では直接対話をすることによって主人公の心情などが変わっていくため、この仕組みに新鮮さが感じられた。
 この劇のテーマは、自分で変わることの大切さだと感じた。三上と石川は、引きこもりから抜け出したいと思っていたが抜け出せずにいた。劇中で、奈木野がドラえもんの歌を歌うシーンがあったが、その後の「でもね、ドラえもんなんていないから。なら私自身がドラえもんになって…」という台詞から結局最後は待っているだけでなく、自分で行動しないと何も今の状況は変わらないという彼女の強い思いが伝わってきた。
 印象に残った点として、まず役者たちの身体表現の技術力が高く、椎名林檎の曲に合わせてスローモーションで動くシーンでは、現状から抜け出したくても抜け出せない苦しみが身体全体で表現されていた。また、最後に石川と三上が奈木野に向かって歩いていくシーンで、一度奈木野は二人に気がついて下を向くがその後またすぐに前を向いて二人に笑いかけるところがとても印象的だった。奈木野は二人に対して手紙の中で架空の人物になりすますという嘘をついていて、その嘘によって最終的に二人を演劇部の部員にした。その罪悪感から一度下を向いたのではないだろうか。その後笑いかけたことで、二人の存在を認めたことが感じられた。自分の高校を劇中の舞台にし、また、役名を本名にするという工夫がこの劇に現実味を与えていた。
 劇中には加藤や鈴木など奈木野演ずるところの架空の人物も登場する。不良にあこがれる石川に対しては暴走族メンバーの加藤として、人目を怖がる三上に対しては優しいお姉さんの鈴木として、文通をしている。このことが、結局は奈木野が書いている手紙に説得力を持たせ、二人の演劇部入部に強い影響を与えてゆく。パソコンで手紙を書いた理由は、パソコンで書いた場合は筆跡など架空の人物になるときに自分にとって不利になることがなく、架空の人物だとばれないためではないだろうか。
 手紙を通して、不登校である女子中学生が今までの自分と決別し、刈谷東高校に入学することで新しい自分へと変わっていく力強い劇だった。引きこもりでなくとも、現状から抜け出したい人にもぜひ観てもらいたい劇になっていた。
 刈谷東高等学校の演劇部の皆様、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

総評参照



 (岐阜県)岐阜農林高校 上演15

○「Is(あいす)」  岐阜農林高校演劇部 作 (潤色)

《生徒講評委員会》

 この劇は農業高校が舞台の作品だ。少年が語るのは父・愛知の高校時代の思い出である。女子バスケットボール部を作ることを望む転校生の少女Sと出会い、ぶつかっていく中で、バスケットボールとイチゴ栽培に夢中になっていく愛知と仲間たちの物語である。
 感じ取ったテーマは3つある。一つ目は本音をぶつけ合える仲間を見つけることで成長していくSの姿に表される「友情」である。二つ目は劇中の愛知のセリフ、「バスケが好きなら本気でやれよ」に象徴される、「好きなことを全力ですることの大切さ」である。三つ目は自分一人ではイチゴを育てることもバスケットの試合をすることもできないということから「仲間の大切さ」である。
 また劇中には、観客の集中力をとぎれさせない、飽きさせない工夫が多くあった。例えば、バスケットゴールの裏側にはアイスクリームを製造する機械があり、装置を回すだけで場面転換ができた。配達用の軽トラックを舞台上に登場させたり、出演者全員で『レ・ミゼラブル』の労働者の歌を歌うなどの演出もあった。音響や照明、役者の演技に緩急があり、常に変化のある舞台であった。
 この劇では、ドリブルやパス、シュートをパントマイムで行う演出がされており、その時は必ず手の動きや動作とぴったりと合った効果音が使われていた。また、走ってドリブルをするなどの体全体の動きだけでなく、ボールを指先で回したりする様子は、バスケットボール部員の自然な動きを表現していた。また、バスケットボールをゴールへ入れたとき、ゴールネットが揺れる工夫なども劇にリアリティをもたらしていた。
 この劇のタイトルである「Is(あいす)」には、二つの意味があると考えた。一つ目は、愛知の「I(あい)」と少女「s」のことである。これには「愛する」という意味も込められていたのではないかと考えられる。二つ目は、アイスクリームとかけているのだろう。そしてアイスクリームのことを、思い出と解釈した。なぜなら、腐っていくイチゴを長持ちさせることができるアイスクリームとは、風化する記憶を心にとどめておくことができる「思い出」のように捉えられるからだ。
 演劇でバスケットボールの試合を表現することは難しい。役者の優れたパントマイムや裏方の細部にわたるこだわりが見事に合わさり、試合の緊迫感を上手く表現できていた。仲間と本気で作り上げることの大切さを改めて気付かせてくれる劇だった。
 岐阜農林高校のみなさん、お疲れ様でした。




《専門家・顧問審査員会》

 農林学校でのバスケと授業を通した青春芝居。バスケのシーンにおいて一切ボールを使わずに、すべてパントマイムと音響効果で表現しており、見事であった。また舞台装置もすべて可動式でありシーンごとに配置を変えることにより場転としての効果をしっかり果たせていたように思う。
 台本の本筋は通っているが、授業の補講により男子バスケ部が練習に遅れそうになり焦っているシーンは、彼らのバスケへの熱意がいまいち観客に伝わっていない状態で進んでいたため飲み込めずにいた。バスケを愛する者同士の「楽しむ」か「勝利」かという部活動におけるいつの時代でも根本にある問題にも取り組んでいたが、やはりSや愛地の「バスケへの熱意」が観客に伝わっていなかったように感じたため消化不足である。Sが舞台上で起こすトラブルやいさかいが「バスケが大好き」という理由で留まっており、単なるわがままな人間に映ってしまっていたがために魅力が感じられず、愛地がSを好きになる理由が薄かったように感じる。主人公をもっと魅力的に描けば会場から多くの共感を得ることができ、自ずと「熱意」は伝わるのではないだろうか。
 舞台装置について。バスケットと農業高校を組み合わせるにあたって舞台美術の方向性は見事であった。農業学校を見たことのない人でも納得できるビジュアルを造り上げており評価できる。しかしながらバスケットゴールはセットの主役であり、両サイドのフェンスがバスケットゴールより高さがあるのは惜しい。舞台美術において幕が開いた瞬間の観客の目線の動きは、中央→高いもの→その他の空間となることが多い。最初の印象値をバスケットゴールに持っていくことがこの脚本の大事な部分だと思うので、モチーフとしての「バスケットゴール」を中央の最も高い位置に持っていくことで成されるだろう。高校演劇において仕掛け付きの装置をバトンに仕込むのは苦労するだろうが、チャレンジして欲しい。
 全体として役者・スタッフの息の合い様が素晴らしく、クオリティがとても高かったため見応えがあった。カイゴロシでずっとゴール下に居られた方、裏方のプロとして感服しました、お疲れさまでした。



 (福井県) 福井農林高校 上演16

○「クロニクル」   玉村 徹 作

《生徒講評委員会》

 この劇のテーマは、「何かの犠牲で今の私たちは生きていられる」ということだと感じた。何かを犠牲にしなければ成立しない私達の世界は、弱肉強食の世の中であるということだ。二限目に「米の命を犠牲にして生きているという」セリフがある。また、凍死しそうな人間を食べて生きようともしていた。そして、六時間目の語り部のセリフで「生き物はみんな何かの死骸だったのです。」というものがある。これらから、生き物は何かの犠牲の上でしか生きることが出来ないことが物語られている。
 私は、最初と最後のシーンがほとんど同じだったところを印象的に感じた。セリフの過半の類似は、歴史が長い時間をかけて繰り返されることを示すためであろう。このことは、劇が学校の授業形式であったところからもうかがえる。学校の授業は、毎日繰り返し私たちが行っていることだ。授業の繰り返しと歴史の繰り返しをかけているのだろう。セリフ内容の微妙な違いは、繰り返される歴史の流れの中で人間は過去に学びながら少しずつ成長することが出来ることを伝えるためであろう。また、「泣いても笑っても明日は来る」というセリフは、どんなことがあっても歴史は刻まれ続けていくことを暗示している。そのほかにも、セットの大きな板には新聞が貼ってあって「歴史」というものを強く感じた。照明の色が舞台とリンクしていたおかげで、セリフだけでなく、視覚的にも舞台がどういう状況なのか知ることが出来た。
 タイトルの「クロニクル」とは、年代記・編年史という意味である。おそらく、人間の誕生から今日、そして起こるであろう未来の年代記である。人間の誕生というのは、プロローグの語り部のセリフであった「そうして人間が生まれた」というところから、今日というのは五時間目の宇宙戦争という授業から読み取ることができる。例えば、戦争をするのはネットニュースで見たからだ、というのは現代のネットの影響を多く受ける世の中のことを示していよう。また、ポンポコ連邦政府がドンドコ帝国の言葉を理解できずに殺されるシーンがあった。これは、いろいろな言語や思想、文化などの違いから戦争が起こるということを表しているのだろう。
 この劇は舞台のセットは大きな板がいくつか建っているだけで、キャストの衣装はパジャマというシンプルなものだった。シンプルな小道具と言動で、場面を表していたのでとても分かりやすかった。しかし、セットや、衣装を使ってその場を表すことはとても難しいはずだ。それを、違和感なく観せていたところが純粋にすごいと思った。
 福井農林高校の皆さん、お疲れ様でした。




《専門家・顧問審査員会》

 新聞が貼られた何枚かの縦長のパネル。装置はほとんどそれだけのシンプルな舞台だが、そこで繰り広げられる時空はとても変幻自在で、重層的である。一日の授業というようなミニマムの時空から、米の一生、人の一生、そして、人類、いや宇宙の生滅というような極大の時空まで自在に拡大したり縮小したりする。だからといって複雑なわけではない。とてもシンプルで分かりやすい。主役は「つながれてゆく命」であることに徹しているからだろうか。
 キャストの演技も淡々としていて、ともすれば力の入りすぎの熱演の多い高校演劇の中で、リラックスして見られた。決して単調でつまらないわけではない。東京の片隅で生きる演劇青年のエピソードは昭和レトロで、審査員のおじさんたちに受けていた。作者の思い入れのあるシーンだろうか。高校生の感覚ではないよなーと思いながらも、じーんと来てしまった。でも、それも一つのエピソードに過ぎない。この劇には、特定のいわゆる主人公はいない。主人公は「時間」であり「命」なのだから。そこに、近代的自我の物語が終わった後の新たなる物語の可能性を見た。
 人間は、あまりに個人の自我を肥大させすぎた。神を殺し自然を殺した。その結果拠り所とする何者かも失った。大きな物語も失ってしまった。そんな人間に新たな物語の可能性はあるのか。中途半端な大きさの物語が、他の物語への抑圧や軋轢を生んでしまう。
 楽屋で会った福井農林高校の演劇部員諸君は、とても素直で素朴で、炊き立ての米のようにつやつやと光っていた。地に働き命をはぐくんでいる自信やゆとりのようなものを感じた。「クロニクル」は、そんな子たちが生み出した、壮大で、素朴で、淡々とした、でも、自信にあふれた物語であった。



 (石川県)野々市明倫高校 上演17

「私の上に降る雪は」   青木 尚志 作

《生徒講評委員会》

 この劇は、「中原中也」などの実在した人物を登場人物として、所々に中也の代表的作品を織り込んだものである。観劇直後に強く印象に残るのは、巧みに描写された登場人物の心理変化、そして中也の人間性である。
 劇中の現時点は冒頭とラストシーンに描かれる心身ともに衰弱した晩年の中也であり、この間に中也の半生が回想として挟み込まれるという構成で劇は進行する。回想時の妻である泰子、そして現時点の妻である孝子、二人の「幸せ」に対する価値観の対比、そして「死」に対する考え方などが、大正から昭和を生きた人の心情を通して伝わって来る。
 それぞれが様々な考えを持つ中、中也はその中でもひときわ異彩を放つ人物だったといえる。皆が自分の幸せを優先する中、中也だけは他人の幸せを優先しようともがく。何より、「人が人を幸せにすることはできない」と思っていながら、実際は他人の幸せのために、自分が不幸になることすらためらわない姿勢を保ち続けている。その一見矛盾しているような所が、中也の人間らしい一面ともいえるだろう。
 また、他人の幸せを優先させるだけでなく、中也には、他人の悲しみを深く感じる一面もある。自分たち家族の生活が苦しいにも関わらず、自分を裏切った前妻の泰子に中也は生活費を渡し続ける場面で、現在の生活を必死で守ろうとする孝子に対して、「あいつは哀れな女なんだ」と康子を弁護する中也のセリフにも、それが表れている。
 この劇のラストシーンでは中也の上に雪が静かに降る。自分という存在が、他の人を不幸にしたのではと後悔する中也。他人の幸せを願い続けた彼を観て儚い雪と報われない思いが重なるようだった。結局、中也が他人の幸せのためにしてあげたことは、ついに報われることなく終わってしまった。しかし、自分以外の誰かのために己を犠牲にする中也は、孝子を孤独から救い幸せにしていた。中也のしていたことは、報われはしなかったが決して無駄ではなかったのだ。
 「私の上に降る雪は」には、「幸せとは何か」という単純なようで難解なテーマが描かれる。一人ひとりが、自分、あるいは他人の幸せのために動き、報われることも報われないこともある。中也の生涯は、幸福とは言えないものかも知れない。しかしそれは、己自身の生活が決して幸福でなくても「幸せ」は有り得るのだと、「幸せ」の可能性を広げているように感じさせてくれた。
 野々市明倫高校の皆さん、お疲れ様でした。



《専門家・顧問審査員会》

 個人的に好きな作品で、よく挑戦したと思う。特に中原中也の役は1年生が演じていて、努力の跡がよくわかる。舞台装置もよく頑張っている。
 転換はよく纏まっていて動きも綺麗なのだが、完全に暗くできないので、いっそのこと青色にして見せてしまった方が良い。真ん中の台が奥過ぎて演技が遠くなってしまったのが残念だ。緞ギリまで出した方が良い。台上の芝居については、トランプの時の中也の様子が見えにくかったので工夫が欲しい。朗読の仕方について演出上の工夫の余地がある。道具は器用に作ってあるが、道具以外の全体的な質を上げると、道具が生きてくる。最後の雪は、量が多すぎて全体で固まって落ちてしまい、湿った雪のようになってしまったのが残念だ。素材や大きさを工夫すると幻想的な雰囲気になる。
 この手の作品をやる場合は、時代背景や歴史の考証が不可欠で、登場人物の履歴を検証し、全員で共有する必要がある。当時の17歳は現在の17歳とは全く違う。少なくとも10歳は足して考えないと、現代の高校生が高校生のまま演じているようにしか見えない。衣装についても例えば着物一つとっても、正しい着方でなければ雰囲気を損なってしまう。難しい言葉や詩が出てくるのなら、その理解や解釈についての充分な話し合いも求められる。そうでなければ地に足がつかず、言わされている感が出てきてしまう。
 課題はたくさんあるけれども、こういう作品に取り組む意欲は素晴らしい。今後に期待したい。


審査員総評
 ≪佃 典彦先生≫
 前回の岐阜での中部大会に引き続き二回目の審査員となりました。
全大会にも出場した高校もあったりして何となく各高校の特色なども判ってきました。演劇において脚本は言わば船です。稽古始めで出航してから稽古中の様々な困難を乗り切って本番までの航海を沈没せずに無事に終わらせるだけの頑強な船でなければなりません。既成脚本とは言い方は良くないですが「借り物の船」です。大抵の場合、一度は航海が成功した船を借りて来ることが多いでしょう。そういった意味で僕は創作で勝負をして貰いたいと考えています。今回、十七校のうち創作脚本が8校で約半分です。これが他の地域と比べて多いのか少ないのか知りませんが、僕は三分の二くらいあっても良いと思います。
 では各高校、上演順に講評させて頂きます。
@ 北陸学院高校
 各校別にて講評済み
A 富田高校
 リチャード三世を元ネタにした創作脚本で僕はワクワクしながら観てました。僕自身、原作モノを基にして作品を書くことが多いのです。仕事で依頼される場合は大抵このパターン。
基本的には原作が悲劇の場合は喜劇に、喜劇の場合は悲劇に創りあげた方が効果的です。その点でこの作品は悲劇を使って悲劇を表現してまった点で少々勿体無いのです。逆にした方が原作の本質を捕まえやすい上、独自の世界観を反映させやすいからです。ただ、誰もリーちゃんをイジメてる訳じゃないのに自分が抱えたコンプレックスで辛さの深みに入ってしまう話の流れは凄く面白かったです。
B 奥越明成高校
この作品に僕は非常に心を動かされました。とにかくマイムだけで最後までやり切った事に敬意を表したいです。マイムをやりながらセリフを正確に言うのはかなり難しいです。相当に稽古したんだろうなと思いました。灯台の明かりのシーンは泣けました。ホリの色変化も上手くて世界とマッチしてました。ただ、セリフのトーンがずっと変わりなくて登場人物たちのニュアンスの変化がもう一つ感じ取れなかったのが残念です。
C 中津商業高校
 緊張感のないゆる〜い立ち方、動き方、セリフの言い方、全てが楽屋から出て来てそのまま舞台に立っちゃった感じで始まった時は「おいおいどーなるんだコレ」って心配しながら観てました。が、途中からツボにはまってしまいました。演劇部の話で等身大なのでこのユルさ加減が適温に感じる様になったのです。とにかく加藤君と沼田君のコンビが良い。二人の普段の関係性がそのまま舞台を通して伝わって来ます。卒業してからもずっと二人で何かしら続けて行って貰いたいと願います。今、活躍している演劇人も部活で得た仲間と何十年一緒に続けて成功してるのです。
D 蒲郡東高校
 台本はさすがに亀尾先生の作品で構造が上手いです。いかにして「借り物の船」を自分達で乗りこなすかがカギです。その点でかなり成功していたと思います。セリフのテンポと身体のスピードが合っていますし、いきなりホラーから始まるトップシーンからの導入も効果的でした。勿体無いのは登場人物たちの位置取りです。センターの机に集まって喋るシーンが多くて、登場人物たちの敵対や同調が今一つ感じられないのです。結果、俳優はセリフを必死に喋ってそれを補てんしようとしてしまう。感情過多になってしまいます。登場人物の「気持ち」を表現するのは距離と位置です。
E 南砺福野高校
 この台本も既成脚本で過去に成功した「借り物の船」です。いかにして自分達で乗りこなすかがカギですが・・・充分に乗りこなせなかったなぁと言うのが正直なところです。もっと自分達にあった作品があるんじゃないか?その辺りの議論がもっと必要です。それか創作脚本で勝負するか。こう言ったディベート中心の芝居では誰が誰に何を伝えて誰の言葉が誰に響いたのか、それがハッキリしないと話が先に進みません。それには正面向きの芝居が多過ぎるのです。セリフを伝える相手は観客ではなく、舞台上の誰かでなければなりません。
F 春日井高校
 女生徒たちがバカをやり切ることで「借り物の船」を見事に乗りこなしました。全員が個性的で非常に面白かったです。とくに桃子さんの爆発力には驚きました。先生役の男子生徒が弱々しいのも対照的で良かったです。どの世代の女性にも共感できる様に創られていると感じました。これだけ役者たちの力でグイグイ引っ張るなら教室の壁とか扉とか具体的に必要ないのではないか?机と椅子だけで十分だと思います。
G 岐阜総合学園高校
 「あゆみ」は柴幸男さんの演出したモノを三回観てまして、どうだろうかと心配していましたがかなり見応えがありました。相当、練習したんだろうと思います。チームワーク、スタッフ力、総合的に素晴らしい。勿体無いのはこの作品にはどうしても床面が必要なのです。床面を踏みしめるところが視覚的に重要だと僕は思っていて、劇場に作品が今一つ合ってないのが残念でなりませんでした。仕方ないんですけど、作品を創る上で劇場との相性って実は結構重要だったりするのです。
H 大同大学大同高校
 僕は今大会で一番笑わせて貰ったのがこの作品でした。もはや高校生に見えない登場人物、特にお爺さんには正直負けました。彼のキャラには勝てません。学生服を着ている姿が想像出来ません。つくづく役づくりとは内面から作るモノではなくて外面から作るモノだと再確認しました。ラストの自転車で走り、飛ぶ場面はもっと工夫出来たらと思います。少なくとも交番は隠してしまいたい。
I 高田高校
 各校別にて講評済み。
J 金城学院高校
 かなり少女マンガっぽい怖さを抱えた作品でした。バレエ、チョコレートと言った女子が好きなアイテムを使いながら心理的恐怖を炙り出すのは上手いと思います。ただ、演劇はモノローグで心情を吐露してはいけないのです。一見、演劇的な雰囲気はするのですが実は一番演劇と遠い手法だと僕は考えています。それを演劇的にするには圧倒的なスピードと独自のリズム感が必要です。僕としてはもっとバレエを踊って欲しかったです。
K 暁高校
 エンターテインメントの台本の書き方の基本に則った上手い脚本です。人数がたくさん出て来るのに全員がしっかりと役割を演じて一人一人が立っています。部室の雰囲気も非常にリアリティを感じました。ただ派閥の人数が四人ずつでキッチリ分け過ぎてしまったのが惜しいです。派閥の対立構造がイーブンになってドキドキ感が薄れてしまうからです。舞台後ろの段の使い方が勿体無いです。もっと効果的に使わないと横一列の芝居が多くなってしまいます。元気があって少年漫画みたいで僕は好きでした。
L 富山第一高校
 さすが前回、全国大会に出場しただけの完成度がある作品でした。特にトップシーンのキレの良さは抜群です。教室を椅子だけで表現しているのも成功しています。誰か一人、二人飛び抜けた役者がいるのではなく粒揃いでまとまっています。高校生の会話がリアルでジーンと来たのですが、僕には主人公の青山君の心の変化がもう一つ感じ取れませんでした。軸になるべきなのに語り部に終始してしまって傍観者になっているからです。もっと中に入ればドラマが弾んだのにと思います。
M 刈谷東高校
 僕は今大会の中でこの作品がイチオシでした。相当に凄い身体能力だと脱帽しました。あのスローな動きでブレることなく一曲分丸々やり遂げるとは。しかも椎名林檎の歌声とバッチリ合って泣けてしまいました。あの圧倒的音量が必要なんだと思います。とにかくもう一度観たいと思ったのは今回この作品でした。機会があればまたどこかで観てみたい、と言うより体感したいです。
N 岐阜農林高校
 昨年は野球で今回はバスケ、本当にスポ根ドラマが好きなんですね。話の展開もエンターテインメントの書き方に基づいていて非常に明解でヤマ場の作り方も上手いです。何よりも圧倒的な群像劇であるところが魅力的です。バスケットゴールの揺れるのに感動しました。あの仕掛けを担当している生徒に特別賞をあげたいくらいです。二年連続で僕は見ましたが少々、伝統に縛られている様にも感じました。次には全く違うジャンルの芝居も観て見たいです。
O 福井農林高校
 何もないところに現れて「人間です」という始まり方は秀逸です。僕はこういうの大好きなのでワクワクしました。衣装もパジャマなのが良いです。世界は農業のように繰り返し繰り返し続いていくという宇宙観を感じました。転がっている死体に「起立」「礼」と言うシーンは非常に感動しました。もう少し役者たちが意識的に舞台上に立っているともっと良くなると思います。全体的にメリハリがなくなってしまった点が惜しいところです。柱の立て方は客席に平行にしないと見切れてしまいます。
P 野々市明倫高校
 昭和十二年という等身大ではない役どころによく挑戦しました。恐らくセリフが馴染まなかったり厄介な言い回しが多かったことでしょう。僕にも経験がありますから難しさは判ります。が、敢えて言いますと男子の背筋が気になります。セリフを言う時の手が気になります。まずはピシッと立って真っすぐ歩くところから練習が必要です。転換があまりにも長過ぎます。細かい部分の積み重ねで芝居は出来上がるのでその点を注意すると良いと思います。

以上で総評とします。
 自分達の観たい世界、体感したい世界を自分達の言葉で表現する。そういった作品創りを目指して頑張って下さい。期待しております。
 ≪岡田 保先生≫
 今回私の中で掲げた「高校演劇らしさ」とは「自分たちがお芝居を創るにあたりどれほど楽しめたか」であり、その点において強く評価を重ねてあることを先に記す。より楽しんで、より愛して創ったそのお芝居は細部まで非常に高いクオリティになる。学業に勤しむべきであろう皆様の貴重な時間・青春を費やして創ったその作品は、私の目から見てもとてもクオリティの高いものが多く、驚かされた。
スタッフ側の専門審査員として観た今回の中部大会の講評を以下に記す。講評を担当した2校は各校別講評にて記載させていただく。
 北陸学院高等学校『私立まほろば高等学校落語研究同好会の輝ける歴史』葛谷が上手下手に動く様は動きがあり楽しいものだった。後方にある机と椅子を動かさずに舞台転換が出来ればより葛谷が引きたっただろう。富田高等学校『リーちゃんV世』中央の正方形を主な演技スペースとして使っており、広い会場の視線を効果的に集めていた。奥にある高見が暗い照明効果により見えにくくなっており、せっかく施した塗りが把握しづらかったのが残念である。奥越明成高等学校『ノー・ニュークス』セットが一切なく、全編パントマイムによる動作のみでヨットを表したのはすばらしい。8割の観客は舞台にヨットの船影を見たのではないか。残り2割の観客にも船影を見せるには何が出来るか、これは我々プロにとっても永遠の課題である。灯台の明かりを表現したピンサスは、あの会場にとても効果的に映えていた。中津商業高等学校『とりあえずやってみよっか』エチュードによって全編が進んでいく(ように見せる)お芝居。故に最初から用意されているBOXに違和感を感じてしまった。最初は何も共通点のない大道具や小道具を強引にエチュードに巻き込んでいく、という構図を観てみたかった。蒲郡東高等学校『ぽっくりさん』具象舞台で教室を作り上げている。クオリティも高く、窓から飛び降りてもパネルが揺れない・着地の音がしないなど細かいところまで気を使っていた。下手の出ハケ口が学校の扉を表しているのであれば明かり窓が無いことに違和感があった。南砺福野高等学校『七人の部長』7人の部長が会議しながら本編が進んでいく。会議室の机を開いて対立の構図を見せていたが、故に動きが少なくなっており、舞台美術で補う余地が見えた。如何に役者を動かすか。部屋の隅に役者が移動しやすい椅子や棚を置いたり、机を除外し椅子のみの動きで対立構造を際立たせるなどの方法もあるか。春日井高等学校『イ=ストーリー』具象で教室を作り上げていた。舞台を間口いっぱい使い切っていたが、登場人物が少ないので集中力が散漫になりやすく、セットの間口はもっと狭くても良かったように思う。大同大学大同高等学校『交番へ行こう』町の交番を造り上げており、完成度では群を抜いている。音響効果などで「公園の遊び声」や「車の行き交う音」など、どの程度の町の規模なのか伝えて欲しかった。高田高等学校『M』具象舞台で教室を造っていた。廊下での演技のために窓があるが、その奥の窓と差別化しきれていなかったため、視覚的に見づらくになっていた点が惜しい。金城学院高等学校『kitsch』バレエ教室をモチーフにした舞台美術。開演時、鏡の奥が開くと階段があり頂上には欲望の象徴であるチョコレートがある。ラストシーンで階段から突き落とすが、そのモチーフである中央の階段の意味合いが分かりにくくなっていた。モチーフを作るならば、それがより本編と絡む作りに挑戦して欲しい。暁高等学校『オトコーラス』音楽室を作り込んであり素晴らしい、説得力があった。せっかく舞台中央にひな壇があるのだからもっと座り込むなどの工夫で画に対して高低差をつける演技プランも見てみたい。富山第一高等学校『Re:大丈夫か?』セットと台本との相性はダントツで良かった。演出の意図を汲んでいる舞台美術である。どんなパーツを置けば教室に見えるか?を最小限のアイテムで創りあげている点を高く評価したい。刈谷東高等学校『手紙2015』全編を通して最小限のセットと地明かりのみで構成しておりシンプルながら高い次元でまとまっている。今回の小屋の特徴としてあまりに明るい床色のため、舞台すべてを地明かりで包むと観客の集中力は途切れやすい。明かりを少し舞台中央にしぼるか、作業灯などで上幕まで照らす方がより演出意図が伝わるのではないか。福井農林高等学校『クロニクル』時の流れを表す為の新聞紙パネルが、時のサイクルを表すために円形に置かれている。演出における舞台美術のアプローチは伝わってきたので、より深く、ところどころ新聞紙をセピア色にする等工夫が見たかった。野々市明倫高等学校『私の上に降る雪は』時代物に挑戦した点を高く評価する。セットの作りを工夫した転換を行っているので、ブルー転換などの「魅せる場転」で観客の集中力を維持できたであろう。
 ≪樋口 泰子先生≫
 今回初めて、参加をさせていただきました。高校演劇出身の私にとっては、自分の芝居の原点に立ち返ることもでき、とても刺激的で幸せな時間でした。ありがとうございました。
 以下、総評とさせていただきます。奥越明成高校と暁高校は各校別講評をご参照下さい。 北陸学院高校『私立まほろば高等学校落語研究同好会の輝ける歴史』みんなで作り上げようとしている芝居の世界観が一致していたので良かったと思います。ラストの客席を巻き込んでの演出は、その思い切りの良さに驚きました。転換時の机やイスの扱い方や着物の着方など、細部も気にしてみてはいかがでしょう。
 富田高校『リーちゃんV世』シェイクスピア作品を女子高生の悩みに置き換えた発想力が素晴らしいと思います。全体に照明が暗く、演者の表情が見えないのが残念でした。コロスメンバーの人数が多いので、それを武器にした演出があると更に良かったと思います。
 中津商業高校『とりあえずやってみよっか』エチュード芝居を舞台にのせるという大胆さに興味を惹かれた作品でした。せっかくチャレンジをするのであれば、台本上の決め事とフリー演劇の差が全くわからないくらい堂々と楽しめたら、演者一人一人の魅力がもっと出たのではないでしょうか。
 蒲郡東高校『ぽっくりさん』演者のアンサンブルがとても良かったと思いますが、スピード感が必要なシーンになった時にジャスチャーが多くなり、自分の状況や心情を説明しずぎてしまう点が気になりました過剰演技になりすぎないように気を付けてみて下さい。
 南砺福野高校『七人の部長』せっかくいろいろな個性を持った役がたくさん出るのに、もったいないなと思いました。この芝居の面白さはどこなのか。役が何をきっかけにどう変化していくのか。そんなことをより深く考えてみたら、もっともっと舞台上で楽しめるかもしれません。
 春日井高校『イ=ストーリー』女の子ばかりでこのはじけ感は見事でした。個々のキャラクターの住み分けもはっきりしていて様々な絡みを見せてくれ、目が離せませんでした。時々、観たい演者の表情が暗くて見えないのが残念でした。
 岐阜総合学園高校『あゆみ』演者8人の息の合った動きやセリフに脱帽しました。欲を言えば、この作品を通して自分たちは何を伝えたいのか、岐阜総合さんなりの解釈を舞台上で見たかったです。
 大同大学大同高校『交番へ行こう』本番中にハプニングがあったものの、集中を切らさずに観客を笑わせ、演じ切ったのが素晴らしかったです。家出少女の父親がどんな人物か、もっと想像できるとよいと思います。
 高田高校『M』ラストのホラー性がとても衝撃的でした。セリフが、物理的な音としては聞こえるのに意味が分からない、ということが多くて残念でした。自分がしゃべることに一生懸命にならず、セリフを相手に渡すこと、言葉をきちんと届けることを意識すると良いと思います。
 金城学院高校『kitsch』他人への妬み嫉みなど誰もが抱えているかもしれない心の闇と、華やかなイメージの「バレエ」や「チョコレート」。これらを一つの題材としてまとめたのは、女子高という環境だからこそ培われた視点があればこそだと思います。主人公が闇に取り込まれていく変化がもっと明確に出ると良いと思いました。
 富山第一高校『Re;大丈夫か?』演者たちの肩の力が抜けていて、物語の中の一人としてナチュラルに存在しているのが素敵でした。カンニング事件が起こるまでのシーンをどう魅せていくか、もう一工夫あると更に観客の共感が得られたのではないでしょうか?
 刈谷東高校『手紙2015』役者が舞台上で他人を演じる時、その演技やセリフに実感を持たせるためには現実の自分をさらけ出すことが大切だと、改めて思った作品でした。3人の演者に、拍手です。
 岐阜農林高校『Is(あいす)』実習など農林高校さんならではの日常のリアルと、エンターテインメント性のバランスがとても良かったです。作品中に描かれた「バスケ部愛」がそのまま部員50人以上の「演劇部愛」なのではないかと感じた、とても熱い作品でした。
 福井農林高校『クロニクル』扱っているテーマそのものは面白いのではないかと感じるのに、はっきりと読み取れなかったのが残念でした。シーン中、あるいはシーン毎に緩急をつけたり、照明で観客の集中を切らさないようにするなどの工夫を加えると、より伝わる作品になると思います。
 野々市明倫高校『私の上に振る雪は』今大会唯一、実在の人物を題材にした内容だったので、興味深い作品でした。史実や時代性をどこまで表現するかなど、難しい点はいくつもありますが、着物の着方を研究したり、所作を工夫してみるなど、身近なことからアプローチすると、演じやすくなると思います。